十九話 幸せ
涙を流してから俺は生まれ変わった。
呼吸は軽やかで何をしていても楽しい。すべてのものが自分を肯定している感覚を人生で初めて味わっているのだ。
夢のようにふわふわとしている。普通に生きるというのはそれだけでこんなにも素晴らしいことだったのか。
「あ……。ええと、遥。おはよう?」
「ん? お客さんおはよう!」
「昨日は、その、すまなかったな……」
「昨日? あの泣いていたの?」
「ああ、それだ。あー……取り乱してな。その……」
「別にいいよ? リサちゃんもあんな感じで私を慰めてくれたことあるし」
次の日に顔を合わせたのだが、気恥しがっているのは俺だけだった。遥はいつもの通りだ。あの行為も昔にリサさんがやっていたことを真似ただけらしい。
そんな様子の遥に合わせて生活していると、午後にはもう変な気遣いというか壁を感じることは無くなっていた。
「お客さんも読画するの?」
「ああ。意外と面白くてな」
「ふーん……。じゃあ、この話がおすすめでね……」
べつの日の会話だ。
今まではあんな低級娯楽と思っていたが、いざよく見てみると面白い。他に遊ぶものがないのだから、あれがこの世界で最も面白いものだ。何度も見続けている遥の精神状態を心配したものだが、今では一緒に楽しめるまでなった。
「今日は雨だね」
「ああ。出かけるのは無しにするか?」
「んんー。なんかもったいないし行こ? 傘持ってさ!」
「まあ、そういうなら」
雨の日の会話だ。
結局のところ遥もリサさんと同じようで気分屋のようで、雨でも外出するのだ。傘をるんるんでさしているあたり実は雨が好きなのではなかろうか?
「適当に朝ごはんを食べるつもりだけど、二人は?」
「じゃあ、同じものでいいよ?」
「同じくー」
ある朝のことだ。
もう晩御飯だけ一緒に食べるなんて変なことはやめた。早起きはできるようになったのだから何か困ることがあるのだろうか? そうそう。体のけだるさは綺麗になくなったのだ。健康ってこんなにも素晴らしいことだったのか。
「それじゃあ、海行こうか」
「うん!」
「……リサさんもそろそろ一緒に来ません?」
「んー、えー?」
「別に減るもんじゃないんですし」
「でもー」
「ああ! もう! いいからリサちゃんも来ようよ!」
「んん……」
「遥がこう言ってるんだしたまにはどうですか?」
「……わかったぁ。行くよー」
「やったー!」
その日の会話だ。
なんとあのリサさんを口説き落として海に連れ出すことに成功したのだ。連れてきたリサさんは海に入ることは無かったのだが、波打ち際で揺れる波をからかっていたのだからきっと楽しめたのだろう。
「ねーねーお客さん。まえ話していた『幸せな王子様』の続きを教えてよ」
「あー、アレな。燕が不憫なやつ」
遥の関係も良好だ。
いろいろ話してみたのだが一番受けが良いのは、昔話や童話、神話の類だったのは驚いた。もちろん聞かれても、無駄にグロいグリム童話を無意味に忠実に伝えることは無かったのだが……。読画が教訓的なことを多く含んでいたので、ひょっとしたら同じように教訓的な意味を強く持つ話は相性が良いのかもしれあい。
「ん? 君もお酒呑むのー?」
「まあ、どうせルールなんて守る必要ないですからね」
別の日には酒を呑んだ。
初めての飲酒。やたら度数の高い酒ばかり進めてくるリサさんには困ったが、それでも楽しく呑めれた。夜遅くまでゆめうつつのまま酒を呑んだせいで、起きた時にはリサさんの部屋にいたままだったので結構焦った。
「なあなあ。あの蝶がいる理由知っているか?」
「ん? 知らないけど?」
「どうせそんなことだと思っていたよ……。よくわかんないけど塔の維持のためにいるらしいぞ?」
「維持?」
「そ。沈まない様にエネルギーの供給をしているみたい」
「え。そうだったの⁉」
「まあ、お前にはただの不思議な蝶にしか見えないよな……そもそも不思議でもないのか……」
夜のことだ。
今日も流れる蝶を眺めながら話をする。一応調べればわかることなのだが、遥はやっぱり知らなかったようだ。生まれた時からあるものだから不思議にも思わなかったのだろう。
†
「ふう……」
俺は今、一人で部屋にいる。
ここ数週間のことを思い出していたのだ。一日がその日にしか楽しめられない彩りに包まれており、底抜けに楽しいのだ。
初めはこんな単調な生活は飽きてしまうかと思っていたが、そんなことは無かった。どこまでも快楽という言葉しかない。
これが幸せなのだろうか?
あの涙を流す日までは心のどこかに棘が引っかかっていたのだ。その棘は今でも薄く違和感として胸を刺激することはあるが大きな問題ではない。むしろただの勘違いのようにさえ感じる。
『幸せ』
これが幸せなのだろう。等身大の俺よりも幾分か過分な幸せのように感じて申し訳なくなる。だが、胸が温かくなって自分の居場所を信じることができる感覚は幸せに違いない。俺は産まれてきてよかったのだと肯定できる。
『幸せ』
長かった。俺の里親になった彼から『■■■■■?』と聞かれてからずっと俺は救われていなかったのだ。きっとあの人は俺を救おうと必死だったのだろうが逆効果になったあたり人付き合いは難しい。
なにはともあれ紆余曲折あったが自分の居場所と幸せの意味を理解することが出来たのだ。それは俺の実感にあるし、直感も肯定している。だってこんなにも幸せなのだから。
だが、とても残念なことだがこの幸せは長くは続かなかった。
近いうちに、魂の永住の地が失われてしまう。そしてその地は俺の手で壊してしまうのだ。
幸せだった。
夢のような生活だった。もっとこんな楽しくて幸せな日々が続けばよいと思っていた。むしろ幸せすぎて、夢と言っても過言では無かった。
夢。水に浮かぶ、うたかたのように柔らかくて脆い存在。現実か妄想なのかあやふやな境界線。その延長線上の認識の世界。
そうだ。俺はこの時期を夢と認識している。幸せで温かくて救われる夢。実際このころの記憶は思い出すのがとても難しいのだ。断片的に靄がかかる。それだけ思考が少なかったのかもしれない。
結局のところ、各個人の認識で世界は容易に変容する。それが妄想であれ、正しい認識でさえそうだ。妄想でも夢でも個人が救われるのならばそれは救済に違いない。おれはこの世界に救われていた。
そんな救われた分際で楯突くことができるのだろうか? どうして反抗しようと思うのか? 天に唾を吐くようなものだ。誰も救われない。
それでも誰も救われない選択肢を俺は取ることができる。ハッピーエンドを前にしても苦い現実を無理やり突き付けてしまうのだ。
俺は知っている。
俺はなんにもできないくせに、助けの手を払いのけることについては超一流のセンスを持っていることを知っている。潔癖で何も捨てられない。ひどく独善的な性格。それが俺だ。どんなに環境に歪められてもそれだけは本当のことだ。
だからこの夢から覚めるのもそう遠くは無いのだろう。
いつだって俺が見るのは悪夢だけだ。
俺が夢だと認識しているならば悪夢になる。どんなに温かくて柔らかいものでも悪夢に決まっている。
俺はそうやって認識することで世界を壊してきた。
今回も例外ではない。
出会った女の子がかわいかったせいで多少浮かれてはいたが、結論に大きな影響を与えるほどではなかった。
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