三十六話 趣味

「それで今日はずっと読書……だっけ? 本を読んでいたのー?」

「はい」

「よく飽きなかったねー」

「全くです」


 リサさんはパスタを巻きながら呆れていた。全くだ。本を読んで一日が終わっていたなんてどうかしている。


「私は楽しかったよ?」

「そっかー。ふーん……そんなに本って楽しいのー?」

「うん!」


 結局、今日は家から出なかった。そして一日中ずっと本を読んでいた。遥はテコを使っても動きそうもなかったし、俺も本を読むことを許可してしまっていたので仕方なかった。


「本当に一日中本を読んでいるだけなんてな。遥は第九地区をこれ以上探索しなくていいと思っているのか?」

「えーだってー」


 俺はそばをすすりながら文句を言った。多少の非難を込めて言ったのだが彼女には届かなかったようだ。一応は申し訳なさそうな顔をしてはいるがそれだけだ。


「明日はちゃんと行くぞ」

「んーえー……、わかったー」

「よし言質はとったぞ。忘れるなよ」

「えー。でも、彼方くんも楽しんでたよね?」

「う……」


 痛いところを突かれる。仕方ないのだ。なぜなら向こうの世界で完結してなかった漫画とか小説、それに新作まで読み放題だったからだ。


「彼方くんも楽しかったんだよね?」

「いや、まあ」

「楽しかったんだよね?」

「……はい」


 認めよう。初めての大きな成果ということでテンションがおかしくなっていたのもあるだろう。ついつい気分が浮ついて、探索とは全く関係のないことをやってしまった。

 それに過去の遺物を触るのは久しぶりのことであった。いや、時間を考慮すれば数か月程度長くも無いのだが、慣れ親しんだ文化との隔絶は想像以上に精神を攻撃していたらしい。なんでもないくだらない漫画にも感動して泣きそうになった。


「まあ、それでも第九地区の石を直接見た方が早く情報を手に入れられるだろ」

「私は本の方がいいな」

「それは俺の文化だからか? ……あと、サンドイッチ食べながら本を読むんじゃねぇ」


 遥がサンドイッチを手に持ちながら本を読もうとしていた。


「ん。そうだよ? ……え。食べながら読むのダメなの?」


 手に持ったサンドイッチを軽く掲げた。


「別に俺の文化に合わせなくてもいいんけどな……。おうそれはダメだ、行儀が悪い」

「私が好きでやっているんだからいいでしょ? ……はーい」


 サンドイッチを皿に戻して本だけを手に持つ。そして晩御飯をやめて本だけを読み始めた。


「違う。本を優先するな。ご飯を優先しろ」

「えー」

「えー、も何もあるか。おなか空くし体力無くなるぞ」

「うー……わかったぁ……」


 しょんぼりしながら本を置いてご飯を食べ始めた。両手で行儀よく持って、もしゃもしゃと食べる。なんとなくリスっぽくてかわいくはあったがこの様子に騙されてはいけない。気を抜くとすぐに本を読みだす。なんなら晩御飯のために部屋から連れ出すのも一苦労だったのだ。


「お前、晩御飯をサンドイッチにした時点で食べながら読む気だったろ?」

「ばれた?」


 遥はふわっと笑う。まるでいたずらをした子どものようだった。


「彼方、厳しいねぇー。遥かわいそうー」

「厳しくないです。むしろリサさんが甘すぎるんです」

「別にご飯食べながら本を読んでも問題ないじゃない?」

「マナーの問題です」

「えー別に良いじゃーん」


 リサさんがにやにやしながらからかってきた。手にはアルコール飲料と思われるものが握られている。


「あ。そうそう彼方ー」

「はい?」

「ん」


 突然テーブルにあった瓶を差し出してくる。


「お酒。いらない?」

「あー。やっぱり飲酒は辞めることにしました」

「……ふーん。そうなんだぁー」


 塔に洗脳されている時はつい飲んでしまったのだが、よくよく考えると未成年が飲酒をしてはいけないのだろう。まあ、たぶんリサさんが今呑んでいる『酒』は、いわゆる俺の知っている酒とは違うものなのだろうが……。

 効果はよく似ているのだが内容が大きく違うように感じる。アルコール独特の匂いはしても、どこか華やかなような感じがするのだ。


「やっぱり未成年の飲酒は良くないかと思いまして」

「一度やっちゃえばもう同じだと思うけどー?」

「間違えた時にはそこを修正していくのが正しい人間です」

「……へぇ。もういいよ、しかたないなー」


 つまんなそうな顔をしながらコップに酒を注いでいく。その瞳は前に見た瞳の色に似ていた。どこまでも続く空虚な澱だ。

 ——何の感情を蒸留すればその色になるのだろうか?

 最近のことなのだが、彼女の瞳の色の無さは遥の瞳の透明さとは違うことに気がついた。同様につるんとした無機質な輝きを持っているが、リサさんの瞳は灰色の絵の具で塗りつぶしたような風合いなのだ。

 彼女たちの光彩はもともと黒である。なのに角度や状態によってぬらりと風合いを変えるのだから不思議なものだ。


「まあ、いいや。結局、第九地区ではなにわかったのー?」

「あ。そうそう! リサちゃん! 凄いものがたくさんあったんだよ! えっとね……道がね、狭かったよ!」

「いや、そこは重要じゃないだろ」

「ええー重要だよ?」

「私は遥みたいにお散歩大好きじゃないからねぇー」

「……? そっか。じゃあ、リサちゃんは何が知りたいの?」

「え、私?」

「そうそう」


 リサさんが小さく首をかしげながら悩む。俺もこの酒呑み妖怪が第九地区に対して何を思っていたのかが気になったので耳を傾けた。


「んんー……」

「リサちゃん?」

「あー……知りたいこと……知りたいこと……えー」

「リサさん、無理に答えを出さなくてもいいんじゃないですか?」

「えーあー、ちょっと考えさせて?」

「あっはい」


 頭を押さえて、うんうんとうなり始める。どうやら結論が出ないようだ。いつもぽんぽん適当なことを言うリサさんにしては珍しい反応だ。


「あー……特に知りたいこととか無いのかも。なんとなく話しているだけー?」

「妙にリサさんらしいゆるゆるな発言ですね」


 結局言った言葉はこんなしょうもないことだった。まあ、リサさんならば仕方がない。


「でも、あれは気になるかも。どうやったら膜が破けたのー?」

「ああ。おおむねリサさんの言う通りでしたよ。なんか合言葉を言う感じでした」

「何答えたの? そもそも何を聞かれたのー?」

「そっか……もうそこから覚えてないんですよね。なんか『眠り姫は何で目覚めるか』って聞かれました」

「眠り姫?」

「あー……童話の一つで……」

「リサちゃん! リサちゃん! 私知ってるよ!」

「……遥よろしく頼む」


 遥がどうやら説明してくれるようだ。昨日も同じ話をしたので二回目の説明は面倒だったのだ。


「じゃあ……んとね、いろんな話のパターンはあるみたいなんだけど、共通していることはお姫様が悪い魔女に魔法をかけられちゃうの」

「マホウ?」

「んんー魔法はね……なんかいろんな不思議なことができることらしいよ? でねでね、その魔法のせいでお姫様は眠りから覚めなくなるの」

「へー」

「それで、目を覚ますにはキスが必要なんだって!」

「ならキスって答えたら正解なのー?」

「そうだよ! 実際それで膜は破けたし!」

「ふーん……」

「でもね! でもね! 実はそれだけじゃないんだって! 他には自力で目が覚めるパターンもあってね……ペロー版って言うらしいんだけど……、あとそれのもとになった話は『太陽と月とターリア』って言ってね!」

「ペロー版? 太陽と……え? 何?」

「だからね! ペロー版があってね!」

「ペロー……? ペローって何?」

「ん? ペローは千七百年ぐらいの童話集だよ!」

「ええと……遥? 一回整理させてくれるー?」

「……?」


 まくしたてるように話を始めた遥にリサさんは困惑しているようだ。俺はそんなに困惑してはいない。なぜならば今日は一日中こんな調子だったからだ。


「リサさん。遥が言ってたことはとりあえず前半部分だけでいいですよ」

「……んー、確かにそんな気がするねー」

「え! もったいない! こんなに面白いのに!」


 今の遥は自分の好きなことを一方的に話すタイプのオタクになっているのだ。しかもジャンルを問わない乱読タイプのオタクだ。全方向に食いついてくる厄介オタク。危険極まりない。


「なあ、というか遥。えっとなんだっけ、『太陽と月とターリア』だっけ? 俺も知らないんだけど。本で読んだのか?」

「うん!」

「一応ペロー版は知っているんだけどな……アレの元ネタってことはかなりグロそうだな……本当に面白いのか?」

「んー、確かに気持ち悪いは気持ち悪いんだけどねー。経緯とか教訓とかも調べて時代に照らし合わせていくと楽しいよ?」

「ひえっ……完璧に特殊な性癖のオタクだ」

「そんなに別に変じゃないもん! 私は普通だもん!」

「ええ……」

「彼方くんもグリム童話とかペロー童話とか読もう? それらを考察した本も読もう?」

「そこまでの情熱は無いです……」

「えーもったいない」


 ぶーぶー文句を言いながら腕を前にぐーっと伸ばしている。だが口角は上がっており何やら楽しげだ。新しく得た知識を共有するのが楽しくて仕方ないらしい。


「……なんか楽しそうだねー」


 リサさんが頬杖をつきながらけだるげにそう言った。


「ん? 楽しいんだよ? リサちゃんも読む?」

「私は遠慮しておこうかなー、お酒の方がいいしー」

「非文化的ー。つまんなーい」

「つまらない……かー」


 リサさんの目を伏せて薄く笑っている。きっと手元の酒を見ているのだが、もっと遠くのものを見るように焦点はあっていなかった。


「そうなのかもねぇー」


 その目からは感情が読みとれない。しかし少しこわばった震えた声が印象的だった。


「でも酒にだって良いところがあるのよー! みんながわからなくても私だけがあなたの理解者で居続けるわ!」


 けれどもそれは一瞬だけのことであった。リサさんはケラケラと笑いながら酒に抱き着く。瞬きした時にはいつものアル中の陽気なお姉さんになっていた。

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