二十九話 感情
「わからないこと?」
「そうなの、どうしてもわからないの」
黒い瞳は好奇心の黄色と怯えの青色を帯びている。知りたいが知りたくないという感じだ。俺はそんな彼女からカチリという小さな音を聞いた。平行線を捻じ曲げて歯車をかみ合わせた音だ。
「私はお客さんのことが好きよ? お客さんも私のこと好きよね?」
「ま、まあ……」
「なのにどうしてこんなに私は苦しいの?」
「……苦しい?」
「そう苦しいの。暗い穴に落ちて塞がれたみたいでね。心の奥がすーすーするの」
苦しい。彼女にとってはあまりにも珍しい言葉を聞いた。いままで楽しいと好奇心の感情しかなかった少女が苦しいと言ったのだ。
「でも、体のどこかが痛いとかじゃないんだ。ぼんやりと体に鳥肌が立つような感じがするの。なんで怪我をしていないのにこんなに苦しいの?」
胸を押さえながら首をかしげる。
瞳は今の感情をどうやって表現しようかと左右に揺れている。それでも前に進む強い意思を感じた。小さな彼女の手が俺の服の裾を強く握る。それは覚悟と決意の表れだった。
最近の遥は今までになかった表情をいくつもする。彼女はこの短期間にどれだけのことを学んで、どれだけ汚れてしまったのだろうか?
「……こ」
「こ?」
言葉をだす前に止まってしまった。
このことを言って遥は幸せになるのだろうか? 今の彼女の症状は誰にでもある心の痛みというやつだった。心が悲しいことや苦しいことが原因で軋むのだ。その軋みが体に共鳴することで脳にストレスを受けていることを通知する。
誰にでもある自己防衛反応。本来の遥ならば一生必要なかった機能。彼女には不要なものだった。
知識とは毒だ。
これを現象としてちゃんと名前があると認識してしまった時にはどうなるのだろうか? まだ悪意を知らない無垢な存在。気づきかけている悪意の片鱗をどうするべきか俺は知らなかった。何も言えない。
だが、彼女がそれを許してくれるような意思の弱い人間ではなかった。
「言って」
強い口調だ。自分の知りたいことの答えを俺が知っていることを知っている。彼女はいつでもそうだ。
知識欲の塊。
もっともっと多くのことを学ぶことを求めている。どこまでも澄んだ瞳はもっともっと汚れることも望んでいるのだ。俺がその瞳に勝てたことは一度もなかった。
「……体じゃ、ない。心が痛がっているんだ」
「心が?」
これはきっと彼女にとっての初めてのマイナスの感情だ。それをうまく扱うことが出来なくて持て余していたのだ。俺は自分のことしか考えていなかったせいで彼女の感情の機微を見落としたのだ。
——本当にただの見落としか? 嫉妬じゃないのか?
しわがれた声が聞こえる。誠に彼の言うことは正しいことに腹が立つ。きっと彼とは前世で捕食者と被捕食者の関係だったに違いない。
見落としてなんかいない。
見落としたなんて嘘だ。むしろ見落としていたのならばもっと早くに仲直りできたのかもしれない。見落としていないからこそ、俺は誕生日パーティーなんて遠回りなことをしてしまったんだ。全部うやむやにして仲直りしてしまいたかった。
「心って痛むの? 痛覚があるの?」
「痛覚は無いなぁ……」
「だよね。だったら痛むはずがないんじゃないの?」
相変わらず的外れなことを言っている。そのどこか間の抜けた感じが愛らしく感じた。
「いや。痛むよ」
「そうなの?」
「俺が言うのだから間違いない」
「お客さんも?」
「……まあ、多少は」
俺ほど心の痛みを語れる人はいない。なにせ心の軋みが幻聴と悪夢になって襲ってくるレベルで心が病んでいるからな。一家言あるぞ。
「どうして心が痛むの?」
「心が頭に今は辛いから無理するなよーって言うから」
「ふーん、じゃあ、今読画しても楽しくないのも?」
「そうだな」
「じゃあ、散歩しても楽しくないのも?」
「そうだな」
「これって私がお客さんのことが嫌いだから? でも別に嫌いじゃないんだよ?」
「むしろ好きだからこそ痛むんだよ」
「……変なの」
彼女がなにかしらの感情を持っていることには前から気がついていたのだ。それでも俺は彼女に歩み寄ることをしなかった。
俺の存在が彼女の存在に影響を与えていることが怖かったのだ。彼女はどんなことでも取り込み自分のものにするのだ。新雪を足あとで汚すような言いようのない罪悪感を感じていた。
「私、怖かったの……。あの日にもうお客さんとは話せないのかなって思って……」
「……もっと俺と話したかったのか?」
「……多分」
彼女らしくない反応だった。司さんが塔からいなくなった時の話をしても幸せそうにへらへら笑っていた少女が俺と話せなかったことに対してこんなにも様々なことを考えている。そこに驚きと暗い独占欲を感じていた。
「でも、わからないの。どうして人は人と話せないと悲しい気持ちになるの? なんでこれからも話せないと思うと真っ暗な穴に落ちた気持ちになるの? それなのにどうして素直に話せないの? また手を払われるのが怖いから?」
しかし彼女がそうやって感じているのは当然なのだ。俺が彼女の手を払った日に彼女は俺の瞳から感情を盗んだのだ。この数日間で俺からコピーしたマイナスの感情は彼女の中で蒸留された。そうやってオリジナルな感情に昇華されていたのだろう。
「お客さんと話せないととっても悲しい気持ちになるんだ」
だから彼女に聞く言葉は俺の責任だ。俺が責任をもって答えなければいけない。
「教えてよ。お客さん。私は今何を思っているの?」
「それはな……遥」
何も知らない無垢な存在を傷つけて錆びさせてしまった。本当はなにも答えたくない。それでも彼女と誠実に向き合わなければいけないし、なにより俺自身が彼女の先の未来を見たいと思った。……たぶん彼女に逆らえないだけという理由もある。
「それが寂しいって感情なんだよ」
「さ、びしい?」
「そ」
「でも私、寂しいって言葉はもう知っているよ?」
「あー……そうかもな。でも違うんだ」
「違う?」
「ああ。寂しいって感じるとそうやって悲しくなるんだ」
「……そっかぁ」
確かに司さんの話をした時にも遥は『寂しい』という言葉を使っていたように感じる。だが、あの時の寂しいとは内容が違う。楽しいことが存在しないだけの寂しさと、苦痛を感じる寂しさは全く別物なのだ。
「これが寂しい、か……」
「そうだ。それが寂しいだ」
「……うん、うん」
何度も頷いて心の整理をしている。きっと感情に対してラベル着けをおこなっているのだろう。
「じゃあさっき私が泣いたのはなんで?」
「……どうして遥は泣いたんだ? 何を思った?」
「またお客さんと話せると思ったから」
彼女の思いがジワリと汗ばむような熱量となって湿度を上げる。真摯な瞳が嘘偽りないことを証明していた。
「だって誕生日を祝うことは『産まれてきてありがとう』と『これからもよろしくね』を言うためってお客さんが言ってたから」
「……ああ」
遥はあの日の言葉をちゃんと覚えていたのだ。俺が夕食の時にした誕生日の話。
「それは嬉しくて泣いたんだと思うぞ」
「嬉しくても人は泣くの?」
「程度によるが」
「お客さんは?」
「俺は経験ないな」
「……そっかぁ」
「俺に経験が無いだけだから気にするな」
「お客さんが経験ないこともあるの?」
「そうだな。沢山あるぞ」
「ふうん……」
遥はまた感情にラベルを張るために深く頷いている。こんな彼女にはちゃんと言っておくべきだったのだ。
「遥」
「ん?」
「『これからもよろしくね』だ」
「……うん!」
ひまわりのような満面の笑みをする。
彼女はこうやって様々な感情を覚えていくのだろう。人と話せないと寂しいこと。嬉しくて泣くこともあること。それを成長と呼ぶのか退化と呼ぶのか俺にはわからない。
だが、久しぶりに見た遥の笑顔を見て心がほっとしたのは事実だった。今更になって顔の鈍痛が俺の意識を叩く。結構勢いよく顔からいったもんなぁ。あんなに派手にこけたのはいつぶりだろうか? あざになってないといいのだが。
「それと、遥。俺の名前はもうお客さんじゃないぞ」
「え?」
「リサさん。説明してやってください」
「……」
「リサさん?」
「……ん。あ!? え? なんの話だっけ?」
「俺の名前の話です」
なぜか放心しているリサさんに言葉を振る。何かを考えているような感じはしたのだが見当がつかない。遥との会話の間にも口を挟んでこなかったし何を思っていたのだろうか?
「あー……うんうん。遥。実はね、お客さんにはもう私が名前を付けていたのさ!」
「名前?」
「そう! 名前! 聞いて驚きなさいよー!」
一呼吸を置いてから息を吸い公開する。
「彼方。遥の名前に合わせてセットの名前よー。遥か彼方。素敵でしょー!」
「……彼方。彼方。……二人でセット」
「ああ。俺の名前は彼方になったらしいぞ」
なんでこんなにリサさんが大喜びなのかはわからないが、まあ名前に異論はない。むしろこの世界にはしっくりと馴染んだ良い名前だ。
「ねえねえ彼方くん」
「あ?」
「私と彼方くんでセットなんだよね?」
「そうらしいな。遥か彼方ということらしい」
あ。やべ。名前に異論はないんだけど体が痒くなってきた。なんだよ遥か彼方って。不思議なことに自分で言うと恥ずかしくて泣きたくなるぞ。中二病の血が騒ぐぞ。
「じゃあ、私と彼方くんは二人でセットだからずっといっしょ?」
「……そうだな。どちらか抜けたら遥か彼方じゃなくなるからな。遥か彼方でずっと一緒だ」
「遥か彼方でずっと一緒!」
……遥は恥ずかしくないのか? 自分で言っておいて、俺は泣きそうなほど恥ずかしいのだが、なんで彼女はこんなに喜んでいるのだ? 恥という文化は無いのか。ストレートに感情を表しすぎだろ。
遥に優しくしようと思って言った言葉が俺の心を抉る。真剣に恥ずかしくて仕方がない。それでも喜んでくれているのだから正解の言葉だったはずだ。
それに、遥にとっては初めての悪感情からの脱却だからはしゃぐのも仕方ないのかもしれない。俺の手を取って千切れそうな勢いでぶんぶん振り回しているのもしょうがないのだろう。
……しょうがないのか? 喜びすぎなのでは?
閑話休題。
それから俺たちは存分にパーティーを楽しんだ。
ご飯はまあ3Dプリンターで作ったからおいしいのは当然だし、ケーキも良くできていたので失敗する要素が無かったのだ。
ただ、遥はケーキを食べながらまた涙ぐんでくるし、リサさんは「呑まなきゃいけねぇ!」とか言いながらガンガン酒を呑むし、なかなかにカオスだった。気を抜くと遥がすぐ頓珍漢なことを言うので突っ込まなきゃいけないし、リサさんも真顔でやばいことを言いだす。結局、アホの子とアル中の介護だ。
「ねえねえ彼方くん! 私知らなかった!」
「……碌でもないことだと思うがなんだ?」
「誕生日パーティーの時には顔から地面に滑り込んで挨拶しなきゃいけないんだね!」
「ちげぇよ!?」
「え。だって彼方くん私が入ってきたときに『何してるの?』って聞いたら、『お誕生日パーティーだよ。見てわかんない?』って言ったじゃないの」
「あー……いや言ったけどさ! ……あ! リサさんあんた今笑ったろ!」
「いやぁ……良い転びっぷりだったよねー」
「え!? 転んだだけなの!?」
「そうだよ! 転んだだけだよ! ダサいか!?」
「ダサくないよ! 一生懸命パーティーの準備してくれたもん!」
「うあああ! やめろ……優しくするな……同情するな……俺の自尊心が削れていく……」
そうやってしょうもないことを言いあって夜はふけていく。外には俺たちを見守るかのように蝶の川が流れていた。きらりきらりとどこまでも続く光だった。
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