キールブルク防衛戦⑤
傾いた甲板に降り立って、ディリムスはほっと息を吐いた。
またも生き延びられた。脈打つ心臓の鼓動が喜びに変わっていくようだ。一度は死の淵に立ったどころか、実際に死を味わっただけに、その喜びは格別だった。
しかし感慨に耽ってばかりもいられない。
ディリムスは顔を引き締めつつ、足下を確かめる。激しい戦闘が続いたために、軍艦の被害も大きくなっている。それにディリムス自身の疲労もある。仮初めとはいえ死に侵された体は、あちこちが悲鳴を上げていた。
おまけに、もうじき武器も尽きそうだった。
「魔女も未完成と言っていましたね。流体魔鋼の質が悪いとか……詳しい理屈は分かりませんが、精々、あと数回しか使えませんか」
溜め息とともに、鈍く輝いた破片が落ちた。
ディリムスの右腕を覆った、複製型の『不沈扇』には幾つもの罅が入っていた。
魔人には、魔導遺物に対しての高い適性がある。そこに複製型の魔導遺物が加われば、これまであった戦場の常識を覆すほどの戦力となる。
魔人と複製型魔導遺物。寡兵であるガルス軍が大国を脅かせるのは、この両者が揃ってのものだ。どちらも量産可能であり、とてつもなく相性が良い。
しかし残念ながら、どちらも未完成であり、欠点も備えていた。
「まあ、今回はなんとか片付きそうですがね」
周囲を見渡して、ディリムスは酷薄な笑みを浮かべる。
手元に残った戦力は、自分自身と『複製之手甲』。沈みかけの軍艦に、あまり役立たない兵士が百名足らずといったところだ。
キールブルクほどの街を陥とすには、あまりにも少なすぎる戦力だろう。
しかし厄介な魔導士は片付けた。海の底に沈めてやった。
敵兵の数は多くとも、大波のひとつやふたつを叩きつけてやればいい。
「元々、賭けに近い戦いでしたからね。街の壊滅も仕方ないでしょう」
手甲を掲げたディリムスは、そこから伸びる魔力糸へ意識を傾けた。なにもかもを破壊し尽くしてやろうと、残された魔力を惜しみなく注いでいく。
だが、奇妙な感覚が走った。
ぶつぶつと。魔力糸が千切れていく。
「いや、これは……消されている!?」
魔人化によって血色を失っていた顔が、さらに蒼ざめる。感情的なものばかりでなく、事実、青白い光が溢れてきていた。
軍艦を取り巻く辺り一面の海が、魔力光によって染まっているのだ。
さながら、月が落ちてきたかのように。
「な、なんですか! このデタラメな魔力量は……!?」
膨大な魔力を海へ流して、『不沈扇』による水流操作を妨げる。
そんな真似が出来る者は一人しかいない。
「まさか、あの子供が―――」
ディリムスが声を乱した直後、海面から黒い影が飛び出した。
振り向く。と、荒々しい嘶き声が響き渡る。
現れたのは黒馬で、赤々とした瞳がディリムスを睨みつけた。そちらもディリムスにとって脅威となるのは間違いない、が、
意識が逸れたところで、また背後から水飛沫が上がった。
「戻ってきたぜ。もうテメエは、血祭り程度じゃ済まさねえ!」
殺意を噴き上がらせながら宣言して、ヴィレッサは水竜の背を蹴った。空中から勢いをつけて駆け下り、散らばる水粒を置き去りにして、一直線にディリムスへと迫る。
「ここから先は―――」
傲然と宣言する。
「―――あたしの独壇場だ」
広げた両腕には、すでに速射形態となった魔導銃が握られている。
二つの銃口が敵へ向けられる。続け様に引き金が弾かれた。
「くっ……!」
対するディリムスも、虚を突かれるばかりではなかった。水流を操る糸は掻き消された。だが、すべてではない。何本かは残っていた。
強引に魔力を送り込むと、小さな波を引き寄せる。
咄嗟のことだったが、辛うじて水壁は作り上げられた。
「多少の攻撃ならば、これで……っ!」
言葉の代わりに、ディリムスは血を吐き出した。
よろよろと体を揺らしたディリムスは、自身の咽喉に手を当てた。べっとりと血が付着する。いったい何が起こったのかと、ディリムスはしばし呆然としてしまう。
「ぁ……撃たれ、だ……?」
傷は咽喉だけでなく、胸や腕、数ヶ所に及んでいた。一拍遅れて痛みも襲ってくる。
小さな傷だが、身体の後ろまで完全に貫いていた。
『命中。やはり徹甲弾は有効なようです』
「ああ、悪くねえ。一撃必殺じゃねえのは我慢するぜ」
ヴィレッサが両手に握る速射形態は、以前の機能をまったく変えていない。
けれど銃という武器は、銃本体のみで殺傷力が決まる訳ではないのだ。むしろ、そこに込められる弾丸こそが重要だとも言える。
魔導銃『万魔流転』が様々な形態を持つのも、複数種類の弾丸に合わせるためだ。
だからこそ、あらゆる状況で、極めて高い殺傷力を発揮できる。
そして基本である速射形態は、その特性を強く持っていた。速射に重点が置かれているため破壊力こそ限られるものの、何種類もの魔弾を使い分けられる。
「テメエも我慢するか? 急所に当たれば、一撃で楽になれるぜ?」
「ぁ、がっ……!」
甲板に降り立ったヴィレッサは、体勢を整える隙も見せずに引き金を弾き続ける。
狙いは荒い。威力も、矢で貫く程度のものだ。
しかし矢と違い、その速度は目で追えない。剣で弾くこともできない。
無数の穴を穿たれたディリムスは、悲痛な声を漏らし、苦々しく顔を歪める。どうにかして魔弾の雨から逃れようとする。だがすでに水の壁は消えている。血を流しすぎたのか、甲板を蹴る足にも満足な力は込められない。
さらに、ディリムスの頭上から新たに襲い掛かる影があった。
「にゃっはー! 大手柄をいただくニャ!」
「ちょっ、この馬鹿、なに勝手に突撃して……ああもう!」
海中深くからヴィレッサを引き上げてきたロナとマーヤだ。二人が乗った水竜は、軍艦を沈められるほどの体躯をしているものの、戦闘用の召喚獣ではない。あくまで水中での活動を補佐してくれる、移動用のものだった。
全身を鱗で覆われていても、その表皮は暴食軍鮫よりも脆い。それなりに心得のある剣士と相対すれば、あっさりと斬り伏せられるだろう。
しかも相手は暴威を振るう魔人だ。マーヤとしては、ヴィレッサを海上まで送り届けた時点で撤退したいと考えていた。
けれど仕方ない。馬鹿な幼馴染を見捨てることもできない。
「一撃離脱よ! いつもみたいに合わせなさい!」
水竜の背から飛び出したロナを、マーヤは空中で追い抜く。甲板上のディリムスへ向けて、水竜を急降下させた。その背にしがみついたまま、さらにマーヤは片手に握った杖に魔力を込めると、無数の炎弾を撃ち放った。
「っ……魔女と、獣人が、何故……!?」
並の人間ならば、水竜の巨大な体躯に怯み、そのまま顎に噛み砕かれていただろう。しかし突然の事態に追い詰められても、ディリムスはまだ判断力を残していた。
無数の炎弾にも構わず、ディリムスは前方へと駆ける。立ち止まれば、その瞬間、ヴィレッサの魔弾に貫かれるのだ。それよりも炎に巻かれた方が被害は少ない。炎を消し止めるための水はいくらでもあるし、魔人の体は魔術への耐性も高い。
炎に皮膚を焼かれながらも、ディリムスは身を捻る。動きを止めぬまま、突撃してきた水竜の牙から辛うじて逃れた。
だが直後、ディリムスは鋭い痛みを覚えて顔を歪めた。
腕や肩、体の数ヶ所に、銀色の刃が突き立てられていた。
炎に紛れて飛び降りたロナが、空中から短剣を投じていたのだ。さしたる打撃にはならなかったが、僅かにディリムスを怯ませる効果はあった。
さらにロナは新たな短剣を腰から抜く。一気にディリムスへと肉迫する。擦れ違いざまに、脇腹と太股を深く斬り裂いた。
耐久力も回復力もある魔人の肉体だが、さすがに限界が訪れる。
ディリムスは苦悶に喘ぎながら膝をついた。
もはや状況は絶望的だ。次の瞬間には、魔弾が自分の命を貫くだろう。
そう悟ったディリムスだが、尚も生き足掻こうとした。
手甲を掲げる。そこに全力で魔力を注いだ。
海中に広がったヴィレッサの魔力も、もう散っている。ほんの短い時間でもあれば反撃を行えたのだ、が、
「んなっ……!」
眼前に、巨大な影が迫っていた。黒馬だ。
猛々しい嘶き声とともに、鉄槌のような蹄がディリムスに襲い掛かる。驚愕に震えるままだったなら、ディリムスの頭部は跡形も無く粉砕されていただろう。
だが、生き足掻こうとする本能と、ささやかな幸運がディリムスに味方した。
本当にささやかな、最後の幸運だったが―――。
ディリムスが身を捻る。と同時に、船も揺らいだ。そのおかげで、黒馬の蹄は狙いを逸らされ、ディリムスの体に掠っただけだった。
しかし掠っただけの衝撃でも、ディリムスは弾き飛ばされる。
濁った悲鳴を上げてディリムスは宙を舞った。抵抗できない身体は、そのまま海原へ落とされるかと思われた。
けれど背中を叩かれ、支えられた。硬い感触によって。
「二度も逃がしはしねえよ」
狙撃形態を構えたヴィレッサは、口元を三日月型に吊り上げる。
長大な銃身の先は、ディリムスの背中の中心部に当てられていた。
「ま、待てっ! いま私を殺せば、おまえも―――」
「うるせえ。死ね」
命乞いと罵倒に、銃声が重なる。
響き渡った轟音の中心に、真っ赤な血の花が咲いた。
空中に命が散っていく。己の命で描かれた赤々とした光景に、ディリムスは何を想ったのか? その答えは永遠に得られない。
ただ、愕然とした表情には、深い絶望と後悔も滲んでいた。
まるで、夢から覚めたように。あるいは世界のすべてを呪うかのように―――。
そうして魔人と成り果てた男は倒れ伏す。
胸の中心をごっそりと穿ち抜かれたのだ。今度こそ生きているはずもない。
蒼白色の死体が血の海に沈んで、ようやく戦いは終わりを迎えた。
重々しい銃声はまだ残響を漂わせていた。
戦いは終わった。それは間違いのない事実で、ヴィレッサも安堵の息を零した。
けれど、直後―――、
「なんだ……っ!?」
軍艦が激しく揺れた。思わず、ヴィレッサは膝をついてしまう。
黒馬も慌てたように嘶き、ロナも甲板に手をついていた。
『どうやら海流が大きく乱れているようです』
魔導銃からの声にも微かな動揺が混じっていた。
『あの魔人の仕業でしょう。『不沈扇』による制御が失われれば事が起こるよう仕掛け、それを交渉材料に自身の延命を……ともかくも、脱出が先決かと判断します』
「ああ。こんな置き土産に構っていられるか!」
原因なんてどうでもいい、とヴィレッサは駆け出す。
黒馬も駆け寄ってきて、ヴィレッサは飛びつくように手綱を掴んだ。
「ロナ、乗れ!」
「はいニャ! 置き去りは嫌だニャ!」
二人を乗せた黒馬は、すぐさま空中へ向けて跳躍する。
だが僅かに遅かった。軍艦を引っ繰り返すほどの水柱が何本も噴き上がった。さらには巨大な波も巻き起こる。渦巻く水流が轟々と呻る。
荒れ狂う暴威から逃れようと、黒馬も懸命に駆けた。けれど―――、
「う、わ―――」
天地が逆さまになったような情景の中に、二人と一頭は呑み込まれていった。
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