第7話 山茶花が遺したもの①

 朝起きたら、まず珈琲豆を挽くことがソレッラの日課だ。

 挽きたての珈琲の匂いを嗅いでいると、まだ半分夢のなかにいる頭がゆっくりとベッドから降りてくる。アラームに叩きこされるわけでも、銃声に脅かされるわけでもなく、ゆったりと過ごせる朝は好きだ。

 ソレッラはキッチンで朝食の支度をしていた。この家のキッチンは先々代の時代から内装がほとんど変わっていない。重苦しい木製のウォークキャビネットが、ワークトップにトレイやナフキンを準備するソレッラを見下ろしている。食器類や調理器具などは多くが年代物で、ソレッラが初めてこの家に来たときにあるものがまだ使われている。


 ソレッラはファミリーに所属してから四人のカポを見守ってきた。ここには二百年以上使われていてもおかしくないものばかりが揃っている。とにかく古式なキッチンで、最新式のコンロやオーブンが設置されているわけではないが慣れてしまえば使い勝手は悪くない。

 キッチンから続くダイニングルームもまた高級感の漂う落ち着いた空間である。部屋の中心には、足や縁に繊細な装飾が施された円形のダイニングテーブルが置かれている。五人分の椅子は、かつてここが一家団欒の場になっていた時代を偲ばせる。

半円形の出窓から差しこむ朝日が窓際のグランドピアノに反射している。ピアノは先代の妻の遺品だ。彼女が亡くなってからは誰もピアノに触るものはなかったため、調律されぬまま大きな置物となっていた。

 壁際にどっしりと腰を下ろしているのは横幅が二メートル近くもある食器棚である。正面はなだらかな曲線を描く栗色の木目を生かして蔓植物を思わせる彫刻が彫られている。横面の低い位置には高級家具には似つかない花柄のシールが貼られているが、これは幼い頃のヴァニアが貼ったものだという。食器棚のなかにはワイングラスやティータイム用のカップとソーサーが宝石のように飾られている。


 ソレッラは二人分の卵をフライパンに割って落とした。焼き上がった目玉焼きとサラダを木製のプレートに乗せ、隣にこんがりときつね色のトーストを置く。出来立てのトーストにすかさずバターを塗り、その上からハチミツをかける。トーストの熱で溶かされたバターとハチミツが混ざり合い、立ち上った湯気から甘いにおいを漂わせた。

 ヨーグルトをガラスの器に盛っていると、廊下から可愛らしい足音が聞こえてきた。


「おはよう、ソレッラ」


 朝の温かい光を背負って、ヴァニアがダイニングルームにひょっこりと顔を覗かせる。母親譲りの黒髪をふわりと揺らし、嬉しそうに頬を染めた。


「おはようございます、カポ。出来立てのにおいに誘われましたか?」

「ふふ、そうよ。ソレッラの手料理を食べ損ねるわけにはいかないもの」


 ヴァニアは静かな笑顔をソレッラに向けながら食卓についた。「においに誘われた」というものの、実際はヴァニアの起きる時間に合わせてソレッラが朝食を準備している。

 ヴァニアは案外おどけたやりとりが好きらしい。ソレッラが調子よく話しかけると、いつも嬉しそうに応えてくれた。

 ヴァニア・ヴェントリーニ――弱冠十五歳の少女が現在、ヴェントリーニ・ファミリーの首領カポである。


「今日のトーストにはなにが乗っているの? ハチミツかしら、甘いにおいがするわ」首をかしげたヴァニアに、ソレッラは頷いた。

「その通りです。ハチミツトーストと目玉焼き、それからオニオンサラダ。ミニトマトを添えました。デザートはヨーグルトです」


 プレートをテーブルの普段通りの位置、普段通りの向きに置く。ヨーグルトの器を置くのもプレートの左側の定位置である。


「わかったわ。ありがとう」


 ヴァニアは自分だけでテーブルを撫で、プレートと器の位置を確かめた。その後納得した表情でフォークを取り上げ、サラダを口に運び始めた。

 こうして毎朝決まった位置にプレートを置くたび、ソレッラは初めてともに過ごした日のことを思い出す。

 初めてヴァニアに近づいたのは彼女の父親――先代のカポ、ロッコ・ヴェントリーニが襲撃されたときだ。ファミリー幹部の裏切りにより父親が殺されたとき、ヴァニアはまだ十二歳だった。裏切者の放った刺客からヴァニアを守るため、逃避行を続けた日々は今も記憶に新しい。


 ヴァニアが食事を始めてから、ソレッラも自分のプレートをテーブルに運び正面の席に着いた。熱いエスプレッソを口に含みながらヴァニアを見守る。

 ヴァニアは生まれつき目が見えない。とはいえサラダをすくい目玉焼きを切り分けては、その小ぶりな唇へと運んでいく様子はハンディキャップを感じさせない。彼女の両親が、愛情と教育を惜しみなく注いだ証だ。

 常に閉じられた瞼の、美しく長いまつげが朝日に艶めく。しかしよく見ると、その瞼は赤く腫れぼったかった。

 ソレッラの眉尻が微かに下がる。

 昨夜の事件の後、アドルフォたちの死を知らされたヴァニアはすぐさま全組員を招集し事の経緯を説明した。蝋燭だけが灯される真夜中の小堂では泣き崩れる部下たちに順番に声を掛け背中を撫でていたヴァニアだが、その場では一滴の涙も流していなかった。

 少女が泣いたのは明け方。寝室でソレッラにしがみつき、声を押し殺して泣いた。三年前に出会った時から人前で涙を見せようとしない娘だった。


「今日の朝食も美味しいわ。ソレッラは料理が上手ね」


 ヴァニアは一旦フォークを置くと、満足げな表情でナフキンを取り上げて口元を拭いた。


「もったいないお言葉です」

「私は本心を口にしているだけよ、ファミリーのお姉様(ソレッラ)。あなたはなにをするにも私のことを考えてくれているわ」


 ヴァニアは上品な所作でトーストをつまみ上げた。


「それはこのトーストひとつとってもわかるわ。私が起きるタイミングを見計って朝食を作ってくれているから、私は出来立てあつあつの、一番美味しいトーストを食べることができるの」


 ヴァニアは穏やかに微笑み、トーストを口に運んだ。

 信じて慕われているのを実感し、ソレッラは思わず胸に手を当てる。それは確かな喜びではあるが、同時に痛みでもあった。ヴァニアに光を感じるほど、ソレッラは自分の醜さを自覚せざるを得なくなる。

 吸血鬼とは存在自体が毒なのだ。美しい花を踏みつぶしながら生きる存在であった。

 吸血鬼が人間とともに暮らしているのは「契約」を行い、生殖の代わりに命を繋ぐためである。吸血鬼は人間のように他個体との遺伝子交換による生殖ができない。もちろん、分裂増殖することも不可能である。ただひとつ、血の力を受け継がせることだけが次世代に命を繋ぐ方法なのだ。契約が成立すれば吸血鬼は人間の血を摂取し、代わりに己の血を人間へと注ぐ。そうして人間の身体を、将来己の魂を受け入れる器として作り変える。その代わり、吸血鬼は契約者の望みを叶える。

 六世紀の間、ソレッラは契約者と器の直系の血族に従うことでヴェントリーニ家を支えてきた。いつしか一家がマフィアと呼ばれるようになってからは、ファミリーに力を貸すことで器を得るという一種の共生関係を築いた。だがそれも結局ヴァニアの父親の代で白紙になった。

 今はソレッラの器となった少女・クレーリアへの義理として「ヴァニアが生きている限り仕え続ける」という契約が生きている。そのため、ソレッラは現在ヴァニアとともに過ごしているが、契約が履行された後の予定は依然として真っ白なままだった。

 クレーリアと契約して十五年がたつ。ソレッラが覗きこむ鏡のなかには、成長したクレーリアがいる。


 ――正義とは、仁義とは、なにを指すのだろう。


 昔のソレッラは「契約」という義理を立てることしか知らなかった。今、ソレッラの心でとぐろを巻く蛇は吸血鬼という生き方を否定する毒を注ぎ込んでいる。人間に寄生する生物である限り、吸血鬼と人間は殺し殺される関係にしかなれないのではないか。

 ソレッラは静かにこめかみを押さえた。こんな疑問を持つこと自体、吸血鬼であることへの反逆なのかもしれない。結局のところ、一人で生きて一人で死ぬのが吸血鬼のあり方なのだ。

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