春に浮かぶ三日月①
南方とはいえ、冬の港は寒い。冷たい海風が絶え間なく吹きつけてくる。
陽射しが明るくなっても、過ごし易くなるのは昼過ぎ―――そのはずだったが、この日は妙に生温かい風が訪れていた。
「なんか、今日はおかしな陽気っすね」
今年から仕事を始めたばかりの若い兵士が、階段を昇りながら呟いた。
港に面した兵士詰め所には見張り塔も設置されている。上階からは、港の全体が見渡せる造りになっていた。
「そうだな。まだ春には早いはずなんだが」
「ついこの前、雪が降ったばかりっすよね。冬なのか春なのか、海の女神様にもハッキリして欲しいっすよ」
「あん? おまえ、そんなに信心深かったか?」
「いやぁ、それほどでもないんすけど、修道院のシスターが美人で……」
「馬鹿か。天罰が当たるぞ」
溜め息を落としながら、中年の兵士が見張り塔の扉を開けた。
中には、すでに二人の兵士が詰めていた。交代の時間だと告げて見張りを引き継ぐ。
「異常は無いな?」
「ええ。静かなものですよ。少しだけ人の出入りが増えてきたくらいで」
「そういえば、例の『魔弾』様が来てましたよ」
兵士の一人が、港に面した造船所を指差す。
その造船所では、『魔弾』が街に訪れる前から、一人の子供が有名になっていた。僅かな間に船の設計を覚えたり、強欲な商人を交渉で言い負かしたり、派手な活躍をした子供がいたのだ。
「妹の働きぶりを見に来た、ってところですか」
「しかし姉は魔導士で、妹は天才か。神様も不公平だよな」
「でも姉の方は、本当に強いんですかね? いくら魔導士だからって……って!」
頭を小突かれて、若い兵士は振り向く。
厳しい顔をした中年兵士が拳を握っていた。
「迂闊なことを言うな。領主様のお客人だぞ」
軽く小言を投げて、中年兵士は窓の外へ目を向けた。
先にいた兵士たちは、苦笑いを零しながら部屋を出ようとした、が―――、
「―――待て!」
不意に張り詰めた声を投げられて、全員の動きが止まる。
けれどすぐに事態を確かめようとするくらいには、帝国兵は訓練されていた。
何か事件でも起こったのか、と他の者も外の様子を窺う。けれど港には目立った変化はない。大きな船は停泊したままで、船員や商人が行き交っているくらいだ。
だが、中年兵士は告げた。
「海を見てみろ」
その言葉に従って、三名は揃って視線を移す。
南方に広がる海は、潮騒を繰り返し奏でている。沖へと目を向けても普段通りの風景が続いているだけだ。幾分か陽射しが強いが、異常と言えるほどではない。
兵士の内、二名は首を傾げる。
けれど一名は不安げな声を漏らした。
「もしかして、『春波』ですか?」
「まだ分からん。だが念の為、領主様へ報告しろ。急げ!」
命令とほぼ同時に、兵士たちは駆け出す。困惑しつつも素早い対応と言えた。
だが、そんな彼らの努力を嘲笑うように、自然の脅威は猛然と迫ってきていた。
港の兵士たちが異常を察知した頃―――。
造船所を訪れたヴィレッサは、ルヴィスとともに机に向かっていた。
書類仕事の手伝いだ。普段はルヴィスが任されている仕事だが、ヴィレッサも読み書きや計算を得意としている。怠け癖が出なければ、ルヴィスに劣らない。
つまりは、そこらの大人顔負けの仕事ぶりを披露できた。
「嬢ちゃんたち二人がいると、あっという間に仕事が終わるな」
片付けられた書類の束を見て、造船所の親方が苦笑を零した。職人として鍛えられた無骨な手で、カップが乗せられたお盆を抱えていた。
ちょうど双子の仕事も一段落したところだ。
熱いお茶が注がれたカップを受け取って、ヴィレッサもルヴィスもほっと息を吐く。
「おじさん、ありがとう」
「お姉ちゃん、火傷しないように気をつけてね」
保護者みたいに注意してくるルヴィスに、ヴィレッサは素直に頷く。そうしてゆっくりとお茶を口へ運んだ。
ヴィレッサがこの造船所を訪れたのは、ただ暇だったから。
シャロンは村の復興準備で忙しくなってきたので面倒を掛けたくない。ルヴィスは造船所で頼りにされているので、遊びに付き合わせる訳にもいかない。そもそもヴィレッサくらいの年齢になれば、子供でも親の仕事を手伝うのが当り前だった。
一応、ヴィレッサにも魔導士としての仕事はある。けれど形ばかりの食客で、雇い主であるヴァイマーからも「子供らしく遊んでいるといい」と言われていた。
領主公認の遊び放題の子供なのだ。
だから暇を持て余していて、ルヴィスの手伝いでも無いよりはマシだった。
表向きは、そういうことになっている。
「あたしが働いた分は、ルヴィスのお駄賃を増やしてあげて」
「ちょっと、お姉ちゃん!」
「はっはっは、分かった。あとでオヤツでも買ってきてやるよ」
気の良い親方は、ヴィレッサの目から見ても信頼できる相手だ。ルヴィスを無理に働かせたり、酷い扱いをして泣かせたりはしないだろう。
ルヴィス本人だって、困った事態になれば知恵を使って対処するはずだ。
それでも―――子供だから、とヴィレッサは心配もしてしまう。
だからあれこれと理由をつけては、ルヴィスの側にいるようにしている。姉として妹を守るのも当り前なのだ。
もっとも、不測の事態なんて起こらないに越したことはない。
ヴィレッサが『魔弾』として力を振るえば、血が流れるのは避けられないのだから。
「ん……? なんか表の方が騒がしくねえか?」
お茶を啜っていた親方が首を傾げる。
ヴィレッサたちがいる部屋は、仕切り壁が置かれているだけの簡素なものだ。ちょいと顔を出せば、職人たちが造船作業を行っている広い空間が目に入る。
ちょうどそこに、一人の兵士が駆け込んできたところだった。
「大変っす! 逃げるっすよ!」
若い兵士はいきなり大声を上げた。息を乱しているし、慌てた様子は見て取れる。
けれど、いったい何を慌てているのか?
首を傾げる職人たちに対して、返答はすぐに訪れた。
「『春波』っすよ! 今年はやけに早かったらしくて、もう―――っ!」
直後、造船所の壁がブチ破られた。人間よりも大きな影が飛び込んでくる。
それは鋸みたいな尖った歯を生やし、鉈のように硬いヒレを持った―――、
「暴食軍鮫
グラトゥス・アグナス
!」
鮫の魔獣だ。
海流に乗って群れで移動して、あらゆるものを獲物として食い漁る。正しく暴食の名に相応しい。陸地にも一切構わず乗り込み、石壁だろうと人間だろうと、区別なく腹に収めようとする。
春になるときまって訪れる、謂わば、この街の風物詩でもあった。
だが、詩と言えるほど穏やかなものでもない。
大量の魔獣が襲ってくるのだ。しかも今回のように不意打ちとなれば、どれだけ被害が広がるかも分からない。
「さっさと逃げるっす! ここは俺が食い止めるっすから!」
若い兵士は剣を構えると、石壁を突き破った軍鮫に斬り掛かった。
しかし剣が届くよりも早く、軍鮫が大きく跳ねる。高い天井近くまで跳ね上がると、鋭い牙を見せつけるように口を開き、落下、突撃してきた。
「ひ、あぁっ!?」
悲鳴じみた声を漏らして兵士は転がる。辛うじて丸齧りにされるのは避けた。
けれど衝撃で吹き飛ばされ、石礫に全身を叩かれて、なにより魔獣の迫力に怯んでしまっていた。立ち上がろうとしても膝が震えるばかりだ。
兵士は尻餅をついた姿勢のまま、それでも懸命に剣を握って、正面へと突き出す。
「だ、大丈夫……俺は、この街を守る兵士なんっすから……」
軍鮫が、地面に埋まっていた頭部を起こす。
食欲に満ちた眼光が、ぎろりと兵士を捉えた。
「さ、さあ、みんなは早く逃げ―――」
その言葉は最後まで告げられなかった。
いや、もはや告げる必要もなくなっていた。
何故なら、軍鮫の頭が弾け飛んだから。まるで内側から爆発したみたいに。
赤々とした血が飛び散る光景を、若い兵士は呆然として見つめてしまう。
『―――命中。敵、生命活動の停止を確認しました』
「はっ、敵にもなってねえぜ」
カツン、と小さな靴音が響く。
その音に引かれるように、兵士は振り返った。
まず目に留まったのは真っ赤な外套。血を吸ったような鮮烈な赤が、緩やかな風を受けて揺らめいていた。
そして、その外套を纏った幼女の手には魔導銃が握られている。
小さな両手に一丁ずつ、同じ形をした魔導銃だ。銃身全体は鈍い銀色で、細く青白い線が無数に走っている。まるで硝煙みたいに仄かな魔力光が立ち昇っていた。
極式魔導遺物、『万魔流転』―――。
あらゆる戦場で、あらゆる敵を、ひたすらに殺すために存在する戦略級兵器。
その機能を補佐する擬似人格、ディードと名付けられた彼女は淡々と問う。
『屋外に、多数の魔獣の反応を感知しました。如何されますか?』
「んなもん、決まってるだろ?」
そう。この魔導銃を抜いた時点で、やるべきことは決まっていた。
敵は、殲滅する―――。
言葉にはせず、『魔弾』のヴィレッサは三日月型に口元を吊り上げた。
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