二話 目覚め

 自転車で坂道を下ってしばらく。海についた。

 憎たらしいほどにキラリキラリと輝く海は『母なる海』の文字の通り俺を受け入れてくれた。


 さて、海へ来たのだが……。

 ここで何かしたいことがあって来た……という訳では無いことを改めて確認させられてしまう。

 ひどい寝汗と母なる海でない――言葉にするのも憚られるもう一つの不浄の海の不快さは自転車に乗るうちに綺麗に失せてしまっていたのだ。

 こういうことはよくある。

 ひと月に何度か意味もなく海に来てしまう。きっと海の持つ魔力が原因だ。そのような時には決まって適当な木陰に座って昼寝をしたり本を読んだりゲームをしたりする。


 特にあてもなく太陽から逃げるように木陰へ行く。

 汗ばんだ体に海風が吹き、とても心地よかった。どこまでも続く水平線はまるで俺を包み込むかのように堂々としていた。


 まだ初夏に差しかかるかギリギリの時期だった。気温のわりに人はいない。

 真夏になると海水浴場に人がやってくるはずだ。もっとも、人が多い時には、俺は遊泳禁止の適当なところまで移動するので問題はもともと無いのだが。


 鞄の中に暇つぶしの道具は無いのかと探してみる。しかしゲームや本のような時間をつぶせるものは持ってきていなかった。多少呆然とはしたが、それもそれでよいかと思い海を見る。

 海はどこまでも広がっている。左側にある突き出した岩が左右均等ではない証だった。今向いている方角は西なのできっと夕日が赤く照らすに違いない。

 浜辺にはカップルらしき男女がいた。

 波をからかいながらきゃーきゃー言っている。ただ、屋外は音が響かないだけあって、近くだとやかましくて仕方ない声は軽減されていた。


 そのまま耳をすますと、遠くから海風と潮の音が交じり二重奏となって耳に届いてきた。学校で聞いたシャープペンシルとチョークの二重奏とは異なる実に優しくて穏やかな二重奏だった。

 もし、日本に『文化的な放課後ライフ』というコンテストがあったのならば上位に食い込める自信がある。

 深く息を吸い込み現状を客観から理解する。どうだろうか? 健康的か? 文化的か? ……幸せか?


 ――これが『幸せ』なのだろうか?

 不意に思った。

 しかし違う気がした。そしてそれは肌で実感できることでもあった。確かに海風は心地よいものであった。

 それでも俺には幸せになんか感じられなかったのだ。

 ならば幸せとは何のことだろうか? ——とも感じる。……それは、なにか、どこか、嬉しさや喜びとは違うような気がするのだ。


 『幸せ』


 最近よく考えるようになったことだ。

 昔は確かに感じられた覚えがあるのだが、もうよくわからない。ひょっとしたら昔から感じていなかったのかもしれないがそれではあまりに気の毒だ。幸せを思考する目的は分からない。

 そこでとてもなじみ深い幻聴が聞こえた。誰かの問いかける声だ。

 別に俺はつらくはない。

 そういつも答えてきたが彼らは信じてくれなかった。

 考えれば考えるほどに手の中の空気のように指と指をすり抜けて逃げてしまう。その現象は腹が立つ上に不愉快で――少しばかり妬ましく憧憬に駆られるものでもあった。


 『幸せ』


 そもそも人は何を求めるというのだ。

 不自由のない暮らし――。

 明日の約束された世界――。

 満ち足りた何もかも手に入る社会――。

 例え何もしなくてもこれらを享受できるのだ。

 それで満足なのでは? なにがまだ欲しい?


 『ならば実情の所、彼らは真綿で首を絞められているだけなのではないか?』


 そんな薄暗い考えが俺を睨んできた。まさにそうなのかもしれない。

 緩慢に死への道のりを、たいして期待もされずに。遠回りに見せかけた最短距離で、のろのろと体を引き摺って。どこにも目的なんて無く、ただ単に呼吸を繰り返しているだけという意味だ。


 ――それでも彼らは幸せだというよ?

 女性の声がした。当時は俺より年上だったが今では年下だ。

 そして、彼女はそんなことを言ってない。針でやわらかいところを刺すような言葉は間違いなく彼女のものだが、それでもこれはただの幻聴だ。


 ああ、くだらない。

 心からくだらない上に腹が立つ。もう考えるのはやめだ。色々考えてはいたのだがもうどうでもいい。

 天気が良いので昼寝をすることにした。

 教室ではあんなに暑く感じたが、むしろ海は風が強く体が冷えることを恐れる方が良さそうだった。あまり長居するのも良くないかもしれないが、もう一度坂道を上る気にもなれない。別に一時間ぐらい勝手だろう。


 あいかわらずカップルは、はしゃいでいた。海に入れる時期でもないのにわざわざ来るということは地元なのかどうなのか。ひとこと言えるのはそれなりのバカップルということだけだ。

 よくよく見ると男の方も女の方もそこまで顔が整っているわけではないことに気がついた。

 勝手に陽キャのリア充扱いしていたがそうでもないかもしれない。特に男の方は豚と馬を足して二で割り、愛嬌を良くしたような顔をしている。

 表情は穏やかでデートを楽しんでいることが良くわかった。


 それからは暇だったので勝手に彼らのことを考えていた。

 きっと大学生だろう。いつまで付き合うのだろうか?

 どんな趣味なのか? どんな性格で、何を話すのだろうか?

 結婚するのだろうか?

 今晩は何を食べるのだろうか?


 最後は、何に変身してどんな宇宙人と戦うのか? と、考えていた覚えがある。 なにぶん眠る前のことなのではっきりは覚えてはいない。





 長い夢を見ていた気がする。夢の内容は……思い出せないが良い話では無かった……と思う。

 しかし、まあ。正直なところ夢なんてどうでも良かった。なぜならば俺にはもっと重要なことがあったからだ。


 ――ここは、どこだ?

 言葉にすると実に薄っぺらで。でも確かな質感を持っていて――端的に今の状況を表していた。

 真っ白な天井。

 真っ白な壁。

 真っ白な床。

 真っ白の机と椅子、今俺がいるベッド。

 窓に浮かぶ、吹き抜けた青い空。

 ほのかに塩辛い大気。

 この部屋にあるものだった。それ以外のものは無かった。


 おかしい。大いに意味不明だ。

 俺は海辺でうたた寝をしていたはず。ならば当然、海辺で起きるはずだ。それなのにもかかわらず謎の真っ白な部屋に居たのだ。誰でも困惑するだろう。

 補導……いや、ありえないな。補導するならば必ず俺を起こす。ならば同じ理由で保護も却下。ならば……まさか誘拐? いや、それも無いだろう。見張りが一人もいないことや、窓が開けはなたれていることが不自然だ。


 それに……。

 白すぎるのだ。全ての物が。

 ――まるでこの世の物でないかのように。

 その一言にはっとさせられた。いや、違う。そんなことはありえない。でも、まさか……俺は死んでしまったのか?


 どくんと心臓がひきつった。

 だらり、と流れた嫌な汗を左手で拭い、右手で心臓を抑える。

 冷静になれ。深呼吸だ。

 不意に頭に何かが走る。赤い。その何かは頭にズキリとした痛みを残す。突如、地球の重力が変わり地軸が曲がる。地平線と水平線が遠近法にストライキを起こす。苦しい。どうせ、おまえは何にもなれないのに。


 ――くそっ! 冷静になれ!


 胸に当てていた手を振り払い、頭に打ちつける。そのまま両手で頭を抑える。数分ほどすると冷静になった。

 やはり、死んだのだろうか?

 いや、違うと思う。というより違うと信じたい。やり残したことがたくさんあるという訳ではないがまだまだ生きていたい。生きなければいけない理由がある。


 …………。

 駄目だ。さっぱり訳が分からん。

 しばらく考えても何もわからなかった。ただ代わりに出てきてくれた『意味不明』という結論は俺を開き直らせるのには十分な効果があった。……もちろん自分が死んだという可能性は考慮しなかった。したくなかったうえに、予想もつかなかった。死後の世界なんて知ってたまるものか!


 いつの間にか肩に溜まっていた緊張をほぐすとだらりとベッドへ身を投げ出した。異常事態に脳がボイコットしたのだ。思考を諦めたのだ。

 塩辛い海の匂いから海の近くなのは間違いない。青空が見えることから日はまだ暮れていない。移動時間も考慮すると、ここはあの木陰からそう離れていないところに居るという期待が持てる。それだけで僅かながら希望的観測が生まれた。

 まあ、それすらも日をまたがない場合の限定品であることは心もとないが。


 それからしばらくベッドの上にいた。

 そして現状も少しずつ理解できて来た。

 手足は自由に動く。服も異様に白いTシャツとズボンであること以外は問題ない。

 思考を諦めたわりにやはり考えは止まることなく、出た結論は『何かしらの保護』であった。定期的にパニックになる自分を抑えるデメリットを除けば、とりあえずはベッドから降りなくてよい……と思う。断言はできなかった。

 当たり前だろう。

 こんな状況でためらいなく決断ができる人間は相当な大物だ。もしくは、偉大なるバカだ。全財産賭けてもいい。でも俺の全財産の三五二円にそれほどの価値があるのだろうか?


 新作のゲームを買うのに使いすぎたのだ。あれを買うために足りない六千二百円の資金をどうかき集めたかは、全米が涙するほどにドラマチックだったと思う。ありがとう。■■と■■■。

 ……ん? ■■? ■■■?

 思考にノイズが走ったのを自覚する。なんだ、この『■』というヤツは? そもそもなぜ、■■と■■■の名前が思い出せない? 彼らには良くしてもらっていたというのに。そもそも彼らはどのような人物だった? なぜそのようなことに疑問を持つ? だって友達のことだ。忘れるはずがないだろう? だって、ほら■■は、■■■に…………。


 ――こつ。

 小さく何かの音が聞こえた。それは体を強張らせた。何の音だ? 俺は反射的に思考を放棄した。そして息を潜め、耳を澄ませる。


 こつ、こつ、こつ。


 その音は聞き覚えがあった。規則正しく硬質な音が耳を叩く。これは……。

 ――足音?

 ならば。人が、人が来た?身体が痺れ、頭に電流が走る。

 ……人だ! 人が来た!

 少しずつ大きくなりはっきりしていく音に俺は確信を持つ。そして足音は部屋の前で止まった。

 心臓が早鐘を打ち、呼吸が乱れる。期待。安心。不安。好奇心。

 いきなりだった。人がいずれ来ることは理解していたし期待していた。しかし心の準備も出来ていないのにやって来るとは予想外だったのだ。

 まあ、もちろんのこと「心の準備は出来たかい?」と謎の足音に尋ねられても相当に困るのだが……。


 レバータイプのドアノブがゆっくりと動く。俺を起こさないためにゆっくり開けているのかもしれない。

 俺はそんな優しさと、なにやら一種の危うげな儚さを感じたのであった。

 そして扉は開けられた。

 開けられたとは言っても握りこぶし二つ分程度のことだった。それでも確かに開けられたのであった。

 この世の物とは思えないほどに真っ白なキャンバスに青い亀裂が走る。それは空の青だった。

 そこに肌色、黒、白の絵の具が塗りつけられる。


「あ」


 目が合った。鈴がさえずる様な声が塩辛い大気を叩き、耳へ届いた。


 そこにはとても綺麗な女の子がいた。

 現実味の無い世界で彼女だけが現実味を帯びている。

 女性的な曲線美も、肌色も、人の体温もまだこの世界には存在しないものだった。白と青しかない世界で彼女だけが現実のように感じた。


 吸い込まれそうな瞳がこっちを見ている。大きく開かれた目からは彼女の驚きが良くわかった。その目は白と青を反射して複雑な色をしている。その中に彼女の色を探そうとしたがよくわからなかった。

 ただ彼女の瞳の近くにいられる長いまつ毛が羨ましかった。


 永遠のように長い一瞬、俺は彼女に見惚れていた。

 可愛かったのが理由だったと思う。他にも理由があったがうまく言語化できない。彼女の神聖さに圧倒されていた。声を出そうともしたが、息がうまくできず、かふっ……のような小さい声がでただけだった。

 この時間を凍らせて永久にしまっておきたかった。それでも時間は流れていく。彼女は部屋の外へ向かいながら叫んだ。


「リサちゃん! お客さんが! お客さんが目を覚ましたよ!」


 そこで思考は緩やかに動き始める。えーと……。なんていった?

 ……お客さん?

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