三十五話 善悪の果実
第九地区の探索を終えて今日は遥の部屋に来ていた。別に部屋に行く約束をしていたわけではない。今日も探索をするつもりだったのだが、遥が集合時間に一向に来ないので様子を見に来たのだ。
「うわぁ……マジか……」
「ん? どうしたの?」
しかしそこにあったのは想像していない光景だった。うずたかく積みあがった『本』にドン引きしながら、遥に話しかける。
「……いや、どうしたのじゃないだろ」
「……?」
昨日、第九地区で図書館を見つけた。そして人類の歴史を見つけた。ここまでは全然良い。むしろ今までのことを考えると大成功と言える。
しかしその後が大変だった。新しい情報に興奮して突っ走る遥。最初は放っておいたのだがそれが良くなかった。放置して一時間、二時間と刻々と時間は経ち、気がついた時には夕食の時間になっていた。
遥に帰るように促したのだが、まったく言うことを聞いてくれなくて本当に困った。目を血走らせて半笑いで石に齧りつく様子は狂人と言って差し支えなかった……。
「その大量の本だよ。昨日はもっと少なかったろ」
「昨日持ち帰った分は読み終わったから、今朝ロボットに新しく持ってきてもらったの」
「ちょっと待て。昨日の時点で十冊は持ってきてたよな」
「うん。読み終わった」
「なんていう速読だよ……」
「あそこに積まれているのはもう読み終わったものだよ?」
「マジか……」
石の前から無理やり引きはがそうとしたのだが全く言うことを聞いてくれなかった。それなりに素直に言うことを聞いてくれる遥にとっては珍しいことだった。
それでも粘り強く交渉したところ、なんとか本に印刷して持ち帰ることまで譲歩してくれた。ここまで譲歩させるにはかなりの体力を必要とした。
ちなみに晩御飯は三時間遅れた。あのままだと徹夜コース直行だったろう。
「というかなんでわざわざ紙に印刷してるんだよ……」
「んー。昨日も言ったんだけど……彼方くんの時代では紙で作られた本が一般的だったんでしょ?」
「まぁな……いや、電子書籍とかいうものもあったけどな」
そう。『本』についてだ。今、遥の手にしている紙で作られた小冊子は間違いなく本だ。俺の知っている本で間違いない。未来の世界に旧世界の遺物を使っているのだ。
「彼方くんは電子書籍と本のどっちが好きなの?」
「俺は物理本のほうが好きだったな。メーカーの保障とかサービス停止とか考えるのがめんどくさい」
「なら私もそうするー」
「今はどれも考える必要が無いことだぞ?」
遥は麦わら帽子を指でつまみながらクスリと笑った。屋内で帽子を被る必要が無いことはすでに言ったのだが、なぜか屋内でも被っている。無理やり言い聞かせるのも面倒なので放置することにした。
……今回は帽子を捨てなかったようだ。どこかホッとする自分がいた。
「いいの。少しでも彼方くんの知っていることを知りたいの」
「……さいですか」
また真顔で恥ずかしいことを言っている。どうなのだろうか? これは俺が童貞だから困惑するだけなのだろうか? もしかして俺が間違っているのだろうか?
俺の数少ない女性遍歴を検索する。んー……罵倒ばかりして素直になれないタイプの従姉しか思い出すことが出来ない。彼女はこんなふうに思っていることをあっさりと言うことは無かった。
「というか、そうじゃない。時間だ。今日約束してたよな」
「あ」
「あってお前……」
やはり忘れていたようだ。むしろこの部屋の惨状を見て気づかないわけがない。
「ねえ。ねえ。彼方くん」
「んあ?」
「今日はずっと本を読む日にしちゃだめ?」
遥はベッドに体育座りをしている。そして手にした本で顔を半分隠して、上目づかいしながら聞いてきた。かわいい。しかし、俺はかわいいからって許すような優しい人間ではない。
「いや……だめに決まって……」
「だめ?」
「う……」
遥は体勢を変えて、甘えるように近づいてきた。
突如空気が変わる。どこかねとっとした甘い匂いがした。その空気の変化に気づきながらもうまく説明することが出来ない。
この感覚はなんなのだろうか? こんなふうに人との距離が妙に近いのは遥にはよくあることなのだ。別に不思議ではないはずだ。
俺は手を伸ばして牽制しながら体を反らせた。いつもならば遥は素直に誘導に従って離れてくれるはずだ。しかし今日はそこで止まることは無かった。
「だめー?」
さらに体を傾けて近寄ってくる。黒色の髪が肩からするりと滑り落ち、そこから彼女の匂いがする。柔らかくて気分の良い匂いだ。風呂に入らなくても、服を洗わなくても体が清潔に保てる世界なのだからこの匂いは百パーセント彼女のものなのだろう。
まん丸に開かれた童女のような瞳は、困惑した俺を映している。その瞳にはなにやら好奇心が混在しているようだった。しかしそれだけではない。ぼやけた群青色が灯っている。彼女の瞳では見たことが無いアンニュイな色だった。
「ちょ……遥……ちかっ……!」
俺は反射的に逃げようとするが、伸びていた手をつかまれてさらに距離を詰められる。そして彼女はそのまま絡みつくように体を密着させてきた。
彼女の顔が俺の視界一杯に広がる。色っぽくて艶めかしい表情だ。水面の底のように冷たくて遠慮がない。ふっと表情を緩める。形を変えた瞳が薄くチラチラと輝いた。
パーソナルスペースにふらっと容赦なく入り、そのことに文句を言わせない圧倒的な魅力。美貌。
「だめ……?」
「近い近い近い! 離れて! いいよ! 全然いいから離れて!」
「……ん? やったー!」
薄い布から肌の温度と柔らかさを感じて気が動転する。そしてつい許可してしまった。遥がこんな表情をすることがあっただろうか? まるで誘惑しているかのようじゃないか。
しかし俺の困惑に反して、遥はすぐに俺からパッと離れた。さっきの艶めかしい表情はもうない。カラッとした様子で家で本を読んでいられることを喜んでいた。いつもの元気なアホの子に戻っている。普段の遥。脳みそがからっぽで悪意を知らない。無垢な子供のような遥。
「いったいなんなんだ……?」
その変わりように腰を抜かしてへろへろと座りこむ。なんだかガクっと体力を持っていかれた。
「やっぱり本って偉大ねー!」
「……あ? 本?」
「そうそうこれこれ!」
そういいながら遥は持っていた本を見せてきた。そこには『ドキッ! モテ系小悪魔仕草! どんな男でも逆らえない!』とか言う頭の悪そうな記事があった。
「まさかおまえ……」
「そうだよ! 実践してみたの!」
「なんだ、バカじゃねぇの……?」
「私、バカじゃないもん!」
いや……バカだろ……お前こんなの読んでいたのか……? というか俺はこの偏差値30ぐらいの記事に書かれたことで負けたのか?
——ちょろ……。
違う。待ってくれ。遥はあらゆる事象の天才だ。もちろん演技の天才でもある。ならばさっきの彼女の仕草は平成最強の小悪魔といっても問題が無かったはずだ……だよな? なあ?
幻聴にさえも弁明する必死さではあったが、女の子の魅力に屈して意見を曲げたという事実だけは変わることは無かった。俺はちょろくないし、全然健全だ。決して負けてなんかいない。
「まあ、遥……もうそれはするなよ……」
「ん? なんで?」
「ぶっちゃけると俺が困る」
「なんで困るの?」
「……おう」
あなたが女性的に魅力なので服従せざるを得なくなりますとでも言えばいいのか? なんてやつだ。これ以上羞恥プレイをさせないで欲しい。
「どうしてもだ」
「どうしても?」
「そう。最低でも俺以外の異性には頼むからやめてくれよ?」
「彼方くんしかいないよ?」
「そうだったな」
「でも、あれ便利なんだけど……」
「次に悪用した時にはもう遊んでやらん」
「え。困る」
「なら諦めろ」
「えー」
不満顔だが俺の意見を押し通す。これが俺の最低限の尊厳を保つ方法だ。
「あいかわらず恥ずかしがりやさんなんだねー」
「……ああ、そうだ諦めろ」
遥は手にしていた本を横にポイっと置いた。そこには本が無造作に積まれている。きっと読み終わった本がそこに積まれているのだろう。そして、遥はおもむろに別の山から適当に新しい本を引っこ抜いた。
「というか、なんてアホな本を読んでいるんだよ……他には何読んだんだ?」
「んんー……色々?」
本から目を離さない遥を無視して読み終わった本の山へ向かう。そして目についたものを開いてみる。そこにはファンタジー小説や大衆雑誌、歴史書や純文学、学校の教科書や英会話教材、漫画に写真集、果ては辞書まであった。ちなみに辞書は四冊あった。すべて未来語に翻訳されたものだ。
「……遥。これ全部読んだのか?」
「そうだよ?」
「この『誰でも簡単ガーデニング入門』も?」
「そうだよ」
「この『石波国語辞典』も?」
「そうだよ」
「マジか……これかなり文字が小さかったろ。じゃあこの『死ぬまでに見たい絶景百集』とか、えーとなんだ……2chのログか……? こんなものまであるのか……」
「うん。もちろん読んだよ! 全部覚えてるから暗唱する?」
「……うん。もう驚かないぞ」
つまり一晩でこれだけの知識をつけたのだ。なんという化け物だ。しかも辞書って読みものだったろうか?
「逆にこれだけ読んだんだ。何かわからないところとかあったか?」
「えー……あっ、そうそう。んとね、これかな」
そう言いながら山の中から一冊の本を抜き出した。そこには『必見! 世界の残虐史決定版!』と書かれている。よく本屋とかで売っている一冊五百円くらいのアレだ。エンターテイメントとして書かれている○○特集の一つだろう。
「これのなにが?」
「んんー……えとね、えとね」
その本を抱きながら一生懸命言葉を探している。まるでそれは知らないことを親に聞く子供のようだった。
「昔、酷いことをする必要があったことがあるのはわかるの。それは歴史をみてもうわかった」
「ほうほう」
「でもそれをこうやってまとめているのがよくわからないの。だって、痛いのも苦しいのもみんな嫌いでしょ? 学問としてまとめているのならまだわかるのだけれど……」
「つまり娯楽としてこんな本が出版されていることがよくわからないと?」
「うん! そういうこと!」
遥はこれが娯楽物として提供されている理由がわからないらしい。まあ、確かにそうだろうな。遥ならそうだ。
だが、どうなのだろうか?
遥はいつまでそういられるのだろうか?
遥は天才だ。それはさっきの小悪魔の演技を見ればわかることだ。万物の天才。この世の全てをスポンジのように吸収する。
ならば、この大量の書物に書かれた意味もいつか理解してしまうのではないだろうか? 実体験が極端に少ないおかげで知識としてしか理解してないものが山ほどあるはずだ。
そんな彼女が憎しみを抱いた時にはどうなるのだろうか?
そんな彼女がもっともっと多くのことを知っていくとどうなるのだろうか?
俺は遥に知識を与えるのを極端に嫌がる傾向があった。いや、嫌がっているというよりも恐れていた。俺の存在が彼女に影響してしまうのが怖かった。まだ未知の可能性が残っているのが救いだった。
それでも昨日。
俺は遥に知識を与えてしまった。人類の歴史を見つけて浮かれてしまったのだ。とはいっても彼女に伝えないという選択肢も無かったのだが。第九地区に対する膜が破かれた時点で隠すのは無理がある。
それに隠し事をするのも悪い気がしたからだ。ただ……この知識が彼女にとっての禁断の果実にならないように願いはした。
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