第6話 捨てられたバラの花束⑥
女吸血鬼はまだ死んでいなかった。先程と同じ建物の下で、ぐったりと腕を伸ばして倒れたままだった。
「あら、戻ってきたのぉ? このまま捨てられるかと思っちゃった」
女が力なく笑う。車を降りたソレッラはなにも応えず、女に近づいた。
たとえ相手が吸血鬼でも人間と同様、血を取り込めば操れる。反抗を封じておいて、懇意にしているヤブ医者のところへ連れていくつもりだった。ひとまず鉛を解毒し、「もう一人」についての情報を聞き出す必要がある。運がよければ人質としても利用できるかもしれない。ソレッラは女の髪を無造作に掴んだ。
「なにするのよぉ」
女が呻く。ソレッラは黙ったまま女の頭を引き寄せた。女は眼球だけを動かしてソレッラの動きを観察している。女の顔に呆れた色が浮かんだ。
「あたしの血を吸うつもりなの? 吸血鬼同士でしたって意味がないしまずいだけよぉ。 ボフミラとやってみたときだって二人して吐いちゃったし……」
「ボフミラ、とは?」
ソレッラは手を止めて尋ねた。忽然と現れた手掛かりに、胸の奥が熱くなる。すると、驚いたことに女は高々と腕を上げ、屋根の上を指さした。
「ほら、あそこよぉ」
ソレッラは振り向き見上げた。ハッタリなどではなく、確かにソレッラが背にしている建物の屋根の上に何者かの気配を感じたのだ。
だが、女が指さした人物はすでに屋根の上にはいなかった。ソレッラの目には、二階建ての屋根から飛び降り背後に迫る女が映っていた。迫りくる女の手には拳銃が握られている。
ソレッラは舌打ちして短機関銃を構えようとした。しかし、銃を取りだすよりも早く、背中に拳銃が突きつけられる。
「動くな。手を上げろ」
絞り出すような声が聞こえた。ソレッラは銃を捨ててしぶしぶ両手を上げ、「ボフミラ」と呼ばれた女のほうを振り返る。
眼鏡の向こうから覗く、大きな瞳が印象的な少女だった。背丈はソレッラより三十センチほど小さく、年は中学生くらいに思われる。とはいえ、研究者然としたいでたちは彼女が成人していることを物語っていた。コートがわりに真っ白な白衣を羽織り、タイトスカートの下からは寒さをいとわず素足を晒していた。まっとうな食事をしていないのか、手も足も捻れば簡単に折れてしまいそうなほど細い。
だが、この新たな人物も一筋縄ではいかない。彼女もまた吸血鬼だ――例のアタッシュケースを持っていることから、彼女こそが部下たちを殺した張本人であることは明白だった。
「ボフちゃん、来てくれたのねぇ。誘っても興味なさそうだったのに~」
倒れている女は心底安心したような笑みを浮かべながら、ボフミラに語り掛ける。
「モニカ、おまえは危なっかしくてかなわん。念のため来てみたらこのざまだ。僕が心変わりしたことを感謝したまえ」
ボフミラはいらついた口調でいった。しかし同時に、どこかほっとしたような表情を浮かべている。
ソレッラは二人の吸血鬼――モニカとボフミラをじっくりと観察した。死にかかっているモニカという吸血鬼は捨ておくとしても、新しく現れたボフミラは万全の状態でソレッラに銃を向けている。対してソレッラは疲労もある上に右腕が使えない状態だ。
分が悪いと早々に判断し、ソレッラは身体を捻った。ボフミラの腕に回し蹴りをお見舞いし、拳銃の射程範囲から逃れる。ソレッラの蹴りによって大きく逸れた銃口から弾が飛び出すが、見当違いのほうへと飛んでいく。
ソレッラはその隙に短機関銃を拾い上げた。追おうとするボフミラに向けてけん制のために数発発砲する。銃弾はアタッシュケースの錠に当たって蓋が跳ねて開いた。なかから五センチほどの小瓶が幾本も飛び出し、石畳に転がる。小瓶のなかは赤い液体で満たされていた。
取引の確固たる証拠品である。なかを調べられれば悪事の目的がわかるかもしれない。ソレッラは手を伸ばす。しかしより早く体勢を整えたボフミラが立ちふさがった。拳銃の銃口が目の前に突き出される。
ソレッラは歯を食いしばって身体を低く構え、ボフミラにタックルを食らわせた。ボフミラが一、二歩よろめいた一瞬の隙に短機関銃を拾う。せめて小瓶を一つでも手に入れたかったが、敵はそれを許してくれそうにない。
「命は預けますッ」
ソレッラは潔く諦めて言い放つと愛車に飛び乗った。黒い車体に赤いラインが映えるアバルトを急発進させ、ヴァニアのもとに着くまでアクセルを踏み続けたのだった。二人の吸血鬼は追ってこなかった。
翌日、ソレッラは再び現場に赴いた。閉鎖されていたパブ・ガッビアーノ周辺に侵入し、その場の警官・監察医を操る。滞りなく目的の死体を回収。後日アドルフォ・ヴェルニッツィ以下五名の構成員の葬儀が執り行われた。
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