第9話 碧いアネモネ①

 アンドレイーナ・ディアーコは大きなあくびをした。

 次に両腕を天に突きあげ、ぐっと伸びをする。胸元の小さなネームプレートを見る限り、彼女は事務職員だ。机にへばりついてパソコンを操作しながら、ときおり来客の受付や案内をするのが仕事である。だから、仕事が終わるとこうして固まった肩や腰を伸ばしたくなるのだ。疲れた身体を軽くほぐすアンドレイーナの表情は心地よさそうに見えた。


 夕焼けが城のように大きな二つの建築物を赤く染めている。左手にあるパパヴェロ大学医学部附属病院はこの地域で最も大きい病院であり、隣接するもう一方の建物は同じパパヴェロ大学医学部の研究施設だ。すぐそばで最先端の研究がなされるため病院では最先端の医療が受けられるとあって国中から患者が集まる。ただし、最先端の技術や医療機器を用いておりどの治療も非常に高額なものとなり自然と富裕層の患者が多くなる。

 アンドレイーナは夕焼け空に背中を押されながら歩いていく。荷物はレザートートバッグをひとつ。バレッタを外すと、ウェーブのかかった黒髪がふわりと広がった。太くむくんだ足に先の細いパンプスは窮屈そうだが、今夜なにか楽しみでもあるかのように足取りは軽やかだ。

 研究棟を出て向かうのは他の職員と同じく隣接する病院の駐車場だろう。建物の近くの駐車スペースは来院する患者が病院にすぐ入れるように空けられているため、職員用のスペースは病院の建物から最も離れた場所にあった。そこにはまだ十数台ほどの車が止まっており、研究棟で残業している人の数がわかるというわけだ。アンドレイーナはそのなかの一台――水色の車の傍まで来ると立ち止まった。

 車の鍵を取り出そうとしたのか、忘れ物をしていないかどうか確認しようとしたのか、アンドレイーナはトートバッグをまさぐった手をはたと止めた。怪訝な表情で踵を返して再び研究棟へ向かって歩き出そうとしたとき、アンドレイーナにとって初めて出会うはずの人物が立ちはだかった。


 金髪の吸血鬼――ソレッラである。ソレッラが吸血鬼であるということをアンドレイーナが知る由もなく、また見た目が人間とまったく変わらないためわかるはずもない。

 アンドレイーナは音もなく現れたソレッラに一瞬驚いた様子ではあったが、特に警戒心を抱くことなく笑いかけた。


「あなた、隣の車の人かしら? ……ああ、私がじゃまして乗れなかったのね。ごめんなさい、今どくわ」


 アンドレイーナは身体を斜めにしてソレッラの脇を通りすぎようとしたが、ソレッラは正面に立って遮った。それから、名札をなぞるように指さした。


「アンドレイーナ・ディアーコさん。あなたに用事があるのです」

「……私、あなたと初対面のはずよね。一体なにかしら。体のいい儲け話とか新しい神様の勧誘なら先にお断りしておくけど」


 アンドレイーナはあからさまにいぶかしそうに眉を寄せた。


「いいえ、ビジネスの話でも宗教の話でもありません。あなたには一切関係のない事情で、あなたの身体をお借りしたいのです。ご了承いただけますね?」

「な、なに? どういうことなの、あなたのいってること全然わからないわ。……申し訳ないけど、私があなたのためにできることなんてないわよ。さあ、わかったら通して」


 佇むソレッラの胸に、無理やりにでもまかり通らんとばかりに歩き出したアンドレイーナの肩が突き刺さる。ソレッラは顔をしかめたが、痛みのせいでもアンドレイーナの剣幕に押し負けたせいでもない。ただひとつため息をつくと、右腕でアンドレイーナの頭部を包みこむように抱きしめた。

 腕のなかで、アンドレイーナが息をのむのがわかる。驚いているのか、怯えているのか、哀れな女性は少しだけ身じろぎして固まってしまった。その喉元には、拳銃が突きつけられている。


「大人しくしていただければすぐに過ぎ去ります。恐ろしいことも、悲しいことも……。いったでしょう、あなたには一切関係のない事情だと。そんなことであなたが死ぬ必要などないのです。ただちょっとお力をお貸しいただければよい」


 ソレッラは相手に騒がれまいと努めて穏やかにささやきながら、アンドレイーナの髪を掻き分けた。肉付きの良い、白い首筋が露わになる。

 その首筋に、軽く牙を擦りつける。アンドレイーナは生まれたばかりの子犬のような悲鳴を上げた。肌に触れている唇を通して小刻みな震えが伝わってくる。

 ソレッラはすぐに牙を離すと、舌先で小さな傷口をちろりと舐めた。ソレッラの目的はアンドレイーナを操ることなのだから、契約時のように吸血をする必要はない。血液を一滴でも体内に取り込み、取りこんだのと同じ血液を持つ者に対する能力行使の足掛かりになればよいのだ。

 ソレッラが頭を放すと、アンドレイーナは二、三歩後ろによろめいて尻もちをついた。極度の緊張が解けるとともに力まで抜けてしまったのだろうか。ソレッラは拳銃をジャケットの下に隠したホルダーに仕舞い、傍によって肩を支えてゆっくりと立たせた。

 他者を操作する能力がしっかりと行使できるかどうか、アンドレイーナに足踏みさせるよう動かして確認する。自分の能力が機能するかどうかを疑っているわけではない。だが、ここは死者を操作する能力を持った吸血鬼の根城だ。ソレッラにも予想できないことがあるかもしれない、そのための確認であった。

 予想できないこと――あの夜、敵が吸血鬼である可能性を考慮していれば部下たちは死ななかったかもしれない。今となってはいくら後悔しても仕方のないことだが、もう間違いは起こさないと決めたのだ。


「な、なにをしたの」


 蚊の鳴くような声をしぼるように発したアンドレイーナは、目に涙を浮かべながらソレッラを見上げた。その顔は青ざめている。


「安心して。ただのお約束ですよ、あなたはただ身体の命ずるがままに歩き、手を動かす。お願いするのはこの二点です。あとは……そうですね、余計なことは考えないほうが身のためだと心に留めてください」


 ソレッラは努めて嫌悪感を与えないよう心掛けた。たとえ反抗されたとしても能力で抑えつけることはできるが、抵抗のないほうが操りやすいのは確かだ。

 足の力が完全に抜けたアンドレイーナの身体を操って、車のドアを開けさせる。ソレッラはアンドレイーナに導かれる形で後ろの席に座った。それからアンドレイーナを運転席に座らせ、足をブレーキの上に乗せ、最後にハンドルを握らせる。


「発進させて」


 アンドレイーナが緊張した面持ちでエンジンを掛けると、車は緩慢な速度で走り出した。患者の車がなくなってコンクリートの広場と化した駐車場を横切り、車は門のところで一時停止する。ソレッラは門の守衛室にいる男性のひとりが手を振るのを見た。小さく動いた男性の口は「おつかれさま」といったようだった。

 それに対し、アンドレイーナは手を上げて応えた。ソレッラが能力を使ったわけではないので、いつもの挨拶なのだろう。

 車はそのまま坂を下り、病院は背後へと遠ざかっていく。振り返ると、先ほどまで太陽に真っ赤に染められていた二つの白い巨大建造物が薄闇のなかに溶けていくのが見えた。坂道が大きな曲線を描いた後、碧で覆われていたはずの視界が急に開ける。眼下に広がるのは地中海だ。水平線の向こう側へ、太陽が今まさに沈まんとしていた。

 その後、ソレッラは坂を下った先で車を降りた。アンドレイーナは何事もなかったように解放され、そのまま帰路についたのだった。

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