第5話 捨てられたバラの花束⑤

 数十秒も経たずにガッビアーノに着いたときには、銃声は止んでいた。店の前に停まるファミリーの車には誰も乗っていない。積み込まれたはずのリッチの死体とアタッシュケースも見当たらなかった。


 ソレッラは短機関銃をすぐに撃てるように構えつつ、外壁に弾痕が残る建物のなかへ足を踏み入れる。銃を持っているというより、手に接着剤でくっつけている感じがする。力が入りすぎているのだ。店内の静けさが心胆を寒からしめ、背中を伝う汗が体温を奪う。


 店内には夜の闇が忍び込んでいた。壁紙には無数の小さな穴が開いており、穴の底から深淵が覗いている。天井付近に一列に並んだ電灯はランプを模したものだったが、ガラス部分が粉々に砕け見る影もない。


 ソレッラが下調べをしたときには、カウンターの向こう側には壁に沿ってワインやウォッカ、ウイスキー、シロップなど多種多様なボトルが並んでいた。それはまるで図書館に収蔵された本のように雑然とした美しさがあったが、どのボトルも壁紙のものと同じ大きさの穴が開いていた。上部が完全に破壊されているものもあれば、ひび割れた程度で済んではいるものの、なかの酒が小さな滝のように滴っているものもあった。


 ただひとつ、バーカウンターに無傷で乗ったままのワイングラスが数十秒前の光景を留めていた。


 足を踏み出すたび、床に散らばったガラスの破片がピリリと音をたてる。そのたびに咄嗟に銃口を向け、誰もいないとわかるとため息をついた。


 店内を一巡したが、結局部下たちの姿は見当たらなかった。床や壁には小さな血痕が付着している。底知れぬ不安が杞憂にすぎないことを祈る。


 銃を構えたまま目を凝らして店内を見回していると、酒類が並ぶ棚で死角となっている場所に小ぶりなドアノブらしきものがチラリと見えた。疑いが確信に変わる。間違いなく、ここになにかがあるはずだ。


 なるべく音を立てないよう慎重にバーカウンターを飛び越え、扉に接近する。扉と壁との間にほとんど隙間はなく、その上まったく同じ壁紙が貼られている。昔からマフィアが跋扈する土地柄だからか、客に余計なものを見せたくないという意図なのかはわからない。が、とにかく目立つことのないよう意図して設計されたものだろう。


 ソレッラは扉にそっと耳を近づけ、内部の気配を伺った。どんな些細な音も聞き逃さないように一分ばかりそうしていたが、相変わらずなかはしんと静まり返っていた。誰もいないことを確信し、ノブそっと回して扉を開ける。


 半分ほど開いた扉の隙間から、湿った空気と異臭が流れ出した。うっかり吸いこんだソレッラは思わず後ずさる。おびただしい血と肉のにおいが吸血鬼の鋭い嗅覚を襲った。咄嗟に袖で鼻と口を抑える。


 呼吸を整えたソレッラが再び覗きこもうとしたとき、扉の縁に青白い指が掛かった。指は手へ、手は腕へと徐々に扉の外へ出てくる。ソレッラは眉をしかめ、バーカウンターを飛び越え扉から離れた。扉が泣くような声をあげて軋むと、その衝撃で蝶番が跳ね飛んで床へ落下する。


 目の前に立ちはだかった人物を見てソレッラは愕然とした。扉から出てきたのは、胸の中央を鮮血で染め上げられたアドルフォだった。


 死因は間違いなく外傷によるものであり、鋭利な凶器で胸を一突きされている。大きな傷だ。間違いなく死んでいる。が、アドルフォは虚ろな瞳をぎょろりと動かしてソレッラを見据えた。


 部屋を出たアドルフォに続いて他の部下たちが現れた。彼らも胸や首に大怪我を負い、即死したものと思われた。彼らはまるで獲物を見定めたように、左右に大きく揺れながらおぼつかない足取りで歩み寄ってくる。部下たちが出てきた扉の隙間から、機会を窺うようにリッチが顔を覗かせた。


 ソレッラは戦慄し、後ずさった。さっきまで戦っていた女吸血鬼はすでに戦闘不能状態だった。だが、死体を動かすなど明らかに人間のできることではない。間違いなく吸血鬼のしわざだ。それはつまり、吸血鬼が「もう一人」いたことになる。


 ソレッラは腸が煮えくり返る思いで銃口をかつての仲間に向けた。


「……許せない」


 ソレッラは呟くと、短機関銃のトリガーを引いた。死者たちは獣のような唸り声をあげながら手足を振り上げ向かってくる。死者たちは正面からまともに銃弾の雨を受けた。死者たちは身体中に穴が開いても倒れなかったが、首と身体が切り離されると糸が切れた人形のように倒れた。そうして死者は一人、また一人と倒れていった。そうしてソレッラはすべての部下を殺した。


 ソレッラはリッチの死体にじっと見られているのに気づき、銃を放った。奥に引きこもろうと抵抗するリッチの頭を掴み、扉の外へと引きずり出す。彼は胸の前に三本のバラの花束と、真っ赤な包丁を大切そうに抱えていた。手とスーツについた血はまだ乾いていない。


 ソレッラはリッチの腹部を蹴り上げた。バラの花弁が宙に舞い、手をすっぽ抜けた包丁が天井に突き刺さる。


「男の死体を操りアドルフォたちを襲ったわけですか。なるほど――」


 自身もまた他者を操る能力を持っているからこそ、この吸血鬼のしたことはある程度予想がつく。おそらく彼らは恐怖を掻き立てられ、混乱の内に殺されていったのだろう。


「合理的ですね、そしてとても……厭らしい」


 よろめくリッチの頬を拳で殴り、壁際に追い詰めて首を絞め上げる。それでもバラの花束を持つ手を離そうとしない死体に、ソレッラは自身の苛立ちを自覚した。


 首を絞める手にさらに力が込もる。死体の皮膚が破れて肉が潰れる。自らの手で人を殺めたのは、ファミリーの吸血鬼として先々代のカポに暗殺の命を受けて以来のことだった。数十年前の生々しい感触が蘇る。


 男の声帯から漏れ出るうめきを無視して力を加え続ける。やがて手のなかで骨が砕け、リッチの頭がボールのように転がった。その傍には花束が音もなく落ちていた。


 ハンカチを取り出すと、カポからの贈り物の手袋についた肉片を拭い取る。自分以外生きるもののない店内でしばらく、ソレッラは目を瞑っていた。


 目を開けると、やるべきことははっきりしていた。


 ――「もう一人」の吸血鬼を探そう。


 まずはカポへの報告と事後処理が必要だ。携帯を取り出し二言三言メッセージを入れると、ソレッラはガッビアーノを後にした。

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