キールブルク防衛戦①
キールブルクの軍港に、何隻もの傷ついた艦が辿り着いた。
それ自体は珍しいことではない。軍艦は訓練でも損傷するものだし、過去には他国との戦争で轟沈した艦も多い。むしろ傷つくのが軍艦の役割、と言ってもいいくらいだ。
海賊相手にしては損傷した艦が多い。
遠目に様子を窺っていた民衆は、そう首を傾げた程度だった。
しかし出迎えた兵士や、とりわけベルティは、即座に異常を察した。
艦の損傷だけではない。数が合わないのだ。出航した時には十五隻だった軍艦が、帰還時には十二隻に減っていた。しかもヴァイマーが乗る旗艦の姿もなかった。
「いったい、何が起こったでござるか!?」
ベルティが声を荒げるのも当然だった。
艦から降りる兵士たちは揃って項垂れていた。疲れ果てている者もいるが、拳を握り、悔しそうに歯噛みしている者も多い。
其々の艦を預かっていた騎士が歩み出て、ベルティの前で跪いた。
「ベルティ様、申し訳ございません」
「謝罪されても分からぬ! それよりも事情を説明するでござる!」
「……大変な重要事です。お怒りはごもっともなれど、屋敷へ移った後に話を……っ」
「拙者は説明をしろと―――」
ベルティが騎士に掴み掛かる。それを従者たちが数名掛かりで押し留める。
跪いた騎士は黙したまま、ひたすらに頭を下げ続けていた。
目の前の情景から事態を察せられないほど、ベルティも愚鈍ではない。
旗艦が失われている。兵士たちも意気を失っている。それらが指し示す事実は、敗北に他ならない。
頭では理解できた。けれど感情が、心が、現実を受け入れるのを拒んでいる。
「有り得ぬ……帝国海軍が、父上が……敗北などするものかぁっ!」
怒りに染まった慟哭が港に響く。
吹きつけてくる海風は、激しい嘆きも慮ることなく散らしていった。
領主邸へと場所を移して、主だった騎士や兵士が会議室へ集められた。
これまでヴァイマー伯爵領を支えてきた者達だ。しかし普段とは若干顔ぶれが異なっている。領主であるヴァイマーをはじめとして、側近として働いていた騎士など、幾名かが欠けていた。
逆に新しく加わった幼女もいたけれど。
細かな差異など気に留める余裕もなく、室内は重苦しい空気に支配されていた。
「……では、その魔人一人に戦況を覆されたと言うでござるか……」
戦闘の詳細を聞かされたベルティは、独り言みたいに呟いた。
そうして虚ろな眼差しで空中を眺める。テーブルの上に置いた手は強く握りこまれていたが、怯えを含んだように小刻みに震えていた。
しかし無理もない。過去にない危機的な状況なのだ。
他の者たちも、状況を整理するまでしばしの時間を要した。
「魔人国の話は聞き及んでいたが……まさか、ヴァイマー様が敗れるとは……」
「まだそうとは決まっておるまい。ヴァイマー様は、艦隊を守るために撤退を命じられたのであろう?」
「そ、そうだ。魔人を倒して帰還される可能性もあるはずだ」
「憶測で惑わすな。いまは、最悪を想定して動くべきであろう」
「最悪だと? その最悪に対して、どう動けと言うのだ!」
騎士の一人が口を開くと、それを切っ掛けに次々と意見が述べられる。
まだ全員が困惑して焦りも混じっていた。冷静に話をまとめようとする者もいたが、やはり激情に駆られた声が先に立った。
「敵が来るのは分かりきっている。ならば、迎え撃つしかあるまい!」
「その通りだ。幸い、戦力の損耗は少ない。再編すれば一万を越す兵が残っているのだ。予備兵に、義勇兵も募れば、さらに倍にもなろう。我々はまだまだ戦える!」
「敵にも損害はあったのだろう? 如何に魔人が恐るべき敵であろうと、寡兵であるなら打ち倒す手段もあるはずだ」
感情的な意見だったが、戦力が残されているのは事実だった。
ヴァイマーが早々に撤退を決断したおかげだ。魔導遺物同士の激突に巻き込まれ、水流に呑み込まれた艦もあったが、キールブルクには無傷の予備兵力も温存されている。
対する敵の残存戦力は、精々、軍艦の一隻か二隻。
兵力としては、多くとも二千といったところだろう。しかも先の戦いで、錬度も装備も格下であるのは露呈されていた。
魔人と、『複製之手甲』は脅威となるが―――。
この場にいる騎士や兵士たちは、キールブルクを守るために日々の鍛錬を積み重ねてきた。敵が恐ろしいから逃げるなどと言い出せるはずもなかった。
しかし、別の意見もある。
「敵へ対処するのは当然だが、なにも戦うばかりが手段ではあるまい」
「左様。まず第一に民の命を守れと、ヴァイマー様も常日頃から仰っておられた。ならば民を連れて一旦退くのも考えるべきだ」
「確かに……このキールブルクは、あまり防衛戦には適しておらんな」
「敵は『不沈扇』と同等の力を使えるのであろう? もしも大波でも叩きつけられれば、どれだけの犠牲が出るか分からん。街ごと消し去られてもおかしくない」
まずは可能な限り民衆を避難させるべき。
戦力を退かせ、他の領地や帝都からの援軍を待って再戦を挑む方がよい―――。
そういった慎重論への賛同者も多かった。
「窮地の時こそ、慎重になるべきだ。次の戦いは絶対に負けられぬ」
「我らはまだ敗北しておらぬ! キールブルクを守り抜くことこそ勝利なのだ!」
「双方とも落ち着け。まずは帝都へ連絡を入れ、指示を仰いではどうだ?」
「連絡と言えば、他領へ知らせる必要もあろう。それに―――」
幾重にも声が重なり、議論は紛糾していく。睨み合い、いまにも戦いを始めそうな者も出てくる。
混乱を治める者が必要だった。
しかし領主であるヴァイマーは不在。必然、代行であるベルティに視線が注がれる。
「ベルティ様、ご決断を。全軍で敵を迎え撃つべきです!」
「民を守ることこそ第一。ベルティ様も常に仰られていたはずです」
「迷っている暇はありませぬ。ベルティ様―――」
急き立てられるベルティだが、頭を抱えて項垂れるばかりだった。
唇を震えさせるが、そこから意味のある言葉は出てこない。
「どう、すれば……このような事態など、拙者は……」
長い黒髪が力なく揺れる。
ベルティの視界は歪み、いまにも倒れ込んでしまいそうな感覚に襲われた。
ヴァイマー旗下の海軍は無敵であるはずだった。ここ数十年、敗北を知らず、敵対するレミディアも兵を出すことすら諦めていた。だというのに、僅か数隻のガルス軍、たった一人の魔人によって不敗の歴史を覆されてしまった。
―――戦いに絶対は存在せず、魔導士は戦場を引っ繰り返す。
帝国騎士の心得として知られる言葉だが、戦場での逆転劇など、そうそう起こるものではない。少なくともベルティにとっては、帝国海軍の勝利は絶対のものだった。
信じていたものが崩れ去った。
積み重ねてきた信念が、雪崩を打ってベルティを押し潰そうとしてくる。
思い返せば、難民集団との一件もそうだ。刃を振るうことしか出来ないのに、その機会すらなかった。甘い判断を下して、危うく街全体を窮地に晒すところだった。
暴食軍鮫による襲撃でも己の無力を嘆いた。目の前に現れた魔獣に対して、刀一本では対処しきれず、多くの犠牲を出してしまうところだった。
どれだけ剣技を磨いても、結局は何の役にも立てないのでは?
こんな自分に決断を下す資格など無いのでは?
敵の前に立とうとも、逃げ出そうとも、すべてが無為になるばかりで―――。
そもそも自分は生まれた瞬間から失敗だったと、ベルティは思い返す。
初めて願ったのは、父のように成りたいということ。幼心に領主を目指したいと思った。幼い世界の中で、一番立派だった大人に憧れた。魔導士として圧倒的な力を持ち、誰からも敬愛される、物語に出てくる英雄みたいな人間になりたかった。
けれどそんな夢は呆気無く散った。生まれた瞬間から不可能だったと知らされた。
女だから。貴族だから。身分の低い母から生まれたから。
切っ掛けが何だったのかは覚えていない。雪が冷たいと知るように、焼けた砂浜が熱いと覚えるように、きっと些細な切っ掛けだったのだろう。
そんなものだ、と。
元より単純な性格もあって、ベルティは当り前のように受け入れていた。
願いが砕けるなんて簡単なことなのだから。
それが諦めだと気づきもせずに。
この街を好きだと、自分を偽って、誤魔化して。
痛みを忘れるために、刀を振るうことに没頭した。でも本当は恐れていただけだった。
「拙者の……わたしの、願いは……なにも叶わなくて……」
現実を思い知らされる。歪む視界が暗闇に染まる。
その暗闇に、ベルティの意識は沈み掛けた。だが、
「―――黙れ」
声が響いた。
幼く、可愛らしい声のはずなのに、圧倒的な存在感を以って場を鎮める。
それまで部屋の端で、ヴィレッサは静かに様子を窺っていた。しかし全員の注目を集めると、中央に立ち、真っ赤な外套をバサリと翻す。
「敵は、あたしが殺す。テメエラは指を咥えて見てろ」
「な……っ!」
咄嗟にベルティは抗弁しようとした。けれど睨まれ、押し黙ってしまう。
さらに椅子を蹴り飛ばされた。
尻餅をついたベルティは、ヴィレッサと真っ正面から向き合う形になる。
「泣きそうな顔してんじゃねえ。いまはテメエが領主だろうが!」
「し、しかし、相手は父上を倒すほどで……」
「それがどうした? 相手が力を持ってるから、蹂躙されても仕方ねえってのか?」
ふざけるな!、とヴィレッサは吐き捨てる。
「魔人がどんな奴なのか、なにを目的にしてるのか、あたしは知らねえ。だけど、どうせロクな奴じゃねえ。人の物を奪って、命を踏み躙って、テメエの都合を押しつけようって下衆野郎だ。そんな奴に屈してやる理由はねえんだよ!」
傲然と言い放ったヴィレッサは、くるりと背を向けた。迷いのない足取りで部屋を出て行こうとする。
床にへたり込んだままのベルティは唖然するばかりだったが―――、
「あたしは、この街が好きだ。だから守る。戦う。二度と奪わせやしねえ」
その言葉は胸に刺さった。
二度と奪わせない。そうヴィレッサは言った。故郷の村を焼かれて、願いが砕かれる痛みを知っているはずなのに、怯みもせずにまた抗おうとしている。
とても小さな子供なのに。抱きしめられただけで折れてしまいそうなのに。
押し迫ってくる魔人という現実に、たった一人でも、敢然と立ち向かおうとする。
凛と立つ姿は眩しくて―――ああ、とベルティは熱い息を吐く。
湧き上がってきたのは憧れだ。
自分もそうなりたいと心が叫ぶ。初めて抱いた願いにも似ている。
だからこそ思い出せた。何故、それを目指そうとしたのかを。
ただ、格好良かったから。
誰も彼もの笑顔を守れる、御伽噺の英雄みたいな姿に、心惹かれたから。
「……拙者は何処まで愚かなのか。忘れてはいけなかったでござる」
ベルティは呟き、拳を握る。その手には微かな痛みも走った。
英雄になんてなれはしないと理解している。
所詮は子供の夢だ。どれだけ強く想い焦がれようと、刀を振り続けようと、身分や血筋といった壁すら打ち破れなかったのだから。
だが、それがどうしたというのだ?
願いが砕かれる? 屈辱感に苛まれる? それで何の支障がある?
どれだけ心が砕かれ、散らされようと、戦うための手足は動く。
誰も彼もは守れずとも、誰かの笑顔くらいは守れるはずだ。それで充分ではないか!
「ヴィレッサ殿!」
衝動に突き動かされるまま、ベルティは叫び、立ち上がっていた。
けっして届かなくとも、足下のすべてが崩れていようとも、一歩を踏み出しただけで胸は高揚感に満たされていく。願いに向かっていける。それが嬉しくて仕方がない。
だから、ベルティは宣言する。
「この街を守るのは拙者の役目。たとえ誰が相手でも譲れぬでござる」
たとえ二番目でも、願いは願いだ。
諦めから出た言葉でも、誤魔化しでも、そこを目指そうとする心は真実でしかない。
誰に憚るものでもない。
項垂れてなどいられるものか!
「気づかせてもらったことには感謝するでござる。敵が魔人であろうと、百万の軍勢であろうと、恐れる理由は皆無。拙者には、刀を振る以外に能は無いでござるからな」
いつの間にか、ベルティの歪んでいた視界はすっきりと開けていた。しっかりと足下も定まっている。腰に差した刀に手を当てると、小気味良い音が鳴った。
その音に引かれたように、扉に手を掛けていたヴィレッサが振り返る。
「……そんないい顔したって無駄だぜ。戦うのは、あたし一人で充分なんだ」
「無論、ヴィレッサ殿を止めはしないでござる。しかし指を咥えて見ている訳にはいかぬでござるよ」
ヴィレッサの眼差しは鋭い。
幼さを喰らい尽くしたみたいに、瞳には獰猛な光を湛えている。
けれど向き合うベルティは、爽やかな笑みを返してみせた。
「拙者は、この街を愛しているのでござる。この街に住む以上、ヴィレッサ殿も拙者が守る対象でござるよ」
「……あたしを守るより、他の連中の面倒を見てろよ」
「そちらも当然。民を守り、侵略者も討ち滅ぼす。領主代行というのは大変でござるな」
ベルティはさらりと言ってのける。まるで窮地にあることを忘れたみたいに。
具体的な策はなにも提示されていないのだが―――。
先程まで難しい顔をしていた騎士たちも、表情に余裕を取り戻していた。指揮官の自信というものは、取り繕った言葉よりもずっと効果がある。
ヴィレッサも、つい釣られて笑みを零す。
「はっ、勝手にしやがれ」
「では、先鋒としての突撃は拙者が―――」
ベルティの言葉を遮ったのは荒々しい足音だった。ヴィレッサや周囲の騎士たちも音に気づいて、そちらへ注意を向ける。
すぐに扉が開き、一人の兵士が駆け込んできた。
「し、失礼します! 物見からの伝令です!」
息を切らせた兵士が、ベルティの姿を確認して跪く。その慌てぶりから火急の報せだろうと、すぐに全員が察していた。
恐らくは、ガルスの軍艦が攻め入ってきた。帝国艦隊が帰還してからまだ半日と経っていないので、随分と早い襲来ではある。しかし予測できないほどではなかった。
ヴァイマー伯爵を打ち破った魔人がすぐさま侵攻を再開した、と。
場の全員がそう理解した。兵士からの報告も、その予測を裏付けるものだった。
だがもうひとつ、衝撃的な報告も齎される。
「敵艦に、魔人の姿を確認。そして……ヴァイマー様が人質に取られております」
がちり、と。
誰かが漏らした歯軋りの音が、静まり返った場に響き渡った。
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