二十話 認識
良い夢を見た。
永遠のように長くて柔らかい夢。どこまでも優しい夢だった。二度寝をしようかと思ってしまうほど良い夢だったが、これから朝ごはんの時間がある。とりあえずは布団から出ることにした。
布団から出ると関節の可動域を平常通りにするために大きく伸びをする。柔軟性のある筋肉は猫のようなしなやかさでよく伸びた。そこに違和感が訪れるが理由は定かではない。
それから遥達のもとへ向かって朝ごはんを取った。自分でちゃんと起きれるようになってから自分で移動するようになったのだが、微妙に不服そうな表情をしていた遥が印象的だった。きっと朝起こすのを楽しみにしていたのだろう。たまには二度寝をしてからかってやってもいいかもしれない。
朝ごはんはいつものサンドウィッチだ。なんでも頼めば食べることができるのは知っているし朝からうな重を食べることが出来ることも知っているのだが、結局は庶民的な料理に落ち着いた。想像力の限界と言ってもいい。
「今日も海行くか?」
「行く!」
「本当、遥は海が好きだよなぁ……リサさんは……無理そうっすね」
「……うい」
よくわからない声を出しているのはリサさんだ。深酒をしたようで顔色はあまり良くない。それでも毎朝律義に顔を出しているあたり朝ごはんを大切にしているようだが……。絶対この後も寝なおすに違いない。
「じゃあ、行ってくるねー」
「……おうー」
体調の悪いリサさんを家に置いて、海へ向かう。第四地区だ。適当なプリンターで必要なものを出力しながら行った。前は俺がわざわざ水着を選んでいたがもうそんなことはしていない。彼女がいつもの白のワンピース型の水着を勝手に作っていた。
というか年頃の女の子の水着を勝手に準備するとか高レベルの変態みたいだよな……。俺は何を考えていたんだろうか? ここでも何かの違和感を感じた。
違和感。
涙を流した日からもう一か月は経っている。それから今日までに、たびたび昔におこなった行動や現在の状態に違和感を覚えていたのだがよくわからない。だが、その違和感だけがこの幸せな日々のノイズであり不快であった。
「前に行ってた広場は多分沈没しているよな? 他のいいところある?」
「もちろん! 塔の殆どの地形を暗記している私に任せなさい!」
「マジでその能力凄いよなぁ……」
数日前に行っていた広場はもう水遊びに使うのは厳しいだろう。首まで沈没している広場だと遊ぶのは結構苦しいのだ。こうやって広場を変えるのは三回目だ。俺が打ち上げられた広場なんてずっと前に沈んで姿を消している。沈没の速度が速くなっているのは間違いないようだ。
「ついたー!」
「おうー」
遥の気の抜けた声に合わせて俺も気の抜けた声をあげる。今回の広場は腰ぐらいの高さだ。当分はここで遊ぶことができるだろう。
まだ水着に着替えていなかったので、適当な影に行って着替える。初めは遥を影に追いやっていたのだが、俺が移動した方が声かけなくていいし楽なことに気がついたのだ。
そうやって着替えを済ませて、念のために適当に時間を潰す。十分だと思って覗いたところ、既に海に入り始めていた。
「お客さん、はやくはやくー」
「ん。今行くから待て」
小走りで海へと向かう。足先から入る。少し冷たい。いつもの海だ。
なんでこのアホの子はこんなに元気よく海の中で遊んでいるのだろうか? 少しは体を馴染ませる努力をしないのか? 最初っからアクセル全開で遊べるのはなんでなのだろうか?
「うりゃっ!」
「うわっ。遥!」
そんなことを考えて呆れながら遥を見ていたのだが、突然水をかけられる。手で作る水鉄砲だ。俺が何回か前に教えたやつだ。こんな単純なことでも楽しんでくれる遥の純粋さがかわいらしいし、こんなことで嬉しくなる自分のちょろさも恨めしい。
おれはわざと大きめな声を上げて水鉄砲の準備をする。遥はきゃーきゃーと言いながら逃げた。だが逃がす気は無い。こっちはお前よりも三年ほど長く生きているし、水の掛け合いで遊んだ回数も段違いだ。このキャリアにかけてお前を見逃すわけにはいかない。
だが、追いかけようとするがなかなか差が縮まらない。たまに近づくのだが水鉄砲の距離に彼女はいない。手で作るなんちゃって水鉄砲では無くて本物の水鉄砲なら届いただろうが飛距離が足りなかった。なんなら彼女はまだ余裕があるようで、後ろを振り返り反撃までしてきた。
そうだった。こいつはあらゆる能力の天才だった。キャリアとか言ったが、俺はそんなに水鉄砲ガチ勢では無い。今では遥の方が飛ばせるのではないのだろうか?
……いやなんで俺より飛ばせるんだよ。水鉄砲の才能ってなんだよ。
イラっとした俺は水を手ですくい直接かける。届いた。
ずるーいと声を上げるが、ざまぁ見ろと笑ってやった。たとえ水鉄砲が届かなくても対格差のおかげで俺の方が遠くまで水をかけられるのだ。
どんなことでも大人げなく本気でやるのが俺のモットーだ。ついでに言えば負けず嫌いだ。この条件下ならば俺の方が手が長いので有利だ。
そうやって笑い合いながら水をかけていると不意に遥が近寄ってきた。なんだろうと思って見ていると、突然手を伸ばしてきた。
「いや。触らせねぇよ⁉」
「あ」
また彼女は傷跡を触ろうとしてきたようだった。わりとよくあることなので慣れてはいるが心臓に悪い。
「いや、あの。違うの」
「あ? 違うのか?」
「いや触るつもりだったんだけど……」
「触るつもりじゃねぇかよ!」
神妙な表情をしているから聞いてみたのだが結局触りたいようだ。何を言っているんだこいつは……。
「えとね。なんか傷が薄くなっているなぁって思ってね」
「傷が?」
「うん」
そう言われて傷跡を確認する。確かに薄くなっているような気がする。ぐーっと体を反らせると、それに合わせて柔軟に体が動く。
動きに支障がない。そう。動きに支障が無いのが変なのだ。大切な臓器を傷つけなかったとはいっても筋や筋肉は痛めつけられていたのだ。前は突っかかりのようなものを感じていた。
そうだ。朝起きた時の違和感はこれだ。体調が良すぎるのだ。
もともと俺は体調が良い方ではない。精神的なものが身体に影響しているのは間違いないが、身体自体も怪我をしているため自由では無いのだ。
「塔のおかげ……なのかな?」
「うん? たぶん?」
「自信なさげだな」
「だってそんなに大きな傷跡があった人見たこと無くて」
「なるほど」
塔の『保護』がどこまでのものかは遥にもよくわかってないようだ。実際、俺も気にしてなくても普通に生活できるのだからそうなのだろう。かなりブラックボックスだ。
「えい」
「ひゃいっ!」
隙を突かれて、触られた。また変な声が出た。これだけはずっとなれる気がしない。ケラケラと遥が笑う。
「本当にお客さんはよわい」
「わかった! わかった! ちょっ……やめっ! わかったから突くな!」
遥が突きながら近寄ってくる。遥はいろんな遊びで暇つぶしをしているのだが、これはその中でもお気に入りのようだ。何回言ってもやめてくれないので仕方がないことなのだろう。きっと俺の反応が面白くてたまらないのだろう。
……脱衣で反応を見るようにならなくてよかったと本気で思う。
「いや…いい加減にしないと……うわっ!」
「ん、お客さ……きゃっ!」
俺は遥から逃げようと後ろ歩きをしていたのだが波に足を取られて後ろ向きに倒れこんでしまったのだ。その勢いに巻き込まれて遥も倒れてしまう。大きな波しぶきを立てた。
「遥……えっと大丈夫?」
「えへへ、大丈夫」
倒れる遥を咄嗟につかんでしまったので距離が近い。肌は触れ合っているし、呼吸が肌に触れあいそうなほど顔は近かった。
「……っ! ほら。立てるだろ?」
「うん? 立てるけど?」
気恥ずかしさに突き放した言い方をするが気にしていない。いつものことだがもっと自分の魅力を理解してほしい。こんなストッパーの無い世界で普通に生活できるのは俺の理性の賜物であることを理解してないのだろう。
俺が心無い獣だったのならばとっくの昔に恐ろしい目にあっているはずだ。
——いや? もしもそんなことをされてもこの子は気にもしないのでは?
艶めかしい気持ちが湧きたったので、彼女から目を逸らす。
そして、そのまま勢いに任せて遠泳を始めた。
「あ。待ってよー!」という声も聞こえたがあまり待つ気は無い。邪な感情を水に流す必要があったのだ。
きっと俺が手を出したら、よっぽど痛くしなければ彼女は受け入れるに違いない。なんなら新しい暇つぶしの道具ができたと喜んでくれそうだ。
それが良いことなのか悪いことなのか今の俺には理解できなかったのだが、きっとこれも認識の問題だ。
俺がこの世界を幸せだと思っていることも、幻聴や悪夢に悩まされていたのも認識の問題だ。認識によって世界が象られるならば、その上に成り立つ意識も認識の問題であり善悪もその一つでしかない。
遥と俺が認識している世界は別の世界だ。ならば、彼女と俺とでは違う善悪があってしかるべきだ。俺の善悪を遥に押し付ける必要はどこにある?
……つまるところ俺はもっと享楽的で快感のある世界を欲していたのだ。
その口実にこんな意味のない自問自答を繰り返している。その第一歩としてすでに飲酒はおこなったのだ。俺の世界では悪の行為であったが、こっちの世界では悪ではない。
むしろ気分が良くなるという意味では善の行為だ。
功利主義的には人生における幸せの最大化が至上目的とされる。
ならば三大欲求の『睡眠欲』、『食欲』、……『性欲』を満たすことも目的の一つなのではなかろうか?
ここ最近。こんな考えが頭をよぎってしまうのだ。
正直、不健全でふしだらだと思う。まだ何も知らない赤子のような彼女にそんな破廉恥なことをするのは道徳が許さない。
だが、ここに来て二か月間よく耐えてきたのではなかろうか?
どうせ、俺はここで死ぬんだ。流石に一度もしないで死ぬのは忍びない。
しかも向こうも気にしてないという。
誰も不幸にならないのではないのだろうか?
むしろもっと『幸せ』に生きられるのではないのだろうか?
そこまで考えて大きくかぶりを振る。違う。そんなことをやってはいけないんだ。この世界では俺だけがストッパーなのだから、ちゃんとしなければ。
——ストップってなんの?
そうだなんのストップなんだ? なんで止まらなければならない。善悪は認識の問題で、ここにはその行為が悪だというはっきりとした認識がない。悪では無いのだ。ならばなぜ止まらなければ……。
「ああー……くそっ」
遠泳に疲れて脱力する。後ろから遥がやってきた。目が合う。純真無垢のまさに童女らしい瞳が見ていた。
「もうーお客さん突然泳がないでよう」
「悪い悪い……」
その謝りは彼女を心の中で辱めてしまった謝罪なのか、突然泳ぎだした謝罪なのか少し判断が必要だった。
「次こそはちゃんと競争してよ?」
「俺が? 遥と?」
「そうよ!」
「……勝てる気がしねぇ……」
最近は何をやっても勝てないんじゃないかと思ってきた。腕相撲でもやってみようか? でももしそれで負けたら本当に泣けるなぁ……。百マス計算でもやってみようか……ああー、百パーセント負ける自信しか無い。
なんとなくみじめな気持ちになるがそのままわいわい遊ぶ。もちろん遠泳は負けた。そうやってすべてを忘れるように遊んでいると、あっという間に夕ご飯の時間になっていた。
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