海戦①
バルトラント帝国首都、エグドグラード。
大陸交易路の中心地として栄え、あらゆる富が集まる。下町は雑多な造りになっているが、行き交う人々が多く、様々な声で賑わっている。対照的に、中心部の貴族街は区画整理が行き届いていて、歴史ある荘厳な建物が多くなっている。
その街並みを見下ろしながら、帝城は威風堂々と聳え立っている。華美な装飾はなく、無骨だが堅牢な造りの城は、質実剛健を好む帝国の風土を如実に表していた。
城内奥にある執務室にも、余計な調度品は置かれていない。書類をめくる音や、筆を走らせる音ばかりが繰り返されている。
皇帝が座する部屋にしては、あまりにも寂しげな空気が佇んでいた。
「ふむ……」
報告書を見つめたまま、アドラバルド三世は軽く首を傾げた。口髭をなぞる微かな音が室内に流れていく。
皇帝専用の執務室では、出入りする者は極めて限られている。国家の重要な情報ばかりが集まるので、部屋に近づこうとするだけでも警備の兵士に止められる。
それでも普段ならば、信頼の置ける文官が数名は同席しているのだが、
「ディアムント、其方はどう考える?」
この日の執務室には、皇帝の他には一人の男が座っているのみだった。
斜向かいの席で筆を握っていた息子に、アドラバルドは一通の書類を掲げてみせる。
「これは……ゼグードが、『不滅骸鎧
ゼル・ガラフ
』を返上すると?」
「うむ。もう数年は務めて貰いたかったのだがな。バルツァールで出した犠牲を気に掛けておるようだ」
穏やかな口調でありながら、アドラバルドの声には覇気が込められている。意識しての威圧ではなく、皇帝という地位にあって身についた癖に近かった。
息子に向ける眼光にも、自然と鋭い光が宿る。
しかしディアムントは動じない。
数年前ならば違っていたが、ディアムントも二十代半ばを過ぎ、実戦や政務などで経験を重ねている。神妙に書類を読み進める横顔も、父親によく似てきていた。
しばし黙考していたディアムントだが、不機嫌そうに眉を寄せながら問いを重ねた。
「先の戦いでは、思わぬ挟撃を受けたものの、ゼグードの見事な指揮で敵を討ち破ったと聞き及んでおります。陛下は、ゼグードに責があるとお考えですか?」
「いや、ゼグード以上の指揮ができた者などおるまい」
「ならば、罰を与える形での処遇は避けるべきでしょう」
ディアムントの言葉は含みのあるものだった。
それを感じ取ったアドラバルドも深く眉根を寄せる。鋭利な眼光をぶつけ合う親子は、他の者が見れば随分と険悪な関係に映っただろう。
事実、この親子の胸には、常に複雑な想いが巡っている。
すぐにでも殺し合いを始めてもおかしくない関係なのだが―――。
いまは感情を押し鎮めて、互いに目を合わせただけのつもりだった。
「其方の言い方では、『不滅骸鎧』の返上自体には賛成のようだが?」
「ゼグードも高齢です。まだまだ現役でいられるのは陛下と同様ですが、早目に後継者を定めておくのは悪くないかと」
言外に、「さっさと次の皇帝も定めておけ」と述べる。他ならぬディアムント自身が、次期皇帝の筆頭候補だった。
けれどあくまで候補に過ぎない。正式に皇太子とは認められていない。
自分の優柔不断さを指摘されて、アドラバルドは髭に覆われた口元を歪めた。
「確かに後継者の選定は重要だな。しかし東方守護となれば、おいそれとは決められぬ。其方ならば誰を選ぶ?」
「陛下の権威を侵すつもりは毛頭ありませぬが……」
前置きをして、ディアムントは控えめに顔を伏せた。
帝国が持つ重要な魔導遺物を誰に預けるのか?、それは皇帝の専権事項だ。
しかし意見のひとつも持たぬようでは、到底、次代の皇帝を名乗れはしない。
「アンブロス伯爵に任せるのがよろしいかと。彼ならば領地も近く、また指揮官としての力量も信頼に足りましょう」
東方国境近くに領地を持つアンブロス伯爵は、三十代半ば、ちょうど働き盛りで国境守護の重要性も理解している。どちらかと言えば内政を得意とする領主だが、慎重かつ堅実な戦いを心得ていて、ディアムントとも戦場で轡を並べたことがあった。
アドラバルドにしても、真っ先に候補者の一人に挙げたい人物だ。
「しかしそうなると、アンブロスには広大な東方地域を預けることになる。他の貴族からの反発もあろう。その点はどうする? 転封でもするか?」
「いえ、ゼグードに口裏を合わせて貰いましょう。先の戦勝の恩賞として、『不滅骸鎧』の後継者を指定させるのです」
「ふむ……そのような小細工は、ゼグードが嫌うところだが……」
だが面白い、とアドラバルドは緩やかに目を細めた。
「ゼグードとアンブロスを結びつけ、大きな派閥と見せ掛ける訳か。忠義に厚いゼグードの性格は誰もが知るところだな」
「帝国は陛下の下に一枚岩であると内外に示せるでしょう。東方の玄関口に安定した領土があれば、交易も一段と盛んになります。さらに次の後継者を匂わせておけば、因縁ある北方貴族の中からも懐柔できる者が出てきましょう」
得意気に口元を緩めるディアムントだが、本来はこういった政治的な策略を好んでいない。意見の対立があるならば決闘で、と言い出したいくらいだ。
しかしアドラバルドの態度から、試されているのは察せられた。
だからディアムントも受けて立ったのだ。そして、勝った。
「よかろう。この件に関しては、其方の意見を採用しよう」
「お役に立てたようで嬉しく存じます」
恭しく頭を垂れながら、ディアムントは快心の笑みを浮かべる。
だが、そこで冷や水を浴びせられた。
「そうやって緩んだ顔を見せるようでは、まだ甘いと言わざるを得んな」
アドラバルドは軽く咽喉を鳴らして、もう一枚の書類を机に放った。
そこに記されていたのはゼグードからの提案だ。『不滅骸鎧』の引継ぎに関して、たったいまディアムントが述べたものと同様の内容が提示されていた。
しかも、他にも幾つかの懸念事項や、それらへの対策も詳細に記されている。
勝ち誇っていたディアムントの顔が、途端に苦々しく歪められた。
「とはいえ、其方は頼もしく成長した」
「……は?」
ディアムントは間の抜けた声を漏らしてしまう。
父親から誉められるなど、子供の頃でさえ数えるほどしか経験していなかった。
「春を待って、ゼグードを帝都へ呼び寄せる。領主会議の席で後継に関しての発表も行うとしよう。余の後継も含めて、だ」
「では……俺を、いや、私を認めてくださると?」
「他に誰がおる。北方の公爵家になど任せれば、無茶な遠征をして国を傾けかねん」
アドラバルドは子宝には恵まれなかった。
唯一人の息子であるディアムントを跡継ぎとするのは、当然の選択だった。
けれどあまりに突然の決定に、ディアムントは喜びよりも困惑に囚われてしまう。
続けて投げられた言葉は、さらにディアムントを混乱させた。
「正式に皇太子となれば、おいそれと帝都を出ることも出来ぬ。今の内に、少しは羽根を伸ばしてきたらどうだ?」
「は……? そ、それは、いったいどういう……?」
「まだ寒さも残る季節だ。南方の、キールブルクなどよいのではないか?」
認められたかと思えば、今度は遠く離れた街へ赴けと言われる。後半部分だけを聞けば、排斥されるのではないか、と危惧を覚えるような内容だ。
ディアムントが混乱するのも無理はなかった、が―――、
「あの街にはいま、一人の魔導士が滞在しておる」
その言葉に、ディアムントは緊張感を取り戻す。
「二つ名は『魔弾』。バルツァール攻防戦に於いて、真に勝利を齎した魔導士だ」
「……『魔弾』? 聞き覚えがありませぬが?」
帝国に仕える魔導士の名を、ディアムントが知らないはずがなかった。ましてや重要な拠点を守っているとなれば尚更だ。
重ねて尋ねるディアムントに、アドラバルドは満足げに頷く。
「其方に伝わっていないところを見るに、緘口令にも一応の効果はあったようだな」
「お待ちを……つまりは、その『魔弾』がバルツァールで活躍したということですか? しかし陛下は、その者の存在を秘匿しようとした、と?」
「理解が早くて助かるぞ。ゼグードにも指示はしたのだが……」
人の口に戸は立てられない。ましてや戦場で派手な活躍をしたとなれば、大勢の兵士が目撃者となる。たとえ帝都の城内までは聞こえてこなくとも、『魔弾』の名は市井の民には広まっていた。
とある事情から、アドラバルドは『魔弾』の存在を認めなかった。
しかし、だからといって現在の状況が望ましくないという訳でもない。アドラバルドが無視できないほどに名を上げてくるならば、むしろ歓迎すべき事態だった。
「先日も、キールブルクで派手に暴れたとの報告があった。しかもこちらの監視に気づいて、密偵に料理を振る舞ったそうだ」
心底愉しげに、アドラバルドは笑みを零す。
そのような父親の表情は、ディアムントの記憶を探ってもほとんど見当たらない。ディアムントが初陣で戦功を上げた時と、妻の懐妊を伝えた時くらいだろうか。
ますます疑問を覚えて、ディアムントは眉間に皺を寄せてしまう。
「いったい、『魔弾』とは何者なのですか? 陛下がそこまで気に掛けるとは……?」
「直接に、その目で確かめればよかろう」
あるいは作り話ではないだろうか?
そう首を傾げるディアムントだったが、深く思案する暇は与えられなかった。
急に表情を引き締めたアドラバルドは、重々しい声で告げる。
「其方に命じる。キールブルクへ赴き、『魔弾』の監視を行え」
「……勅命、謹んで承りました」
帝国に於いて、皇帝の権限は極めて強い。
疑念を覚えながらも、ディアムントには首肯する以外の選択は許されなかった。
◇ ◇ ◇
引き裂かれた帆が風に揺られている。
黒く焼かれた痕は船体にまで及んでいるが、ある意味では好都合だろう。痛々しい血痕を誤魔化せるのだから。
「海賊……?」
海から吹きつけてくる風に目を細めながら、ヴィレッサは首を傾げた。
隣に立つベルティが神妙に頷く。
「どうやらそのようでござる。ここ数年は航路も安定していたのでござるが……南方には小さな島が幾つもあって、海賊どもの拠点になり易いのでござるよ」
港には大勢の人々が詰め掛けてきている。海上交易によって成り立つキールブルクでは、海賊が出たとなれば、誰もが無関係ではいられないのだ。
傷つきながらも港に辿り着いた船は一隻のみ。大型の商船だ。けれど襲撃を受けた際には数隻で船団を組んでいて、他の船は沈められるか、あるいは海賊に乗り込まれて船ごと奪い取られたらしい。
すでに負傷した船員は治療所に運ばれている。ベルティに率いられた兵士たちも事態の収拾に当たっていた。
ちなみにヴィレッサは、屋敷で行儀作法の授業を受けているはずだった。港の騒がしさが気になって抜け出してきたのだ。
「ベルティ様、伝令です。伯爵様が来るようにと」
駆け寄ってきた兵士が一礼して伝える。
ベルティはすぐに頷くと、港の端にある兵士詰め所へと駆け出した。
「ヴィレッサ殿は、屋敷へ戻っていてくだされ」
そう言われて、素直に頷くヴィレッサではない。いや、頷きはしたのだが、すぐにベルティの後を追ってちょこちょこと走り出した。
小柄な体で人混みを抜けていく。フードを目深に被って顔を隠して。
とはいえ、真っ赤な外套はとても目立つ。
見咎められなかったのは、ベルティが背後なんて気にも留めない性格だから。
それに、ヴァイマーが待つ兵士詰め所はすぐ近くだった。
「……さすがに、正面から乗り込んだら怒られるかな」
ほんのちょっぴりの自重を発揮して、ヴィレッサは建物の裏手に回る。小窓を見つけて、こっそりと様子を窺った。
建物の中では、ヴァイマーと兵士が数名、それに疲れきった様子の船長が向き合っていた。部屋の中央に置かれた机の上には海図が広げられている。
「ベルティ、来たか」
ヴァイマーは真剣な表情で腕組みをしている。
すでに大方の事情聴取を終えていたヴァイマーは、船長へ退出するよう促した。そうして扉が閉じられるのを待って、険しい顔をベルティへと向ける。
「街の様子はどうだ?」
「はっ。すでに海賊出現の噂が広まり、民からは不安の声が上がっているでござる。ですが大きな混乱には至っておりませぬ」
「ならば、早急な対処が必要だな」
疑問ではなく結論として述べて、ヴァイマーは海図を指差した。
海賊が出たのだから退治、殲滅する。それはもはや言葉にするまでもなく当然の決定だった。
「船長の話によれば、この辺りで襲われたらしい。確認できた海賊どもの船は五隻、どれも大型のものだったそうだ」
「やはり拠点は例の諸島群でござるか」
いきなり本題に引き込まれたベルティだが、戸惑うことなく対応した。
海図を睨み、握った拳を腰の刀へと当てる。
「徒党を組んでいるとはいえ、五隻程度ならば敵ではないでござるな」
「最低でも五隻だ。敵を侮れば痛い目を見るぞ」
血気に逸る発言を諌めたヴァイマーだが、その口元には薄い笑みが浮かんでいた。
ヴァイマーが本気になれば、五十隻を越える大艦隊を動かせる。高速かつ頑丈な軍艦を揃えている上に、魔導遺物『不沈扇』の力もあるのだ。
その海軍力は帝国随一であり、即ち、他国の追随を許さない。
海賊退治など、海上の散歩のようなものだ。
「過去の例に倣い、奴らの拠点ごと徹底的に叩き潰す。とはいえ、先日の『春波』で軍港への被害もあった。十五隻程度での出撃とするつもりだ」
「それでも戦力としては充分でござるな。是非、拙者に先鋒をお任せくだされ」
拳を握り締めたまま、ベルティは頭を下げる。
個人戦闘力に秀でたベルティだが、指揮能力が劣っている訳ではない。魔獣や夜盗に対する討伐任務でも、幾度か部隊を率いて活躍していたし、海上での戦闘経験もある。
指揮官としては少々、突撃思考に傾いている部分はある。けれど突破力のある部隊は、使い処さえ誤らなければ頼もしい。上に立つヴァイマーがしっかりと手綱を握っておけば問題にもならない。
なにより、ベルティは兵士からの信頼が厚い。領主の娘でありながら自ら先頭に立とうとするのだ。兵の士気が上がらないはずがない。
今回の申し出に対しても、側に控えていた兵士たちは嬉しそうに表情を緩めた。
だが、ヴァイマーだけは違っていた。
「今回、其方は出撃させぬ」
低く響いた宣言に、ベルティは愕然として目を見開く。
他の兵士も―――窓の外で様子を窺っていたヴィレッサも、己の耳を疑った。
目の前に戦場があるのに関われない。それは帝国騎士にとって、不信を告げられるのに等しい。
「せ、拙者はなにか失態を犯したのでござろうか?」
「そうではない。いまの街の状況を考えてみよ」
ヴァイマーは苦笑を零しながら穏やかに述べる。
「海賊討伐となれば、少なくとも数週間は街を空けねばならぬのだぞ。気晴らしに狩りに赴くのとは違う。街を守る責任者も必要であろう?」
ベルティの上には兄二人もいる。けれどいまは帝都へ赴いていて、呼び戻せる状況でもなかった。他に責任者として置ける者もいなくはないが、立場からすればベルティが最も適任だ。
「ベルティよ、其方に領主代行を命じる」
「領主、代行……!」
また声を震わせるベルティだが、その顔は喜色に染まっていく。
「そのような大任を、拙者に命じてくださるのでござるか?」
「二度言わせるな。其方以上に信頼できる者はおらぬ」
これまでも街の警備隊長など、責任ある役目を任されていた。けれどあくまで領主の下に就いていたに過ぎない。しかし領主代行となれば、一時とはいえ、領主と同等だと認められることになる。
ベルティは地位を望んでいたのではない。領主である父に憧れたことはあったが、常に二人の兄よりも一歩退く態度を心掛けていた。
同時に、キールブルクの街を支える一助となれるよう努めてきた。
それを苦労とは思っていないが、明確な地位を得て、完全に報われた気がした。
「留守を任せたぞ。其方が居れば、我らは心置きなく出撃できる」
「はっ! 領主代行の任、身命を賭して務め上げてみせるでござる」
ベルティは勢いよく跪き、頭を垂れる。
まるで騎士が忠誠の儀を行うように、美しい情景だった。
こっそりと覗いていたヴィレッサも、よかったなぁと深く頷く。まるで自分がベルティの保護者であるみたいに。
けれど同時に、小さく呟いた。
「……どうやって船に忍び込もう?」
これまでの話ではヴィレッサの名は出て来なかった。恐らくは、街での留守番を命じられるだろう。子供を戦場へ赴かせるなど、よほどの事情がなければヴァイマーは承諾しそうにない。
海賊相手に、ヴァイマーが遅れを取るとは思えない。
ヴィレッサでさえ、海上ではヴァイマーと戦いたくないと感じている。水流を自在に操る『不沈扇』は、こと海戦に限っては無類の強さを発揮するのだから。
しかし戦いに絶対は有り得ない。万が一の事態にも備えておくべき。
そう考えたヴィレッサは、出撃する船に乗り込む算段を立てようとした。
けれどその企みは、大声で止められる。
「ヴィレッサ殿も、悪戯などせぬようにな」
窓から抜けてきた声に、ヴィレッサは肩を縮めた。
あらためて室内を覗き込む。苦笑いを浮かべたヴァイマーと目が合った。
どうやら最初からバレていたらしい。
「あまり不安なようなら、シャロン殿に連絡するが?」
「ん……いい子にしてる」
ヴィレッサはがっくりと項垂れる。
シャロンの名を出されては素直に聞き入れるしかなかった。
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