梅と桜

彼呼辻冬坡

壇ノ浦

 ざあざあと哭く波は空っぽになった船を揺らしている。

灰色の空もだんだんと暗く翳って、

波間にたゆたう死者の思い出たちは塩水に湿って重く、

その姿を海中の主人の元へと沈めていく。

人の匂いの濃く残る海に映る影が二つ。

壇ノ浦に生き残った二人の少年の内、一人は放心にただ座り込んで、

少しばかり年上の方は、渚に打ち上げられた女官を引き摺っていた。

都育ちの華奢な体には女であろうが人の重みは運ぶに重く、

やっとのことで二人分の亡骸を運び終えた。


 死は避けられぬと一度は覚悟をして入水したが、

やはり人の性は生きることを望んだ。

浮き上がった二人はもがきながらも、塩水に喉を焼かれながらも、

命からがら波に押され岸に辿り着くことが出来たのだった。

陸に上がった二人は顔を見合わせたが、どちらもその顔に記憶はない。

ここで生き延びたのも何かの縁と、年長の少年は未だ震える一人を優しく慰めた。


 だが言葉ばかりでは意味がない。

二人で生きるためにはまず、一刻も早くこの場所から逃げ出すしかない。

しかし、この身なりでは源氏の追手を欺くことは出来ないだろう。

どうすればよいかと途方に暮れていると、

少年の目の前には天啓のように、死んだ二人の女が波に揺られていたのだ。


 「さあ、手伝え」

少年は塞ぎ込んだ一人に激を飛ばし、身ぐるみを剥ぐのを手伝わせる。

「死体漁りなど罰当たりではなかろうか」

「生きるためじゃ。仕方なかろう。この女も承知してくれようぞ」

「じゃが、女物の着付けはできん」

「心配するな。どうにかなろう」

固く腕を組んだ女のそれを解くのには、相当の時間を要した。

なぜこれほどまでに固いのか、理由は抱いていた二つの鏡にあったらしい。

「綺麗な鏡じゃ」

「形見であろうな。捨てるには憚られる」

「ならば吾らの形見としよう。きっとこの者たちも喜んでくれよう」

年下の少年は鏡面を拭い、一つを大切に抱きかかえ、片方を相方に手渡した。

その目はすでに親しいものを見るものだった。




 剥ぎ取った着物は潮に浸され湿っているが、文句を云える人はどこにもいない。

背に腹は代えられぬと、二人は死人の着物に袖を通す。

今まで剥ぐことに夢中で、その絵柄を鑑みることはなかったが、

二人の着物は随分と綺麗な花柄が描かれていた。それは梅と桜であった。

着物は二人の体にずいぶんと似合って、少年の思惑は思いの外よくかなってくれた。

髪を解いてみれば、細腕に真白な体は十分に女に見える。

もとより羽織っていた装束は、無理矢理に被衣かつぎとして目深に被り、

二人は立派な官女の姿となった。

「よいか、これからはお身は桜、吾は梅じゃ」

梅は互いの着物からこの名をとった。

「うむ」

「元の名はもう忘れよ。名乗って良いことなど一つもない。よいか梅よ」

「よくわかった。お身は桜、吾は梅」

「それでよい」

「ではこれからはどうするのじゃ」

「逃げるしかなかろう。遠くにじゃ。だれも追ってこれぬよう、はるか遠くに」

「海はもう嫌じゃ」

「海は泳がぬ」

「山なども登れぬ」

「山であろうと藪であろうと、陸には変わらぬ。歩めるならば歩まねばならぬ」

そういって深い藪を見るが、梅にはそれが己の運命のように思えた。

苦難の道であるが踏み出すしかない。二人は手を取り合って逃避行を始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

梅と桜 彼呼辻冬坡 @mikuzu_gashi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ