三十七話 <とおりあめ弐>
雨が降っている。
くぐもった音がじくじくと心をむしばむ。やはり雨は嫌いだ。だが、リサさんが好きらしいので仕方ないのだろう。それに俺たちに考慮してなのかは知らないが、一応は夜に雨を降らしてくれるのだ。……いや、リサさんが人を思いやるとは思えない。夜に雨を降らすのが好きなだけか。
「今日は何か用ですか? リサさん」
「まあ、まあ、たまにはお話ししようよー」
珍しいことにリサさんからの誘いだった。実際、第九地区の開放からこうやって一対一で話すのは初めてだ。
「最近、遥にかまってばかりじゃない? たまにはお姉さんにかまってよー」
「う……まあ、確かにそうですね」
一応は食事のたびに顔を合わしてはいる。それでも、読書ばかりする遥に俺が付きっきりなのは事実だった。
「遥もよく飽きないですよね。もう二週間は経ったのにあの調子ですよ?」
「そうだねぇー……」
第九地区の開放から結構な時間が経ったのにまだ遥のテンションは変わっていない。目を離すとあっという間に本の虫になる。
「そういえば今朝も何かあったんだよねー?」
「あ。聞こえてました?」
「うーん……微妙に? 朝ごはんにも誰も来てなかったしー」
「あー、すんません……。俺が来れないのはいつも通りなんですけど、遥が寝坊しまして……」
「……え。遥が?」
「そう。あの遥がです」
今朝はなんとあの遥が寝坊したのだ。リサさんも驚いているようだ。そりゃそうだろう。遥が寝坊なんて俺も信じられなかったのだ。本に夢中になって時間に気がつかなかった方がまだ理解できた。
「へー……寝坊ねぇ……」
「どうです? 今まで寝坊とかありました?」
「いやぁ……私の記憶では一度も無いなぁー」
「……ということは初めての寝坊ですね」
「だねー」
今日が初めての寝坊のようだ。健康優良児のアホの子が寝坊するとはやはり大事件なのだ。
「寝坊の原因は夜更かしー?」
「はい。なんか本をずっと読んでいたみたいです。というよりも二週間前からこんな感じで今まで二時間ぐらいしか寝てなかったみたいです」
「なかなかやるねぇー」
「笑い事じゃないですよ……」
俺の報告を聞いてリサさんはケラケラと笑っている。よく考えればこの人も生活リズムがかなり悪い方だし、遥も本能的には生活リズムが悪いのかもしれない。
「司さんは早起きだったんですか?」
「ん。そうだよー。それに厳しかった。私にも早寝早起きを強要してきたよー」
「あー……確かにやりそうですね。じゃあ、今まで健康的な生活リズムだったのは司さんのおかげか……」
「かもねー」
そうやって同意をしながら酒を呑んでいる。いつもの琥珀色の液体だ。
「っふ……遥が寝坊……ふふふ」
コップを机に置いて肩を揺らして笑う。表情は俯いているので良くわからない。ただ、どこか冷たい感じがする声だった。
「そのせいで第九地区の探索はなかなか出来ないんですけど?」
「でも、もう探索は完了しているんでしょー?」
「一応は。わかったことは3Dプリンターの作れる物の種類が増えたくらいでしたね」
「ふーん……増えたんだ。どんなのー?」
「色々ですかね? 一言では言えなさそうです」
「代表でいいからさぁー」
「じゃあ、驚いたのはアレですね。薬ですね」
「薬?」
そうアレはかなり驚いた。よく考えると3Dプリンターで作成できるものの多くは俺の常識を超えるものでは無かったのだ。しかし、あの薬は容易に俺の想像を超えてきた。
「そうですね。いろんな薬があったんですけど、その中に海の中に潜っても息ができる薬がありましてね」
「……へー。それがあったら塔が沈んでも大丈夫じゃないの?」
リサさんはこちらをじっと見つめていた。瞳は怪しげな光を灯している。まるで試しているかのようだ。
「まさか。別に呼吸ができてもご飯がないと死んじゃいますし、結局はダメですよ」
「んー……そっかー」
この薬があってもどうせ救われない。もしも救われるのならばもっと早くに救われていたはずだ。それでも四方が海の世界でこの薬はとても価値のあるものだった。
「やっぱりうまくはいかないかぁー……調べ物の方はどうなっているのー?」
「まだですね。というよりも量が莫大すぎてちょっとなかなか進まないです」
「今までのことを考えたら随分と贅沢な悩みねー」
「ですね」
一応進んではいるのだがそれでも全体部分を思うと何も言えなくなってしまう。西暦4000年くらいから……人類が塔に住むようになってからの情報が全くと言っていいほど整理されていないのだ。少しはわかっていることもあるのだが……とはいっても生き延びるために必要な情報は手に入っていない。
「遥がもう少し真面目に手伝ってくれればいいんですが……」
「手伝ってくれないのー?」
「ええ。なんかずっと本読んで遊んでいますね」
「ふーん……そんなに本が面白いのかなぁー?」
「さあ? でも仕方ないですよ」
「そうなの?」
首を軽くかしげながら不思議そうな顔をする。遥がよくするあの表情だ。きょとんとした子供のような瞳。
「ええ。だって遥にとっては知らないことがまだまだいっぱいですから。きっともっとたくさんのことが知りたくて仕方ないんですよ」
「そんなものなのかなー」
「ですよ。毎日新しいことを学んでいますよ。先週には俺の時代の言葉も習得し始めていました。すごいですよね」
「言語? それを覚えてどうするのー?」
「さあ? でも遥にとっては大切なことだったらしいみたいですよ。言語以外にもなんでも楽しそうに学んでいます」
「……ふーん、楽しそうだねー」
「ですねー」
「遥のことじゃないよ」
リサさんが目を細くして睨むように俺を見ている。純度の高い鏡のような瞳が俺を映していた。
「君のことだよ」
「……俺、ですか?」
「そ」
不思議に思ってぺたぺたと顔を触るがよくわからない。俺は楽しそうな顔をしていたのだろうか? ——鈍感。声が聞こえた。
「……確かに楽しかったのかもしれないです」
「でしょ?」
にこりとリサさんが笑う。勝手に自分の感情を決めつけられているようで多少気分が悪かったが、否定するのも無駄に反応しているようで嫌だった。
「それでさぁー。なにが楽しいの?」
「何が楽しいって言われましても……今、言われて気づいたぐらいですよ?」
「ええー。遥に何か思うことあるんじゃないの?」
「思うことですか……」
リサさんがコップに新たな酒を注ぐ。何杯目だろうか? 呑みすぎではないのだろうか?
「そうですね……遥が新しいことを学ぼうとしているのは、本質的には知識を手に入れるための行為ではないんじゃないかと」
「と、いうと?」
「ええと……人格っていうのは経験を積んで形成されるじゃないですか? それで遥には経験というものが圧倒的に足りない。その足りなかった経験を本から学んでいるように見えまして……」
「うんうん」
「そうなると、遥にとって読書という行為は知識を得る以上の価値があるんじゃないかと……」
アイデンティティの確立。自分が他者とは違うことを理解するための定規。世界に自己という膜を張るためには必要不可欠だ。それを本能的に求めていたのではないのだろうか?
同じ読画を繰り返し見て、同じ道を散歩して。そうやって自分を構成するピースを必死に探していたんじゃないかと。そう思った。
「んんー、そうなのかなぁー? じゃあ遥の性格変わっちゃうの?」
「変わるというよりもあるべき姿に戻ると言った方が適切じゃないかと」
「ふーん……戻るねぇ」
コップに口をつける。何度もおこなわれてきただろう反復作業は妙に様になっていた。
「私は戻らないのかなぁ?」
「リサさんが?」
「……いや、別に? 言ってみただけー」
そのままコップを大きく傾けて全部呑み干した。おもむろに瓶へ手を伸ばすリサさんに言う。
「呑みすぎでしょう。今日はもうやめておいたらどうですか?」
「ええー」
「ええーじゃないです。ダメです」
「きびしいー、やだぁー」
幼児退行して駄々をこねる。もう何か月もリサさんを見続けているのだから、呑みすぎかどうかぐらいかはわかるつもりだ。瓶を取り上げる。
「ああー! 奪ったー! ひどいっ!」
「これ以上呑んだら絶対明日に響きますよ?」
「そんなこと知らないもん! 明日の私は明日の私だもん!」
「そんな子供みたいな……」
俺の手に持つ瓶を取ろうと手を伸ばしてくる。その姿にある日の光景が重なった。——私に命令するなっ! 子供のくせに! ……なんだっけ? あの後、■■■さんに日本酒の瓶で殴られたんだっけ? スーパーで良く売っている安いやつだ。ラベルの模様をよく覚えている。
「……危ないですし、とりあえず席に戻って。さぁさぁ」
「えー」
文句を言い続けるリサさんに酒を持っていない方の手で牽制をする。結局素直に応じるあたり、遥と同じものを感じた。
「もっと呑みたかったなぁー」
「明日にはまた呑めますし安心してください」
「えー」
「諦めてください」
とりあえず水を渡す。俺が飲んでいたやつだ。口が寂しいならばこれでもいいだろう。
話題も一段落したこともあり、双方共に無言になる。外から聞こえる雨音が大きく聞こえ始めた。しとしと、ぱらぱらと音を変えて耳を楽しませる。
そのうち俺かリサさんが適当な話題を思いつくのだろう。それまでは考え事でもしていよう。
そういえば遥は今どうしているのだろうか? 部屋で本を読んでいるのだろうか? 今日はちゃんと寝るように言ったんだけれども俺の言うことを聞いてくれるはずがない。俺の家に帰る前にもう一度言っておくか。
リサさんと目が合った。どこか曇った表情をしている。酒を没収されたからだろうか? いや。それだけが原因ではないような気がする。
「私はさ」
リサさんが口を開いた。表情からは切迫した様子を感じる。なにかを言おうと……何かを知ろうとしているのだ。いつもと違う様子に困惑しながらも耳を傾ける。
しかしリサさんはそこで言葉を止めて、水を口に含んだ。白色の喉が跳ねて水を飲む。それから口をきつく閉じた。何も言わない。奇妙な静寂が場を満たした。
「リサさん?」
そんなリサさんを不思議に思って声をかけた。
「ううん、なんでもない」
リサさんはそのまま俺が渡した水を全部飲んでしまった。コップに残った氷がカラリと音をたてる。その氷を静かに眺めていた。
何か言いたいことがあったのだろうが水と一緒に飲み込んでしまったのだろう。俺には彼女が何を言いたかったのかはわからない。
ただ彼女の沈んだ無色の瞳が。よどんだ瞳が。
彼女の底知れない感情と救えなさを俺に教えてくれていた。俺はそんな嫌な予感から目を背けた。
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