涙 下へ

Ne10

彼方の章

一話 『うたかた壱』

 教室だ。俺は教室にいた。


 視界には十数人の生徒がいる。

 そして扉には、人面ヒトデがへばりついていた。

 人面ヒトデは計五本の両手足を器用に使い教室へ侵入する。その手足には明朝体で『幸せ』と書いてあった。表情は能面のように平べったい。

 異形の生命体は侵入の足を止めなかった。―—ぬめ――ぬめぬめ――と思いのたけに幸せを振り回している。生温い教室の空気とあいまった奇妙なリズムだ。


 俺は窓側にいたので逃げ惑う生徒の姿がよく見えた。

 ヒトデは適当な男子生徒を捕まえると頭から食べてしまった。ヒトデの顔をどこかで見たことがあるように感じたが思い出せそうになかった。学生の顔はよく見ると幼稚園の知り合いだった。


 ふと手に砲丸のような鉄の玉を持っているのに気が付いた。試しに投げてみた。ぶつかった。死んだ。

 ヒトデは真ん中を中心に五つに分かれた。

 ヒトデは千切れた四肢――いやこの場合五肢か――から再生できるよな――と思う。すると案の定、再生した。


 驚きはなかったが鉄の玉がひとつでは足りないなとも思った。

 だが、その心配は無い。横の机の上には鉄の塊がいくつも転がっていたのだ。僥倖だとも思ったがそれ以上に当然のようにも感じた。

 でも運が良い。投げた。

 ぶつかった。死んだ。

 まだまだ塊はあった。投げた。ぶつかった。死んだ。

 塊は意外にも軽いことに気付いた。野球ボールのように気軽に投げても心配なさそうだ。ぶつかった、死んだ。


 塊は山のように多く残っていた。何も考えずに投げつけた。

 それは嫌なことから目を背けるためだった。

 ——そりゃ、うねうね動く人食いヒトデなんて嫌に決まっている。

 普通のことを第三者目線で感じた。当事者意識に欠けるものであった。

 ただ、当事者意識が欠けていても、自分の精神の安寧のためにはヒトデの犠牲は必要だと理解していた。この場では俺しかいないのだから、俺以外の意見は必要ない。


 暴力とは原初的な快楽だ。

 快に感じる以上、脳みそが何らかの化学物質を受容しているに違いない。もうしばらくすれば脳内麻薬に溺れて何も考えられなくなるのだろう。それまでの辛抱だ。


 風を切る音が聞こえた。ヒトデが四散する。投げた。ぶつかった。死んだ。

 幸せと書かれた文字も四散した。明朝体ではなかったかもしれない。ただ文字が『幸福』でも『辛い』でもなく『幸せ』であったのは事実だった。


 もう一度投げる。ぶつかった。死んだ。


 これは? はたして重要なことなのだろうか?


 疑問は持ったがそれでも投げるのはやめなかった。やめられなかった。妙に生ぬるい空気と、嘘みたいに軽い体が止まることを許さなかった。

 投げた。ぶつかった。死んだ。投げた。ぶつかった、死んだ。

 ぶつかった。死んだ。死んだ……。

 しばらくすると野球ボールはいつの間にか無くなっていたことに気がついた。周りはヒトデで一杯だった。

 驚くことは無い。ずいぶん投げた。

 万事休す。四面楚歌。


 生徒たちはいつの間にか消えてしまっていた。――どこに行ったのだろう――とも考えたがよく見ると、彼らはヒトデになっていたことに気づいた。ヒトデは彼らを食べて、皮膚を顔につけたのだろう。

 窓から逃げようとも思ったが、そこには絵具をぶちまけたような真っ青な空と海が広がっているだけだった。とにかく逃げられる様子ではない。


 ヒトデたちはじわじわと寄ってきた。そして退路は塞がれていく。

 もうこれまでか。俺はこのヒトデモドキに囲まれて、裂かれて、引きずり出されて、食われるのだろう。

 でも残念。

 俺はお前たちみたいにヒトデにはなれない。きっと面の皮が厚いのだ。加工には不向きなのである。


 ——ごめんなさい。本当にごめんなさい。


 ただ逃げ惑うばかり。でも終わりはいずれ来る。どこからか「■■■■■?」と声が聞こえた。


 ヒトデの一人が発しているようだった。信じられなかったし、お前だけからはその言葉を聞きたくなかった。ショックだ。だが同時に安堵する自分もいた。

 誰かが絶叫していたが目を背けた。


 その言葉は瞬く間に広がり「■■■■■?」の大合唱となった。

 ヒトデ達の奇声は恐ろしく大きく、耳を塞ぐしかなかった。しかし耳を塞いでも音は小さくはならなかった。むしろ大きくなるばかりであった。小さくはなってくれない。


 だから俺は直観的に答えた。

 それしか思いつかなかった。その答えた言葉は覚えていないし、知りもしない。

 むしろ知っている人がいたら教えてほしい。





 目が覚めた。

 そこには奇妙で恐ろしい風景が広がっていた。


 ――妙な生物が四〇体ほどいる。身体と頭の一部を白や黒の体毛が覆っており、 体毛が無い所からは脆弱な肌色の皮膚が露出していた。

 その中で一際異質な生物――もしかすると成体なのかもしれない――が壁に白い棒を叩きつけてなにやら意味の分からないことを叫んでいる。そして一回り小さい生命体がその声を真似る。聞いてるこちらが恥ずかしくなるようなみすぼらしい声だった。意思を感じないロボットのような狂気を感じる。

 ……改めて第三者の視点から見ると恐ろしいものだな。学校って。人面ヒトデにはこのように見えたのだろうか?


 首だけ持ち上げて辺りを見渡す。教室だった。生徒たちが機械的に音読をしているだけでいつもと変わりない。

 やはり人面ヒトデは夢であったようだ。

夢だったからだろう。考えれば展開が無茶苦茶だった気がする。ただ、もう夢の内容はさだかでない。人面ヒトデのほかに非常に不快なものがあったような……。

 なんだろうか?

 まあいい。とりあえず時間を確認しよう。


 六時間目の終了まで後十分ほどだ。

 今から授業に参加しようか? まさか。

 英語が嫌いなのと先生が気に入らない。そもそもそれが理由で寝ていたのだ。寝よう。それがベストだ。

 目を閉じて机に突っ伏す。心なしではあるが遠くから、炭酸カルシウムと黒鉛の砕ける音が聞こえた。

 最初は不規則なリズムだったのが少しずつ規則的になっていく。素晴らしく愉快で快適な二重奏だ。すぐに眠たくなるだろう。さっきまで寝ていたのだから、眠気はまだ残っている。


「起きろ! ■■!」


 しかし、誰かの声が睡眠を妨げた。

 教室から湿った好奇とも蔑みともつかない視線を感じる。その声と独特の空気に意識は即座に活性化させられた。


「お前いつまで寝てんだよ――5時間目も寝てたくせに」


 隣の席の■■■が耳打ちしてきた。眠かったのだから仕方ない、と視線を送るがその時には彼は黒板を向いていた。

 彼の視線につられて前を向く。前には俺の嫌いな■■がいた。その顔には見覚えがあった。


 ……えーと誰だっけ? 思い出そうとするが思い出せない。ついさっき見たような……?

 …………。

 ……ああ、あの人だ。人面ヒトデの中の人だ!


 どうやら人面ヒトデの中の人が英語の先生だったらしい。

 まあ、正直どうでもいい。あのヒトデは思い出すだけで気味が悪いからだ。それより後七分、何をしているかだ。一度覚醒した意識は中々に眠りに落ちられない。

 どうしようも無いな。

 仕方が無い。起きていよう。

 不意に窓から初夏の爽やかな風が吹いた。潮の香りを仄かに纏った風は留まることなく俺の前を過ぎ去った。何気なく窓を――いや……その声に呼ばれて窓を見ると海が広がっていた。


 綺麗だなと思った。

 ここ■■高校は立地の関係から……それなりに海に近いのである。

 海をもっと見るために体を捻らせ窓に近寄る。だが同時に肘から『ぬめり』という嫌な感覚がする。机には唾液の海が広がっていた。


 汚い。あんまりなほどに汚い。

 なるほど。これが級友たち起こしてくれなかった理由の一つかもしれないな。こんなにガチで寝ている人を起こすやつはなかなかいない。あと、人面ヒトデが夢に出た理由の一つ。

 そんな俺の苦しみを露ほども知らず海はキラリキラリと輝いていた。唾液の海は俺を嘲笑いヌメリヌメリと光を反射していた。


 ——そうだ海へ行こう。

 寝汗と唾液の海に汚染されたこの体は想像を大きく上回るほどに気持ち悪い。そんな時に窓から吹いてきた海風の香りはあまりに魅力的過ぎた。もはや一種の責務を果たさなければならないという脅迫観念のようにすら感じられたほどだ。

 六時間目の残り時間、後四分。

 俺はひたすらに授業の終わりを待った。

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