三十八話 『うたかた肆』

 奇妙に隙間の空いた満員電車の中にいる。その空間で俺はひっくり返した机に乗って体育座りをしていた。四方を囲む机の脚が鬱陶しい。

 内装から予想するにここは山手線だ。見覚えがある。


「いつまで乗り続けるの?」


 吊革につかまった彼女が興味無さそうに言ってきた。もう太陽が地球を三週するぐらいは乗っているので飽き飽きしているのだろう。


「別に関係ないだろ」

「何よ。ふてくされて。かわいくない」


 俺はそんな従姉を見もしないでぶっきらぼうに答えた。しかしそれが彼女の不興を買ってしまったようだ。

 俺は何も悪くない。受け答えぐらい好きにさせろよ。

 きっと彼女も満員電車で気が立っているのだろう。この人ごみを散らせば機嫌も直してくれるかもしれない。腕を振るって風圧で乗客を飛ばそうとした。でも彼らはピクリとも動きはしなかった。


「無駄だよ。どうせそんな勇気は無いんでしょ?」

「……姉さんにならできるのかよ」

「お前よりは上手にな」


 そう言いながら俺たちはガタンゴトンと電車に揺られている。彼女の手は言葉に反して、だらりとぶら下がったままだ。どうやら乗客を強制下車させるつもりは無いらしい。傍若無人な従姉にも常識はまだ残っていたようだ。

 その事実に多少安心する。乗客には知らない人も大勢いたが、小学校や中学校の同級生、それに叔母さんも乗っていたからだ。


がそんなに大切なの?」

「大切なんかじゃない。敵だ」

「へー。まあ、そういうならいいんじゃない?」

「なにか言いたいのかよ」

「べっつにー……」


 どうやら従姉はこの乗客たちに不満があるようだ。俺だって大いに不満だ。なんでこんな狭い電車の中で酸素を奪い合わないといけない。


「そんなに嫌いなら最初っから乗せなければいいのに」

「……」

「私は乗車させるつもりは無かったんだよ? お前が勝手に乗車させたんだ。むかつく」


 周りを見渡す。彼女の友人はいなかった。そもそも彼女に友人がいるかどうかは怪しいのだが、とにかく彼女とゆかりのある人はいなかった。


「お母さんがいるだろ?」

「……母さん? 違うね。お前にとっては叔母さんだし、私はあの人に勘当されたからね」

「それでも保護者だろ」

「保護者で女なら母親なの? バカみたい」


 まるで虫でも見るかのような冷たい目で俺を見てきた。心底軽蔑しているらしい。そんなに俺が嫌いならばさっさと電車を降りればいいと思うのだが。

 それでも俺の真横を誰にも譲らないのは彼女の本心だろうし、同時に俺のエゴだ。いつの日か俺たちの関係は歪んでしまった。


「というか本当にアレって保護者なの? 答えられないでしょ?」

「……」

「昼間から酒飲んでさぁ。なんだっけ? ご飯も掃除もお前がやっているもんな。金を稼いでくるのは父さんだし。あいつなんかやってんの?」

「……」

「っぷ、ふふふ、ははっは! やっぱり答えられないか! だよな! お前はかわいそうなやつだなぁ……」


 何も言えない。叔母さんは事故で家族を失った俺を引き取ってくれた。居場所をくれた。初めはちゃんと面倒だって見てくれた。

 けれども今ではただのアル中だ。食卓テーブルで延々と酒を呑み、機嫌が悪い時にはわけのわからないことを言いながら酒瓶を投げてくる。それでも俺にとっては恩人だし母さんだ。


「ああなったのは姉さんも悪いだろ」

「悪い? 私が? ええ、まあそうね。でも決定打になったのはお前だよ。お前。お前が私の家に来たせいで一家離散だ。ざまぁないね」


 ねちねちと恨みつらみを言う。事実を言っているところがたちが悪い。実際この息の詰まる満員電車も全部俺のせいだ。俺が作った地獄だ。望んで必死に繋ぎ止めた結果だ。

 それからしばらく俺も彼女も口を開かなかった。雨が降り、電車の湿度はなおさら高まっていく。息苦しい。ねっとりとした匂いの染みついた空気が口を抜ける。味蕾についた濡れた匂いが気持ち悪い。

 そっと隣にいる彼女を盗み見た。横顔。特徴的なつり目に細い体。ピンと張られた弓のような緊張を体に宿している。つよそうで、実際につよくて、でもそれ以上に脆い彼女をよく表していた。

 彼女にとってもこの湿度は厳しいのだろう。いつも険しい眉はより一層険しくなっている。不快でたまらない。細い喉を必死に動かして息をしている。苦しそうだった。

 そんな彼女を見て、俺はますます彼女を愛おしく感じた。

 そんなに苦しいなら電車を降りればいいのに。だが、彼女はどんなに苦しくてもここから離れるつもりはないのだろう。本当にバカでかわいそうな人だ。


「……ねえ?」


 彼女を盗み見ているのに気がついたのだろうか? 俺の方を向いて声をかけてくる。あいかわらず苦しそうなのは事実だったが、それ以上に俺に対しての心配が読み取れた。


「本当にこのままでいいの?」


 ぐるぐると回り続ける環状線。そこにめいっぱいの人を詰め込んで必死に関係を維持し続ける。他人から見たらピエロにでも見えるのだろうか? 反論してやろうと思ったが声が出ない。


「お前はお前の人生を生きていいんだよ? お前はどうせお前にしかなれないんだから」


 不思議に思って口を触ると、そこには口が無かった。平べったいつるつるした皮膚で覆われていた。


「……また、だんまりか。そうやってお行儀よくしていればみんな助けてくれると思っているんでしょ? 自分が我慢していい子ちゃんしていれば誰も怒らないって思っているんでしょ?」


 体の変化はそれだけでは無かった。関節が石のように固くなりうまく動かない。机に接している部分はそのまま癒着して離れそうにもなかった。


「私が話しているんだからこっちを向きなさいよ! ねえ!」


 突然頭をつかまれてひねられる。乱暴ではあるが、怪我をするような速度じゃないのは優しさなのだろうか。


「何よ。その顔」


 俺の顔。特に口を見て表情を歪ませる。切ないような、怒っているようなめちゃくちゃの表情だ。

 それからしばらく、くるくると表情を変えると俺を引っ張り、抱きつくようにすすり泣きだした。

 できる限り体を密着させたいようだったが机の脚が邪魔で一定以上は近づけないようだった。彼女も机の上に乗ってこようとはしなかった。

 合わさった肩から彼女の体温が伝わる。温かくはない。むしろ冷たい。触れた指からそうっと氷が張り、パリパリと小気味よく俺を拘束していく。彼女の思いが痛いほどに痛みをともなって感じる。


「……机、邪魔」


 だがそんな薄い氷程度では俺を縛ることはできなかった。机が彼女の動きを制限しているのも理由かもしれない。彼女はもっともっと体温を下げて俺を凍らせようとしたが無駄だった。表面は凍っても芯まで凍ることは無い。

 それに対して彼女はもうカチンコチンに凍っていた。指で叩くとこつんこつんと硬質な音がする。俺をがっちりと拘束したまま氷像となっていた。


 ——これはいけない。

 このままだと学校に遅れてしまう。これでも俺は学校では真面目で面白い学生でとおっているんだ。ご飯だって作れないから叔母さんが困ってしまう。俺は代わり映えの無い世界で同じ世界をぐるぐると回りたいんだ。

 どうにか彼女から離れようと身をよじる。痛い。凍ってくっついた皮膚がぺりぺりと剥がれる。不思議なことに血は流れなかったが傷口からは蜂蜜が流れてきた。ぺろりと舐めてみる。甘い。味覚は無かったが甘いような気がした。


 その蜂蜜の粘りを利用して体を滑らす。おお。いい感じだ。体がぬるりと滑り、彼女の腕から少しずつ抜けていった。硬質で固い分、緩みができてからは早かった。

 そうやって体を捻って腕から抜ける。何度か無理な体勢をした。一度は紙のようにぺらぺらにもなった。ほどほどに体は軋むがどうにか抜け出せた。


 そこで胸に違和感がある。なぜだろうと思うと、彼女の右手が俺の胸板についていた。さっきまでは俺を抱きしめていたのではないのだろうか? なぜここにあるのか。必死に外そうとするが外れない。どうやら俺の心臓まで凍っているようだ。

 困った。

 流石に心臓を取ってしまったら死んでしまう。よくよく見ると俺の心臓の血管は彼女の腕に繋がり、彼女の血液を循環させているようだ。いや、もしかしたら彼女の心臓で俺の血液が流れているのかもしれないが。

 一度首をひねり考える。自分と彼女が死ぬような痛みを伴っても学校に行くべきなのかを悩む。このまま凍ってしまってもいいんじゃないのだろうか? どうせあいつらは敵なんだろ? 俺の味方は彼女しかいない。


 まあ、それでも。どんなに悩んでいても俺はこの後に何をするのかを知っている。なのでこの思考はただの儀式みたいなものだ。仕方がない。

 仕方がないので背後のビール瓶を彼女の腕にたたきつけた。

 ビール瓶って意外に丈夫だ。割れることもなく彼女の腕を的確にへし折った。腕の断面図から蜂蜜が飛び出してあたりを染める。そうか、蜂蜜が体を流れていたのか


 蜂蜜は凍りついた環状線を温めて溶かしていく。ぽろぽろと電車が崩れ始めた。どうやら温かいだけではなく酸性の蜂蜜だったようだ。しゅわしゅわと音を立てて世界が崩れ落ちる。

 彼女も、乗客も、叔母さんも例外では無かった。面白おかしく発泡をして世界が滅ぶ。クラスメイトはそっぽを向き、叔母さんは酒に溺れる。

 失敗した。

 失敗することは知っていた。それでもこの方法しか知らなかった。


「弱虫」


 崩れていく彼女と目が合った。


「お前はお前にしかなれないのに」


 落ちていく電車。底抜けに遠い水平線。ずっと下にある大海原。それと同じ色の空。最後にはひっくり返った机とそれに乗る俺だけが残った。机はふらふらと空中に浮いている。


「あ」


 腕が残っている。彼女の腕だ。胸にがっちりとついたままだ。そこから彼女の残り香を、体温を感じようと手を伸ばす。

 しかし、指が触れる前に崩れてしまった。氷の塊のくせにあっという間に気化して何も残らなかった。随分と都合のいい腕だ。そんな彼女に俺は腹を立てた。


「っ! ……いった」


 じわりと血がにじむ。赤い。胸から痛みがする。服をまくると見覚えのある傷がそこにあった。

 失敗だ。無駄に彼女を傷つけて、俺も傷つけられた。家庭を一個壊したし、俺の居場所も無くなった。誰も悪くはない。強いて言えば俺の思慮の浅さが最大の問題だった。

 ぼんやりと遠くを見る。いっそのこと海に身を投げてやろうかと思ったがそこまで自暴自棄になってはいなかった。太陽がまぶしい。何も考えたくないし、考えていなかった。

 そうして太陽が昇って沈むを見る。何度もそれを繰り返して、気がついた時には俺は目を覚ましていた。


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