二十一話 塔

 そうやって夕ご飯を食べて日が暮れた。

 今は暇つぶしに、蝶の流れを見ながら散歩している。遥は俺の前を舞うようにひらひらと歩いている。何が楽しいのかわからないがとにかくご機嫌だった。


「昼あんなに遊んだだろ……なんでそんなに遥は元気なんだ?」

「うん?」


 後ろをくるりと向く。それに合わせてスカートが弧を描き、隠されていた素足の艶やかさが目にあまった。


「もうー、お客さんが体力無いだけだよー」

「いや、その理屈は無理がある」


 相変わらず脳筋の発想だった。未来人が才能の塊なことは知っているが、気遣いの才能とかは無かったのだろうか?


「でもお客さん。昔に比べたらずっと体力増えたよ?」

「まぁな」


 そうなのだ。体力が増えた。塔の保護下に置かれたおかげできっと身体の健康な状態が維持されているのだろう。なんやかんやで一番オーバースペックの代物は塔なのかもしれない。

 まあ、今、空を飛んでいる蝶もオーバースペックに間違いないのだが……。この世界から逃げるとかそういう他意は無しに調べていたのだが、この蝶は相当なエネルギーを保有しているようだ。

 しかもエネルギー源は不明。最初は太陽光かなにかだと思ったのだがそうでもない気がする。雨の日でも光の強さは変わることは無かったからおそらくそうだ。太陽光ならば気候に影響されるはずだ。


「俺もいつかは遥みたいに元気になるのかな?」

「たぶんなるよ! なんなら私よりも大きいんだしもっと元気になるよ!」


 遥よりも元気に動く十六歳児の俺を考える。

 ……似合わねぇ。すっごい頭悪そう。基本的にハイライトが灯っていない俺の瞳にハイライトが灯っているだけでも嫌な気持ちになった。


「いや、ごめんやっぱりなれないわ……」

「ええー」


 不満そうに声を合わせてくるが、不機嫌でもそうでもないようだ。澄み切った彼女の笑い声が夜空に響く。


「いや。お前も俺が元気だったら気持ち悪いって思ったろ」

「別にそんなこと……っぷ、思ってないよ?」

「……いま笑ったろ」

「え、いや……別に……ふふ」

「やっぱり笑っているだろ!」

「ええーそんな……ふふ、あははっはは!」


 そんなに元気に動き回る俺が面白いのか、体をくの字に折りながら笑い始める……。

 こいつ……! 陰キャという概念がないはずなのに的確に陰キャの概念を手に入れ始めている気がする……! あれか。俺がこの世界に来たせいで陰キャの概念が生まれたのか? ひどい話だ。

 とりあえず笑い終わるまで待っておくか。俺は不満だぞという意思表示のために多少渋い顔もしてやろう。


「……落ち着いたか?」

「ええー……、うん。あーわらった……ふふ……」


 笑いすぎたせいで瞳にたまった涙を目で拭いながら彼女は言った。その時の瞳の濡れ方が色っぽくて動揺してしまった。

 ……最近はこんなことばっかりだ。明らかに色に狂いそうな自分がいる。自覚はあるが、自覚がある分だけ自分を抑えることが出来ている。もっとも抑える理由があるのかと自問自答するありさまではあったのだが。


「お客さん?」


 のぞき込むように一歩踏み出してくる彼女。俺の様子がおかしかったので気を使ってくれているらしい。彼女の髪が肩からするりとすべり落ちた。そこから彼女の匂いがした。

 ここの世界の住人は共感能力が欠如しているように見えるのだが、人の感情の機微には驚くほど敏感だ。

 考え事をしているときの間と、もっと深刻なことを考えている時と、たんにぼけーっとしている時の差なんて普通の人間には分かりっこないのだ。だが、彼女たちは俺が真剣に悩んでいる時を確実にかぎ分ける能力がある。

 なのに、遥が見当違いの対応しかできないのは対人能力の圧倒的欠如が原因だろう。環境が最大の問題だ。


「……っ。えっと」


 俺の足は気づいた時には止まっていた。前にも後ろにも進まない。歩きながらだとしたら彼女から逃げることもできたのだが、もうそうもいかない。どこまでも目の前にいる彼女の線の細さのことしか考えていなかった。


「ええとな、遥」

「うん?」


 小首をかしげてこちらを向く少女。

 ここに止めるものは何もない。今ならいけるのではないのだろうか?

 どうせ彼女は何もわからない。

 善悪もない。

 ここにはルールも何もない。

 性欲を満たすためだけに手を出すのは恥ずべき行為なのだが、恥という概念があるかも怪しい。こいつはほぼ初対面の俺の前で服を脱ぎ始めたんだぞ。今更だ。


「遥」


 体が妙に熱っぽくて心臓の音がうるさい。さっきまで考えていたことがどんどん忘れて、彼女の愛らしさと美しさに心を溶かされていく。

 ……もういっか。

 もういいんだ。めんどくさい。なにが功利主義だ。概念だ。善悪だ。

 俺はただもっと『幸せ』になりたい。もっと快楽を享受したい。ここではそれができるし許される。もうそれだけで十分だ。

 手が上がる。

 彼女はまだなにも気づいていない。そりゃそうだ。異性の劣情に晒された経験なんてないのだから。まあ、今の俺が変だとは思っているかもしれないが。

 一瞬の間で十分だった。

 俺の手は彼女の頬に触れた。

 思った以上につやつやとしていて樹脂を触ったようだった。人の……女性のほほはこんなものだったのか。


 驚きで見開かれた彼女の瞳が生きていることを伝えてくれたが、俺は瞳よりも彼女の唇の方にずっと興味を持っていた。

 触れたらどうなのだろうか? 柔らかいのだろうか? 甘いとか言っているバカもいたが味覚さえも気になる。

 唇だけではない。そうだ。これはすべて俺のものだ。誰にも邪魔させてたまるか! 思考と同時に首は動き始めている。


 そうやってお互いの距離と熱の差がゼロにするために動かす。あと数センチ。もう止められない。止める気もない。

 だが、そこで。

 胸の傷に激痛が走った。


「……ぐっ! あああっ!」


 突然の痛み。しかもかなり痛い。目の奥がチカチカして冷汗がどっと出てくる。


「え、え? えっと? お客さん⁉」


 ワンテンポ遅れて遥が反応した。遥も突然のことにキャパオーバーしていたようだ。だがそんな遥を気遣う余裕はなかった。

 痛みは短いものだったのですぐに引いた。そこは問題ない。あんなに古傷が痛むのは初めてだったので困惑はしたが今はそれさえどうでもいい。


 ——俺は、今何をしようとした?

 彼女に手を出そうとした? まだなにも知らない彼女のことを? 善悪の基準は認識でこの世界では悪と認識してないからセーフ?

 そんな馬鹿なことがあるか。

 その言葉を借りるのならば、俺が悪だと認識したはずのことをなぜ悪だとわかっていない?

 おかしい。おれはこんなゲス野郎ではないはずなのだ。

 俺はやっちゃいけないことが何かをちゃんとわかっているし、それを守ることができるはずだ。どんな限界の状態におかれてもそこだけは変わるはずがない。

 自分の『幸せ』のために誰かを犠牲にすることなんて俺が許さない。

 だが、驚いたことに別にそれもいいんじゃないかと思う自分がいた。そのことが怖かった。自分の思考の中に理解できない自分が住み着いているとこにようやく気がついたのだ。他者を犠牲にしても幸せになれというのだ。


「えーと……大丈夫?」


 遥が聞いてくるが少し待ってくれと言っておいた。もっと今は重要なことがある。今しかチャンスは無いんだ。この機会を失うわけにはいかない。もっともっと深く思考する。

 確かになにかがおかしいとは思っていた。

 ずっと違和感を感じていたのだ。俺は自分のことを多少頭のおかしい人間だと自負しているが、あと一年で滅ぶ世界を受け入れられるほど頭がおかしくないはずだ。

 そうだ。第四地区の3Dプリンターが水に沈んでいただけでパニックを起こしかけたことがあるくらいだぞ。なんで広場ごと三回も沈んでいるのにこんなに『幸せ』に生きているんだ?

 『幸せ』

 なんで幸せなんだ?

 俺は幸せを感じられないちょっと変な人のはずだ。なんで幸せに生きている? 俺が幸せに生きることができるなんて誰も認めてくれないのに。なのにどうしてこんなにも俺は間違いなく幸せなんだ?

 そうだ! 幻聴は? 悪夢は? どこに行った?

 あいつらはどこに行ったんだ? 精神状態が安定したから消えたとか思ってはいたが小学生のころから付き合っているものがそんな簡単に消えるはずがない。

 耳をすませる。何も聞こえない。無音だ。幻聴が完全にしないことに驚いたが、それ以上にもっと「幻聴がないなら健康的でいいのでは?」と思う自分がいた。なぜもっと深刻に考えない……‼


 考えろ……今までのことにヒントがあるはずだ。

 ここが最後のターニングポイントだと直感した。ここで気づかなければ全部を持ってかれる。 考えろ考えろ……! 違和感を感じることなんてこの世界に来てごまんとあったはずだ……!


 ——妙に体の調子が良い?

 塔のおかげだ。塔が体調管理をしてくれているおかげで、こんなにも快適な生活を送ることができている。


 ——悪夢や幻聴が消えた?

 体調がよくなったおかげだと思っていたがおかしい。肩に力を入れないで生活するのは高校生になってから比較的いつもできていたことだ。もっと早く治っても良いはずだ。


 ——きっと自分が見落としているだけで未来の技術が効力を及ぼしていることがあるに違いない。

 随分前にリサさんの部屋でロボットを見た時に思ったことだ。きっと俺が気づいてないところに何かの答えがあるはずだ。


 ——『幸せ』を感じる?

 そう、俺が幸せを感じるわけがない。仮に幸せになったとしてもこんなに痛ましいものでは無い。もっと救われていて違和感のないものだ。そんなにも否定しているはずなのに、いまだに寄り添ってくる救いが愛おしくてしかたない。


「ねーねー聞こえている? ね?」

「……」


 わからない。何もわからない。明らかな異常を検知しているのだが、わかることは感情はあてにならないということだ。今も、俺の心はこのまま幸せに生きればよいじゃないかと言ってくる。

 もっと記憶に基づいた確かなことを見つけなければ……感情一つで認識が変わるものでは無くて、もっとはっきりとした……! そこで不意に一つの会話を思い出した。電流のようなものが頭を走る。


 ——役に立ちますー。心身の健康のためには必要ですー。

 かなり昔の会話だ。初めて遥達と話したときにリサさんが言った言葉だ。心身……。心身……心……!

 ま、さか。

 まさか、まさか、まさか。

 ——生命維持の確保ができるんだけど……。

 別の時の言葉だ。生命維持。あの時は肉体的健康だけだと思っていた。だが、人の死因は怪我や病気だけではない。

 ——それに同じ天気がずっと続くとメンタル指数にも影響があるから……。

 心が病んでも人は死ぬ。人が死ぬのに道具はいらない。頭がおかしくなれば人はどこでも自殺も他殺さえもできてしまうのだ。……俺のメンタル指数はいくつなのだ? 相当に悪い自信がある。


「なあ? 遥?」

「ん?」

「俺は塔の保護下にいるんだよな?」

「そうだけど?」

「……っ!」


 塔から見て、幻聴と悪夢に悩まされて発狂一歩手前の俺はどう見えたのだろうか? 心身ともに健康な姿に見えるのだろうか? 最低でもあのころの俺は今よりもずっと不幸せだった。


 そうなると当然、塔は精神に介入をしてくるはずだ。

 まだ、塔が精神汚染……いや浄化か……精神浄化をおこなうとは決まっていない? そんなはずがない。むしろ未来に来て満ち足りた生活をしている間に幸せになったと考えるよりは心が改竄されたと考えた方がずっと筋が通っている。

 冷汗が止まらない。

 この事実に恐怖をしているのではない。この事実に気づいたときに「まあ、合理的だよな」、「幸せなら別にいいだろ」と思った自分に恐怖した。そしてこの恐怖さえもきっとすぐに無くなるのだろうという事実にもっともっと恐怖した。


「お客さん?」

「う、うわっ……!」


 目一杯に遥が広がった。いつもの何も感情を感じさせない透明の瞳だ。その瞳に未来の俺の姿を見る。幸せそうで少し妬ましかった。


「うーんと、ねえ、聞いてる?」


 手をこちらに動かす。きっと俺のことを思っての行動だろう。だが、今の俺にはその手が塔の魔の手にしか見えなかった。


「触るなっ!」


 手を振り払う。彼女の瞳が、声が、目が。無機質で気持ち悪かった。それに憧れている自分も気持ち悪かった。自分の同一性が保持できない恐怖だった。


「あ……」


 彼女の瞳が見える。反射した瞳は俺の色を映していた。困惑や怯え、恐怖……とにかくマイナスの感情だった。よく見るとその瞳の色は俺の色だけでなく彼女の瞳の色も混ざっていた。

 冷静に考えると彼女にとっては初めての他者からの拒絶だ。彼女の初めてのマイナスの感情に違いない。その事実が俺を羞恥させる。

 気持ち悪い。ごめんなさい。でも吐きそうだ。

 ぐちゃぐちゃの感情を抱きしめながら、今の気持ちがなくなってしまわない様に走り去った。

 泣きそうで、笑っちゃいそうで。今も塔に精神を犯されているのならばどこまでが俺なのかもわからなくて。

 ただ無様に転がり落ちるように逃げていった。すべてが怖かった。自分も。世界も。そんなかわいそうな俺を、蝶は見守るかのように夜空を流れていた。

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