第8話 山茶花が遺したもの②
ふと顔を上げたとき、ヴァニアのトーストからバターと混ざり白っぽくなったハチミツがぽたりと垂れた。傾いたトーストの端からヴァニアの指先に黄金色の雫が伝い落ちていく。
「あら?」ヴァニアもはたと気づきトーストを皿に置く。「ハチミツが垂れたみたいだわ」
ヴァニアは先程ナフキンを置いた場所に手を伸ばした。ヴァニアの服の袖がテーブルの上を滑り、テーブルに広がったハチミツに近づいていく。
「カポ、動かないで!」
ソレッラは勢いよく立ちあがった。ヴァニアは袖がテーブルクロスを擦っていることに気づいていないし、こぼれたハチミツがどのように広がっているのかを知らない。見えていないからわからないのだ。
ソレッラが咄嗟に手首を掴むと、ヴァニアは驚いたように身体を震わせた。
「申し訳ありません。ハチミツが袖につきそうでした。私が拭きますので、少々お待ちいただけますか?」
ほっとした表情を見せたヴァニアは腕を下ろそうとして――ふと、指先を高く上げた。
ソレッラは意図が掴めず、眉を寄せる。
「ここにもハチミツがついているわ。とって頂戴」
「わかりました。今、拭きます」
「違うわ。『舐めとって』といっているのよ」
「……えっ」
頭のなかが真っ白になったソレッラに追い打ちをかけるように、ヴァニアは強引に指を突き出した。
「早くしなさい」
ヴァニアの声は命令口調でありながら弾むような響きが混じっている。からかわれていることは分かったが、上手い返答も思いつかない。結果としてソレッラが取れた行動は、たおやかな手を慌てて受け取ることだけだった。
心臓がさっきの倍ほど速く脈打っているように感じる。掌に唐突に汗がにじみ、頬が燃えるように熱い。
ヴァニアの指は陶器の人形のように細く白く、見た目よりもずっと柔らかかった。
「あの、カポ、それは……」
見えないはずの瞳がやおら開かれ、戸惑うソレッラをまっすぐに見つめる。ソレッラが視線から逃れようと身をよじってもヴァニアの瞳は微動だにせず、ソレッラのいなくなった虚空を見つめ続けている。
ヴァニアは三年前と比べて見違えるほど強くなった。かつて父親を奪われた幼い少女は影をひそめ、マフィアの
ソレッラは促されるまま乾いた唇を指に近づける。だんだんと激しくなる動悸が肺を叩き、息が苦しい。なぜこんなにも苦しいのか。嗅覚はその答えを感じ取っている。血だ。ついさっき紙で切ったのだろうか、ハチミツの甘ったるいにおいに僅かに血のにおいが混じっている。
ヴァニアはなにを考えているのだ。まさか、契約を……?
命令に突き動かされるように、ソレッラはヴァニアの指先を口に含んだ。
「いい子ね」
ヴァニアに肩を引き寄せられ、ソレッラはうめいた。舌の上を甘く細い指が撫でる。器用に歯の裏側をなぞってくねくねと動く指先はとてもくすぐったい。
ヴァニアは契約を誘っているのかもしれない。血のにおいのする指先を舐めさせるということは、自分の血の味を吸血鬼に覚えさせるということである。曾祖母と祖母がソレッラの契約者だったヴァニアの血は、ソレッラと相性が良い可能性は高かった。
尖った歯を柔らかい皮膚に突き立てないよう、必死で血を味わってみたくなる衝動を抑える。ソレッラにとってヴァニアはかっこうの契約者候補なのだ。だからといって義理を捨てるわけにはいかない。クレーリアとの契約はまだ有効だ。
「ソレッラ、私と契約して」
「……いけません、いけませんヴァニア様」
頭上から降りてくる天使の声に必死で抗う。
「あなたの契約は『私が生きている限り仕え続ける』ことだったはずよ。私と契約したってなんの問題もないはずだわ」
「それでもっ、どうしてもダメなんです……お許しください……」
今、ヴァニアはどんな顔をしているのだろう。喜びだろうか、はたまた失望だろうか? ぐるぐると巡る思考の水面に、ヴァニアの言葉が波紋を起こす。
「私はあなたとの永遠がほしいのよ」
ヴァニアはソレッラの口から指を抜き取ると、甘美な蜜が残る自分の指先にキスをした。
「ソレッラ、人は永遠を夢見てきたわ。不死を求める物語は、古いものだとギルガメシュ叙事詩が紀元前二〇〇〇年前に成立しているし、秦の始皇帝が徐福を蓬莱山に派遣したのは紀元前二〇〇年頃よ。十字軍の遠征があった一〇〇〇年代にはイスラム文化の影響を受けて、ヨーロッパで錬金術が盛んになっている。何千年もの努力を経てなお、人間は不死に辿り着けていない。生物には必ず限界があるということもわかっているわ。細胞分裂回数の上限を指すヘイフリック限界や、一生の心拍数が二十~二十五億回であることも、すべて命が限界あるものだと示している。生きた肉体を持つ以上、これらを覆して生き続けるということはできないはずなのよ」
ヴァニアはまぶたを閉じ、真剣な表情でソレッラの右手を握った。
「……でも、吸血鬼は違う。吸血鬼の肉体は生物のものだけど、その魂は生物由来ではないはず。例えば、私の感情はただの電気信号よ。知覚情報を脳が受け取って、神経細胞のなかで電位変換が起こって、別の神経細胞に伝わっていく――それが感情を生み出しているものなの。記憶だって、生物である脳というストレージに依存したものでしかない。私という個体がなくなれば、記憶も永久に失われてしまうわ。でも、吸血鬼は記憶を次の個体へ受け継ぐことができるのよ。それは吸血鬼の記憶や感情、つまり一般的に『魂』と呼ばれるものが生物のものではない――突き詰めると有機物ではないと考えることができるのではないかしら。『血に宿る魔力』とあなたたちが呼ぶものよ」
「要するにカポは、生物としての人間であることをやめたい、と仰っているのですか?」
「人間をやめたいというわけではないわ。以前もいったでしょう。私は、ソレッラと一緒になにができるか知りたいの。私が生まれる前から生きているあなたのことをもっと知りたいの。だから、私はあなたとの永遠がほしいのだわ」
ヴァニアは強く迫った。ソレッラは締めつけるように手を握ってくる手をそっと解いた。
「……契約する必要などありませんよ。私と契約すれば、吸血時に私の魔力が込められた血液をあなたの体内に注ぐことになります。あなたの身体は私の魂を受け入れられる器として、体質が徐々に変化していくでしょう。最終的に私の魂を受け入れたとき、あなたの魂は完全に消滅するのですよ。契約は永遠ではありません」
優しく諭すように伝えるが、ヴァニアはなお食い下がる。
「それに! ソレッラには今契約者がいないでしょう。もし昨日みたいなことがあって、ソレッラにもしものことがあったらって思うと、私」
「カポはそのことを心配してくださっていたのですか。私が不甲斐ないばかりに申し訳ありません。ですが、もう二度とあのような失態いたしません」
三年前も、昨日も、ソレッラが務めを全うできていればこの小さな娘を泣かせることもなかったのだ。
「この身体の持ち主だった少女のように、私はあなたを守ります」
その瞬間、ソレッラの側頭部に雷が落ちたような衝撃が走った。
――バチィン!
風船が割れたような音が鼓膜に直撃した。ソレッラの頬を狙ってでたらめに動かしたのだろう、狙いが外れて頭を叩いた小さな手が空中を彷徨っていた。乱暴な音に驚き顔を上げると、ヴァニアが唇を震わせながら佇んでいた。
「ふざけないで。ソレッラは私を守りすぎだわ。少しは自分のことも考えてよ」
ヴァニアの頬がみるみるうちに紅潮し、肩がぶるぶると揺れる。全身に満ちる激情を抑えんとしているかのように、拳が白くなるほど強く握られていた。
「カポが私を重く置いてくださるのは大変喜ばしいことですが、私はもう契約をしないつもりなのです。この身が吸血鬼である以上私は人を殺し続けることになる。人を助けたいというカポの夢は叶えられないのです。それは私の本意ではありません」
ソレッラは戸惑いながら小さくいった。すがるように手を伸ばしたものの、触れるやいなや無下に振りほどかれてしまった。
「カポはいったい私になにを求めておられるのでしょうか。私は吸血鬼として、契約者の望みを叶えているにすぎません」
ソレッラは火に油を注がないよう、慎重に告げる。吸血鬼は契約者の願いを叶える義務があるが、ヴァニアは契約者ではないため無茶な願いを聞き届ける必要はない。ソレッラは部下として、必要に応じて主を守りもすれば諫めもするだけだ。
ヴァニアはしばらく頬を膨らませていたが、とうとうため息をついた。手の甲で額の汗を拭う。
「……そうね。わかったわ」ヴァニアは観念した様子で大人しく手を膝に置いた。
「ソレッラ、無理をいってごめんなさい。契約したいのは私のわがままなの、困らせるつもりじゃなかったわ」
ソレッラの手は宙に放り出され、糸が切れた振り子のようにぶらりと垂れ下がっていた。
ソレッラは必死で言葉を探した。だが、伝えるべき言葉はまるで真っ白な吹雪のなかにいるように見つけられない。ヴァニアとともにいる意味はクレーリアへの義理以外にないはずで、契約をしないのは仕えるべき対象を殺すわけにはいかないからだ――そう結論付けても、形のない不安は胸の内をぐるぐると巡る。ソレッラは言葉を紡ごうとした唇を閉じられないままでいた。
しばしの沈黙の後、先に口を開いたのはヴァニアだった。
「ねぇ、あなたが以前契約した子の話を聞かせて。なぜその子は契約を受け入れたのかしら」
「それを聞いたら、カポは納得されますか?」
「……」
ヴァニアはうつむいた。ややあって上げた顔には、大切な宝物をなくしてしまったような顔をしていた。
「あなたが私と一緒にいてくれるのは、契約だから、なのよね」
探るような口調で問いかけられ、ソレッラは頷いた。
「ええ」
「その子との契約がなければ、あなたはどうしていたの?」
「契約を結ばなかった未来はすでに棄却されており、現在と比べることはできません。ですが、ひとつの可能性を申し上げるなら――カポはお生まれにならなかったかもしれません。そうなれば、私がここにいることもなかったでしょう」
「別の人と契約していたということ?」
「そうでしょうね」
ソレッラは恐る恐るヴァニアを見た。
「なら、仕方ないわね」悩ましげに微笑んでいたヴァニアは、気分を切り替えるように手を叩いた。
「正義の吸血鬼になれるのはやっぱりあなたしかいないわね。さあ、新しい作戦を練りましょう。ファミリーの皆のためにも」
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