曇天①
早朝、ヴィレッサはこっそりと起き上がる。
まだ薄暗い室内、同じベッドではルヴィスが静かな寝息を立てている。
そっと布団を掛け直してやってから、足音を忍ばせて部屋を出た。修道院の裏庭へ向かうと、辺りを見回して誰もいないことを確認する。
軽く身体を伸ばし、準備運動をしてから、腰に下げた相棒へと手を伸ばした。
「それじゃ、始めるよ」
『了解。演習モードへと移行。難易度γ、消音設定です』
機械的にそう告げられた後、ヴィレッサの視界に幾つかの的が現れる。
人を模した大きな的や、ネズミのように小さな的。固定されていたり、細かく動いたり、あるいは撃ってはいけない的など様々だ。
それらを狙い定めて、次々と魔導銃の引き金を弾いていく。
的はすべて視覚にのみ表示される物で、放たれる魔弾も実際には存在しない。けれど感覚としては現実と変わらず、射撃の動作を体に馴染ませ、磨いていくことができる。
毎朝、ヴィレッサはこうして訓練を繰り返していた。
隠れるようにして行っているのは、ルヴィスやシャロンが良い顔をしないからだ。怒られるほどではないけれど、ヴィレッサとしても二人に余計な心労を掛けたくない。
家族の優しさは嬉しくても、甘えっぱなしにはなりたくない。
いざという時に無力でいるのは、一度経験すれば十分だ。
『命中率八二%、標的離脱ゼロ。誤射もありません』
「及第点ってところかな」
『射撃速度、正確性ともに向上しています』
頼れる相棒
ディード
が言うなら、それは事実なのだろう。
けれどヴィレッサは納得がいかない。
目指すのは確実に敵を撃ち抜く―――いや、撃ち抜いたとすら気づかせないほどの技術だ。
ある程度の技量を持った戦士は、引き金を弾く瞬間を見抜き、魔弾の軌道を予測して避けるといった真似を平然と行ってくる。それに対抗するには、ヴィレッサも己の技量を磨いていくしかない。
「まだ時間はあるね。今度は固定標的で」
『了解。標的、表示します』
そうして訓練を続けて、皆が起き出す前に部屋へ戻る。
こっそりとベッドへ潜り込んで二度寝に入る。
可愛い妹
ルヴィス
から叩き起こされるまでが、いつもの流れだった。
◇ ◇ ◇
数日間に及んだ祭りの期間が過ぎても、キールブルクの街には賑わいが留まっていた。
朝早くから作業場へ向かう職人もいる。長期航海のために、出航準備を進めている船員もいる。街の北にある大門も、普段より心なしか早い時間に開かれていた。
まだ涼気を含んでいる陽射しを受けながら、数十名の人間が門をくぐる。
それだけの集団が一斉に街を出て行くのは珍しい。シャロンを中心とした、ウルムス村の復興作業へ向かう第一陣だ。
「二人とも、ちゃんと伯爵様の言うことを聞くのよ?」
双子の頭を撫でながら、シャロンは僅かに顔を歪める。他にも幾名か、しばしの別れを惜しんでいる親子がいた。
「ルヴィスは、あまり頑張りすぎないようにね。困ったら周りを頼りなさい。あと、甘いものは少し控えること。ヴィレッサは、ルヴィスに心配掛けないようにしなさい。少しのお昼寝はいいけど夜更かしはダメよ。メアの面倒もちゃんと見ること。それと……」
「大丈夫。あたしは、いい子だから」
「そうです。お姉ちゃんはともかく、私は約束を守りますから」
ヴィレッサもルヴィスも、小さな拳を握って胸を張る。
自信たっぷりの顔を見せる双子に、シャロンはまた複雑に顔を歪めた。間違いなく問題を起こすだろうと、シャロンでなくとも予想できる態度だ。
不安が膨れ上がってくるけれど、今更街に残るとは言えない。
村復興の第一陣は五十名余り。野生の獣や魔獣との遭遇が予測されるので、男衆が中心になっている。それに力仕事も多くなるため、女性は一部の者が参加するのみだ。
これに、ヴァイマー伯爵が派遣してくれる兵士二十名が加わる。
シャロンの大規模転移術ならば、百名程度まで一度に村へ運べる。しかし大量の魔力を消費して、その後に隙を作ることになってしまう。
今回は安全を重視して、数日の道のりを全員が徒歩で行く予定だった。この街と繋がる道を整えるために、下見をする意味もある。
村長も代表者として加わっているが、村の皆が一番頼りにしているのはシャロンだ。
「貴方たちを信じてはいるけど……」
不安を口にしかけたシャロンだが、静かに首を振るに留めた。
「念の為に、これを渡しておくわ。ルヴィスが持ってなさい」
「え……指輪? 魔導具?」
ルヴィスの手に乗せられたのは、小さな指輪だった。太く無骨な造りで、黒い石が埋め込まれている。しかし複雑な紋様も刻まれていた。
同じ形の指輪を、シャロンが自分の指に嵌めてみせる。
「離れた相手にも言葉を送れるの。でも一回か二回で壊れてしまうから、いざっていう時に使いなさい。すぐに駆けつけるわ」
「分かりました。大切にして、絶対に壊さないようにします」
「ルヴィス、あたしにも見せて」
新しい玩具を与えられた子供みたいに、双子は指輪を見て目を輝かせる。
まあ実際に子供なのだが―――。
普段があまりにも大人びている双子は、無防備な姿を滅多に晒さない。一緒に暮らしているシャロンにとっても、そういった姿は珍しく、また微笑ましかった。
ずっと側に居て守っていたい。
そう願いながらも、シャロンは一旦目を伏せて、頭を振った。
双子から、側に控えていたベルティへと視線を移す。
「ヴァイマー様にもよろしく伝えてください。二人を頼みます」
「はっ、お任せを! 拙者の命に代えても、御二人には傷一つ付けさせないでござる」
「ま、まあ、そこまでの事態も起こらないでしょうけどね」
苦笑を零すと、シャロンはもう一度だけ双子の頭を撫でた。今度はすぐに手を離すと、村の皆とともに街を出て行く。
去っていく大勢の背中を、ヴィレッサとルヴィスは静かに見送った。
その姿が見えなくなってから、双子は揃って振り返る。
「それじゃあ、あたしたちも行こう」
「うん。まずは修道院に戻って、お引っ越しだね」
生活が変わるのは、なにも村の復興に向かうシャロンたちばかりではない。
ヴィレッサとルヴィスもそうだ。魔導士と、その家族として。
伯爵邸へと移って、行儀見習いをする約束になっていた。
くるりと身を翻す。ひらひらとスカートが風を纏う。
装飾された服の彩りは綺麗だけれど、どうにも動き難い。
息苦しさも覚えて、ヴィレッサは歪に頬を緩めた。
「ヴィレッサ様は、まず笑顔の練習から始めた方がよさそうですね」
辛辣な評価を述べながらも、行儀見習いの教師は爽やかな笑みを浮かべる。
教師役となったのは初老の女性だった。頭髪は白く染まっているが、背筋は真っ直ぐに伸びて、凛とした気配を漂わせている。かつてはヴァイマー伯爵の教師役も務めていて、貴族としての知識全般、算術や魔術まで幅広く教えられるそうだ。
とはいえ、ヴィレッサもルヴィスも、修道院で基本的な勉強は修めている。
必要なのは、帝国貴族としての振る舞いや、平民との常識の違いを学ぶことだった。
「ルヴィス様は、基本はすぐに覚えられそうですね。ですが、姉であるヴィレッサ様から一歩退くことを心掛けるとよろしいでしょう」
「はい。お姉ちゃんの背中は、私が守ります」
「えっと、守るじゃなくて、支えるじゃないの?」
鏡の前で笑顔の練習をしながら、ヴィレッサは首を傾げる。
煌びやかなドレスに身を包んで、優雅な所作とともに舞踊や会話を楽しむ。そんな貴族の姿を、ヴィレッサは思い描いていた。
あながち間違ってはいない。形式ばった作法も学ぶ必要がある。
けれど尚武の国である帝国では、貴族女性に求められるものも少々無骨だった。
「鉄血皇妃と呼ばれたアンネマリー様の逸話がございます。とある舞踏会で賊に襲われた際に、武器を持った二十名を相手に、素手で全員を返り討ちにしたそうです。その活躍に目を奪われた練武皇ジギスドーア様が、妃として迎えられました。それ以来、帝国の貴族女性には武器を持たぬ強さが尊ばれるようになったのです」
なんとも凄まじい、ヴィレッサからすれば頭を抱えたくなる逸話だった。
あまりにも常識が掛け離れ過ぎている。いったい、どんな貴族像を追い求めればいいのか―――優雅にお茶を飲むだけでも、ヴィレッサには困難な課題だというのに。
「ヴィレッサ様、椅子に飛び乗ってはいけません」
「お姉ちゃん、カップはこうやって持つんだよ」
「側仕えを呼ぶ際は、手招きではなく目線で合図を……睨んではいけません」
「ほっぺにお菓子が……ああ、ちゃんとハンカチを使わないと」
教師とルヴィスから、次々と注意の言葉が飛んでくる。
基本的な作法を習っただけで、ヴィレッサはげんなりとして項垂れていた。
だからといって容赦はしてもらえず、
「そのように姿勢を乱しては、不埒者に襲われた時に対処できませんよ」
老婦人から、厳しい叱責の言葉が投げられる。
帝国式の行儀作法を身につければ、不意の襲撃を受けても落ち着いて対処できるという。欠片ほどの隙も見せず、襲撃者を事前に諦めさせるのが作法の極意だそうだ。
「それってもう、作法じゃなくて護身術なんじゃ?」
「はい。護身術を含めた作法です」
何か問題がございますか?、と老婦人は涼やかな笑みで問い返す。
あまりにも自信たっぷりな態度を向けられて、ヴィレッサは押し黙るしかなかった。
普通は一緒にするものじゃない―――なんて思っても、声には出せない。老婦人の堂々とした佇まいが反論を許してくれないのだ。
「……帝国式作法って、すごい」
「ご理解いただけたようで喜ばしいです。では、次は帝国の歴史を学びましょう」
部屋の奥から、机と椅子、それと分厚い歴史書が運ばれてくる。侍女が抱えるだけでも苦労しているその本が、どうやら教科書になるらしい。
ヴィレッサはまた、げんなりと眉を寄せる。
それを見咎めたのか、ルヴィスが一歩退いた。静かに姉の背後へと回る。教わった通りの隙のない動作だった。
「お姉ちゃん、逃げたらダメだよ」
「……そんなこと、考えてもいないよ?」
背中を押されて、ヴィレッサは仕方なく席に着く。
分厚い歴史書を睨んで、ささやかな抵抗を試みるのだった。
着替えまで侍女が世話をしてくれて、煌びやかなドレスに身を包んで、丁寧に勉強を教えてもらえる。伯爵邸での生活は、平民の感覚からすればとても贅沢なものだった。
けれど窮屈だ。息が詰まる。
普段の歩く仕草とか、言葉遣いのちょっとした違いとか、そこまで細かく気を配らなくてもいいのに―――。
そう溜め息を繰り返すヴィレッサだが、逃げ出す訳にもいかなかった。
窮屈だが学ぶことの多い生活を、ルヴィスが気に入っているようだったから。
「お姉ちゃんだって、シャロン先生の授業は真面目に受けてたでしょ」
「それはそうだけど……」
修道院では行儀作法なんて習わなかった。ヴィレッサが苦手なのはそこだけだ。
他の授業、歴史や算術、音楽などは、及第点が貰えるくらいにはこなしていた。
「ヴィレッサ殿の竪琴は、素晴らしい演奏だったと聞いたが?」
双子の正面には、ヴァイマー伯爵が座っている。行儀作法の授業を兼ねて、簡素なお茶会が催されていた。
中庭に面した部屋で、穏やかな涼気が流れている。窓と扉は大きく開かれて、手入れの行き届いた庭では季節の草花が芽吹き始めていた。
教師役の老婦人も控えているが、息抜きも兼ねているので細かく口を挟まない。
ヴィレッサに向けられる厳しい眼差しも、この日は控えめに刺さる程度だった。
「お姉ちゃんは、自分で作曲もできるんですよ」
「すこし違う。あの曲は、ディードが教えてくれたもの」
訂正をして、ヴィレッサは自身の肩口にそっと手を当てた。
いまのヴィレッサは、ドレスの上から『赤狼之加護』を羽織っている。普段の外套ではなく、肩掛けみたいに変形したものだ。
内側には魔導銃も潜めてある。作法にも則している。
小型の武器を隠し持つくらいは、帝国淑女にとっては嗜みのひとつだ。
さすがにその武器を抜くのは非常時にしか許されないが。
「そういえば、ヴィレッサ殿の魔導遺物は喋れるのだったな。口数は少ないようだが」
『私の役割は、マスターの補佐だと心得ております』
必要以上の言葉を交わすつもりはないらしい。
淡々と語る魔導銃に代わって、ヴィレッサは肩をすくめて付け加えておく。
「古代文明の音楽も知ってるみたい。楽器が違うから、真似するのも難しいけど」
「太古の楽曲か。ふむ、興味深いな」
「他にも、色んな知識を持ってるんだよね?」
『肯定します。ですが、私の知識は偏っているため、マスターを惑わす恐れもあります』
魔導銃が語るのに任せて、ヴィレッサは静かにお茶を口へ運んだ。
魔導遺物に代表される、現在よりも進んだ知識や技術。もしもヴィレッサが望むならば、それらの再現に挑むことも可能だろう。魔導銃から語られる知識は、研究者などからすれば咽喉から手が出るほど魅力的なものだ。
あるいは、世界の在り方を塗り替えることも可能―――。
けれどヴィレッサには、そんな野望を抱くつもりは毛頭無い。
だって子供だから。一丁の魔導銃でさえ、過分な力だと感じている。
自分と、周りにいる大切な人々だけでも守れれば充分だと考えている。
少なくとも、いまはまだ。
「でも……古いって言えば、帝国の歴史もそうですよね?」
「うむ。二人も歴史書には目を通したそうだが、あれは賢帝ブロスフェルトによって編纂されたもので、それ以前の歴史を紐解くと……」
ルヴィスが話題を移して、ヴァイマーもそれに合わせる。二人ともに、魔導銃が秘めた可能性を察した上で、敢えて触れるのを避けたようだった。
其々に理由があるにしても、そこにはヴィレッサに対する配慮も含まれていた。
優しい気遣いを、ヴィレッサは素直に受け止める。
「あの歴史書を読んで思ったんですけど……」
話を聞いていたルヴィスが、ふと首を捻った。僅かに躊躇ったのは、それが少々失礼な疑問だったからだろう。
「ベルティ様も、あれを読まれたんですか?」
「あ、それはあたしも思った。表紙だけで挫折しそうだって」
「ちょっ、お姉ちゃん!」
慌てた声を上げて、ルヴィスは姉の口を塞ぐ。
さすがにヴィレッサも失敗に気づいて、ヴァイマーへ頭を下げた。
「う、うむ。まあ、疑問はもっともだな。しかしアレも努力はしていたのだ。確かに表紙を見た途端に逃げ出そうとしたが、冒頭部分だけはなんとか読破しておった」
苦笑いを零したヴァイマーは、溜め息も落として語り出す。
「初めての娘で、甘やかしたのが良くなかったのだろう。上が兄二人というのも影響したのであろうな。剣術ばかりに打ち込んで、それ以外の部分が疎かに……いや、騎士としての力量は誉めても良いと思うのだ。しかしなぁ……」
なにやら愚痴が長くなりそうだった。
どうしたものかと、ヴィレッサとルヴィスは目配せし合う。娘に対する心配はともかく、領主としての仕事が増えたとか、最近は妻や侍女が冷たいとか言われても、八歳の子供には返答のしようがない。
けれど、あまり悩む必要もなかった。
「ん……?」
なにやら外が騒がしい。幾名かの大声と、馬の嘶き声が聞こえてきた。
馬というか、大気ごと震わせるような嘶き声は―――。
「メア……?」
ヴィレッサが席から立ち上がろうとしたところで、部屋の扉が勢いよく開かれた。
乱暴な音とともに踏み入ってきたのはベルティだ。
何事か、とヴァイマーが問い質すよりも早く、ベルティが口を開く。
「父上、それにヴィレッサ殿も、良い所にいてくれたでござる。実はいま、ヴィレッサ殿の愛馬が屋敷の前まで押し掛けてきたでござるよ」
「やっぱり、この声はメアなんだ」
でも、どうして急に? いまの時間なら外へ散歩に行っているはず。
そう首を捻るヴィレッサだったが、ベルティも事情を掴みかねているようだった。
「どうやら何かを訴えたい様子。一緒に来てはくださらぬか?」
断る理由はない。黒馬の主として、ヴィレッサには面倒を見る義務がある。
それに、窮屈なドレスから解放される理由になるかも―――、
などと呑気に考えてもいた。この時は、まだ。
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