三十一話 麦わら帽子
「いてぇ……」
目が覚める。体には夢で出来た傷の痛みが残っていた。ひょっとしたら古傷が痛んでいるだけなのかもしれない。大きく呼吸をして落ちつかせようとしたのだが、どうにもうまくいかず、布団にくるまりながらガタガタと震えていた。
大丈夫。まだ待ち合わせには時間があるはずだ。
ごちゃまぜになった思考の中で蛆がまとわりつくかのように心が腐っていく。
ぽろぽろと体の肉が解けていくのを感じた。融解は止まらない。なぜならば今、聞こえる幻聴が原因だからだ。——お前は何にもなれない! ——■■■■■? ——絶対に許さない。——どうしてお前だけ? 何度も言葉が瞬き、瞼の奥で光を散らす。
そのうち、腐り落ちた肉の塊から白い骨が突き出していくのを感じた。肩甲骨だ。布に触れた感触がこちょばしくて笑ってしまう。
笑っているのは自嘲の意味もあったのだろう。自分の存在が馬鹿らしくて馬鹿らしくてたまらない。笑うたびにその振動で皮膚がはがれ落ちていく。ドクンドクンと波を打つ心臓がすっかり風通しの良くなった体から見えた。
「思ったよりも黒いんだな」
口はちゃんと動くし、声も出る。本当に腐り落ちているのならば声が出るはずがないので幻覚に間違いない。口から大量に這い出るバッタのような生き物に辟易しながらも嘆息した。
どうせ、今回もほうっておくしかない。
冷静に観察すると、体にまとわりつく虫は俺の腐敗を進めているだけでなく、肉をむさぼって卵を植えつけているようだった。目が合う。その複眼には誠に奇妙なことなのだが、縦横それぞれ5cmくらいのサイズで『幸せ』と書いてあった。複眼のサイズは精々数ミリしかないのに不思議なことだ。
これらは全部、幻聴が主な原因だ。耳を叩き無理やり止めようかとも思いはしたが、寝起きで元気が無いのもあってやる気が出なかった。
じっと波が引くのを待つ。
結構な時間が必要だった。それでも俺の体が有限だったおかげでちゃんと腐敗は終わってくれた。綺麗な骨格標本になったところでようやく安定した。
朝から妙に疲れた。
頭を押さえる。眠い。動く気にはなれない。しかたないのでゆっくりと目を閉じる。昔からこのぐらいのことならよくあるのだ。気にする必要はない。まあ、それでも次はもっとましな世界になっているように祈ってはいたが。
†
「彼方くん!」
「……ん?」
何か声が聞こえる。考えるまでもない。遥だろう。
「起きた? ねえ、彼方くん!」
「あー……あー……」
どうやら時間のようだ。もうそんな時間か。さっき一度起きていた気もするのだが、どうにも思い出せそうにない。
「あ! 今、目開いたでしょ! ねえ! ねえ!」
「……気のせいだ」
咄嗟に目を閉じる。今の俺はとても不健康な人間なのだ。もともと早起きが苦手だったのに塔によって無理やり強制させられていたのだ。しょうがない。
「嘘だぁ! しかも今、受け答えしてるし!」
「寝言だろ」
「ええ……そんなわけないじゃん」
にしても朝から元気バカとのやり取りはきついなぁ……。ちょっとからかってやろうか?
「いいや、実は寝言なんだ」
「嘘つき! そんなこと無いもん!」
「寝言だ」
「違うもん!」
「寝言だ」
「……え、本当?」
「そうだ。実は俺は『慢性寝言返答症候群』という奇病にかかっている。不治の病だ」
「不治の……?」
「ああ。この病気にかかると少しずつ寝言で会話をする時間が増えていくんだ。最後には何をしても目を覚まさなくなる。恐ろしい病気だ」
「目を覚まさなくなるとどうなるの?」
「一応ちゃんと受け答えできるし、末期だと体も動くようになるからな。外から見た様子だったら、普通の人と変わらないはずだ」
「ふーん……」
適当な病気をでっちあげて煙に巻く作戦だ。なかなか悪くないはずだ。悪くない作戦のはずだったのだが……。
「だったら早く病気が進行するといいね!」
「……え!? なんでさ!」
反射的に突っ込んでしまう。え。こわ。なんかサイコパスなこと言ってなかった?
ついつい目を開けたところ、かなり近い位置に彼女がいてびっくりした。彼女の瞳には俺の姿が反射している。至近距離のおかげで瞳の色も良くわかった。外の景色を容易に取り込む不思議な瞳だ。なんだか勝手に気まずくなったので、ゆっくりと上体をそらして彼女から逃げる。
「ん? だって病気が進行したら自由に動くことが出来るんでしょ?」
「……あー。その解釈は無かった」
そうだ。割と彼女の倫理観がやばいことを忘れていた。きっと哲学的ゾンビのような話をしても気にすることは無いのだろうな。
「ねえ、ねえ。彼方くん」
「あ?」
「病気悪化したの?」
「……いやしてないけど、なんでそんなこと聞くんだ?」
「だって動いてるから」
「……ごめん。病気は嘘なんだ。嘘」
「え!?」
「俺の朝が弱いのはただの性格の問題だ」
「彼方くん、嘘ついたの!? 嘘はダメなんだよ!」
「いや、ほんと……すいません……」
「ダメなんだからね!」
「うっす……はい……」
なんだかいたたまれない気持ちになってきた。純粋すぎて怖い。そしてまた彼女の器を図り損ねた。ナチュラルサイコパスアホの子ということを忘れてはいけない。
「あー……なんかまた疲れてきたな。そろそろ動くか」
独り言を呟きながらベッドから降りる。窓から見える景色は相変わらず快晴で変化が無い。単色のグラデーションなので五秒ぐらいでパソコンで作れそうだ。
適当に外出のための準備をおこなう。
えっと……まあ、準備と言ってもそんなに何かが必要ということは無いんだけどな。今日は海にもいかないし。どうせご飯は適当な3Dプリンターで作れば良いんだし。あれ? 何も必要なくね? 一応ストレッチぐらいはしとくか。体に血液を流すために大きく伸びをして、関節の可動域を確かめる。
「遥。行くぞ」
「……あ」
「……遥?」
なぜか遥はうつ向いている。声をかける。
少し様子もおかしかったので、肩に手をかけた。そうすると俺の手の動きに合うようにゆっくりとこっちを向く。
「えっと……その……えへへ……」
不安定な表情だ。さっきまでの天真爛漫なアホさが抜けて、借りてきた猫のようになっている。瞳には動揺や不安のような色が浮かんでいた。
あー……よく考えれば、昨日仲直りしたばかりなのだ。さっきまでは勢いで行けたが、今さらになって距離感を悩んでいるのだろう。特に彼女にとっては初めての仲直りなのだから余計に仕方ない。何か言葉をかけなければ……。
「ええと……大丈夫? 具合悪い?」
「え!? ええと……全然そんなことないよ?」
違う。俺までポンコツになってしまってどうするんだ。どうすれば元気にしてやれるのか。なにか彼女にしてあげたいことは無かったのか? どうなのか?
過去に何かあてになるものがないのだろうか?
考えろ。考えろ。そこにギラリと光る太陽がちらついた。……そうだ!
「遥。少し待ってろ」
「……? うん」
疑問符を浮かべている彼女を放置して部屋の簡易版の3Dプリンターに向かう。簡単なものならあれで作ることができるのは確認済みだ。早速、出力をおこなう。
「彼方くーん、何してるの?」
「あー、えと。誕生日プレゼント?」
「プレゼント?」
「そ」
話しているうちにもあっという間に成形されていく。最後に残ったのはどこにでもある麦わら帽子だった。
「ほれ」
「……帽子?」
「これから日差しが強くなるからな」
「ええと……」
困惑しているのがよくわかる。当たり前だ。前にも麦わら帽子をあげたのだが、あの時には恐らく彼女に捨てられている。
それはこの世界では、帽子をかぶるという行為が意味のない行動になっているからだ。塔が気候を制御しているので、直射日光なんて考えなくても生活することができる。
確かにそれは正しい。でもそれではダメなのだ。
「いいか。遥」
「ん?」
「前……結構前だな。その時にもこれをあげたと思うんだ。やっぱり捨てちゃった?」
「うん」
「だよなぁ。それは必要ないと思ったから?」
「うん。太陽はそんなに眩しくないし」
「そういうと思っていたよ……でも、この帽子は日差しから身を守るためのものじゃないんだ」
「どういうこと?」
こてんと愛らしく首をかしげる。瞳には少しの好奇心が見えた。いい傾向だ。彼女は楽しいこと、気になることには貪欲なのだ。
「それはな。日差しを守るためじゃない。俺が遥にかぶって欲しいからあげるものなんだ」
「かぶって欲しい? なんで?」
「そうだなぁ……」
あの時はまるで人形のような遥を少しでも人間らしくするために渡したはずだ。だが、そんなことを言って理解してくれるはずがないだろう。それに彼女の装いを変えたところで中身が変わっていないのならば意味がない。
「それは、遥に似合うと思うからだよ。あと、誕生日プレゼント」
「プレゼント?」
「そ。正真正銘、遥のためだけに作ったもの」
「……私だけの」
実用品として渡したらどうせ取捨選択で捨てられる。ならば、実用品以外の側面があることを教えてやればいい。もともと遥に麦わら帽子をかぶって欲しかった理由は、『日差しの強い日には帽子をかぶる』という普通の行動をしてもらうのが目的だったのだ。決して実用が目的ではない。
「遥のためだけの物だ。誕生日をお祝いした証」
「証……」
「どう? 嬉しくない?」
「……嬉しいかも」
証、証と小さく頷きながら手に持った麦わら帽子を上下させる。……実用以外の代物を貰っても嬉しくなかっただろうか? でも何をすれば喜んでくれるのかわからないんだよなぁ……。
「彼方くん。彼方くん」
「ん?」
「これって、お誕生日の証なんだよね?」
「そうだな」
「だったら、『これからもよろしくね』の証だよね!」
「……まあ、そうだな」
誕生日を祝うのは『これからもよろしくね』を伝えるためだ。軽はずみに言った言葉が今さらになって何度も帰ってくる。
おかえり。地味に恥ずかしいからもう帰ってこなくていいぞ。
「これからもよろしくね……これからもよろしくね……うん! これからもよろしくね!」
「……おう、これからもよろしくな」
そう大きな声を出しながら、遥は帽子をかぶる。少し気恥ずかしくはあるが遥は元気を取り戻したようだ。目深にかぶった帽子の下から、らんらんと光る瞳が見える。その場でくるくると回りながら彼女は告げた。
「じゃあ、行こうよ! 第九地区!」
「ああ」
まあ、帽子をあげたのは間違いではないはずだ。これからは日差しは強くなり、気温も上がるのだ。心なしか、代わり映えの無い空も低くなったように感じる。
この世界には蝉も、焼けるようなアスファルトも、茹だるような熱帯夜も無い。それでもあいつが来る。
夏だ。夏が来るのだ。
麦わら帽子の彼女が快晴の空の下で舞い遊ぶように跳ねた。それは明らかに夏の訪れを示していた。
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