第3話 捨てられたバラの花束③

 獣の叫び声のような悲鳴がソレッラの耳をつんざいた。短機関銃から次々と飛び出す空薬莢が女の胸や顔に灼熱の霰をお見舞いする。ときおり跳ね返った薬莢がソレッラの頬に当たり、焼かれるような痛みが走った。それでも歯を食いしばって銃を構え続ける。短機関銃は二十発の弾丸を吐き出して沈黙した。女がへたへたと座り込んだのを見ながら、すぐに新しい弾倉を装填する。


 女は震えながら顔を上げた。


「熱い、痛い……」


 女の額には大粒の汗が浮かんでいた。頬を紅潮させながら、肩を大きく上下させる。


「そんなに熱いもの、ふふ、食べられるわけないでしょ」


 再び銃口を向けられているのも厭わず、女は寂しそうに微笑んだ。女が右横腹を押さえる指の間から、鮮やかな血がぼたぼたと零れ落ちる。紫の双眸がソレッラを見据える。口元から涎が垂れる。それから、だしぬけに指を傷口に突っ込んだ。女の表情が苦悶に歪む。


 女は震えながら体内で指を動かし肉をかき混ぜる。ぐちゅぐちゅと挽き肉を混ぜるような音がして、血と肉が地面にぼとりと落ちた。肉片の間から血塗れた銃弾の欠片が地面に転がった。女は体内に留まっている弾をかきだしていた。


 やがて女は作業を終え、幽霊のように立ち上がった。乱暴にコートを脱ぎ捨てる。シャツのボタンを引きちぎって素肌を晒した。あばらが浮きあがる脇腹の上に、張りを失った乳房が垂れている。肝を冷やすソレッラの前で、女はとうとう下着を破り捨てた。


 女吸血鬼の胸元は完全に開き、上半身がすべて露出していた。しかし、それはただ女が狂ったのではなかった。胸の中心からへそを通るように一筋の線がスッと浮かび、左右にぱっくりと開いた。星明りの半月の下で、吸い込まれそうなほど暗い裂け目が女の胸に咲いている。


 いったいなにをしようとしているのか――女の振る舞いはソレッラの想像の域を超える。いやな汗が背中を流れ落ちた。


「なにをしようとしている」


 ソレッラは声を絞り出した。


「それは君の身体で確かめて……?」


 女は不敵な笑みを浮かべた。胸に空いた空洞の縁が波打つように動き、なかから黒い触手が飛び出した。束になったり別れたり滑らかに動く様子は、メデューサの頭の蛇のようだ。涎のように滴る粘液からは胃酸に似たにおいが漂う。ソレッラはつい顔をしかめた。


 長く伸びた触手はソレッラを左右から取り囲もうとした。すかさず後ろに飛びのく。この女に一ミリたりとも近づきたくない一心でトリガーを引いたせいか、力が入りすぎて指先が痛い。着弾した触手が破裂するたび酸いにおいに嗅覚を襲われる。ソレッラはいっそ消臭剤を投げつけたい気分に駆られた。


 女は新しい銃痕ができるのも構わず、弾幕を触手で防ぎながらじりじりとソレッラに近づいてきた。多数の銃弾に貫かれて使い物にならなくなった触手がトカゲの尻尾のように自ら女の身体を離れていく。触手は地面に落ちた後もしばらく跳ね回っていた。


 女の攻撃はキリがない。このままではじきに弾が切れる。ソレッラは射撃をやめ、短機関銃を背負い駆け出した。獲物を逃さないとばかりに女が後に続く。


 触手の追撃をかわし、ソレッラは上へ下へと舞い踊った。着地と同時に加速して抜け出し、ガッビアーノから少しずつ遠ざかる。銃声は辺り一帯に響いているはずだが、外に出ている者はいない。住人ならず者の闘争に慣れているのか。なんにせよ、ソレッラには好都合だった。


 今ある武器、地理、自分と仲間の状況を脳裏に描く。部下たちに協力を求めるのが上策とは思えない。彼らはファミリーにとって貴重な人材であるし、吸血鬼は本質的に危険な存在なのだ。過去には吸血鬼一人捕まえるのに軍隊が出動したという事例もある。餅は餅屋。吸血鬼が相手ならば、ソレッラが対処すべきだろう。


 だとすればどうするか。


 ソレッラは建物と建物との距離が近い場所を見つけて駆け寄った。地面を蹴って飛び上がると、右、左、右、と壁に飛び移りながら上を目指す。最後のジャンプで視界が開け、屋根に飛び乗った。


 下を覗くと、女もまたソレッラを見返してせせら笑った。腹部の触手が建物の壁に沿って上へ這ってくる。まるで重いかま首をもたげる蛇のようにゆったりと構えた状態で屋根に到達した。瓦を探るように這いずり回り、風見鶏を発見して巻きつく。女はピンと張った触手を命綱代わりにして屋根の上に降り立った。


 ソレッラは隣家の屋根へ逃れつつ夜の街を見回す。この地区に二階建てより高い建物はあまりない。同じ高さの屋根が遠くまで並び、その向こうにある広々とした闇は海だろう。星の光を遮るのは空に向かって伸びる塔のみである。塔のてっぺんには背景の北斗七星を貫くように十字架が掲げられていた。


 女吸血鬼の紫の瞳が星のように瞬く。彼女の表情は煌々と輝いていた。ついさっき短機関銃の全弾を浴びたとは信じられない体力だった。ソレッラが撃った脇腹の傷はすでに血が止まっている。


「そろそろ味見くらいさせてよぉ。ご馳走を前にしてお預けなんてできないわぁ」


 女は舌なめずりをした。触手を腹に収めたが、腹部からはなお酸いにおいが流れ出ている。空洞の奥に蠢く触手の影が垣間見えた。まるでソレッラが飛び込んでくるのを今か今かと待っているようだ。


「断固お断りします」


 ソレッラはきっぱり答えると腰のポーチに手を伸ばした。密かに特製の手榴弾を隠し持つ。手榴弾は対吸血鬼用にカスタムしたものだった。不測の事態に備えて常に身に着けているものだが、まさか使うことになるとは思わなかった。おかげで一つしかない。敵の動きを注視しつつタイミングを計る。


「なら、無理矢理にでもいただいちゃうしかないわねぇ!」


 嘲笑する女の影が伸びる。触手が腹から投網のように広がり、ソレッラへと覆いかぶさろうとする。ソレッラは網が落ちる前に伏せて逃れ、手榴弾のピンを抜いた。


 触手では捕えきれぬと見るや、女は外に出していた触手を一斉に切り離した。触手は鳥に啄まれた芋虫のようにもがきながら屋根の斜面を転がり落ちていく。身軽になった女は正面から一直線に駆けてきた。


 腹の穴から跳ね飛んだ粘液が足下の瓦を濡らす。女はソレッラの間合いに駆け込み肉薄した。高速の貫手が頬を掠める。ソレッラは距離をとろうと後ろへ跳んだ。そのとき、踵が柔らかいものに引っかかった。


 女の腹から触手が一本だけ垂れ下がっていた。すべて切り離した――と見せかけて、ソレッラの足元から妨害の機会を虎視眈々と狙っていたのだ。速度を殺されたソレッラは倒れかかった。受け身をとろうとするも、上から肩を押さえつけられ無様に転んだ。


「いっただきます……」


 薄ら笑いを浮かべた女の熱い吐息がまぶたにかかった。底知れぬ闇がソレッラを食いつくそうと口を開き、触手たちが待ってましたとばかりに這いだしてきた。触手の先から吹きだした粘液が服にかかり、身体を舐めるように濡らしていく。ジャケットも、パンツも、手袋もどろどろに侵され、強烈なにおいが染み込んでいった。


 ――手袋はもう使えないかもしれない……。


 ふつふつと怒りが込み上げてくる。ソレッラは右手を振り上げ、握っていた掌サイズの手榴弾を力いっぱい投げた。泥のような色とパイナップルのような形状が特徴的な爆弾が女の闇のなかに吸いこまれていく。その後、木を打ったような乾いた音が聞こえた。


 驚いて身を引いた女の下腹部を蹴り飛ばし、全速力で駆ける。屋根からの端を蹴って宙に身を躍らせた。屋根の上に取り残された女はソレッラを追おうとして――直後、くぐもった爆発音が聞こえた。

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