第2話
薄暗い森の中を、少女は歩いていた。
「うぅ……遅くなっちゃったかなぁ」
リミアは不安気に呟いた。
時刻は夕刻。
すでに日が落ちようとしている。
森は村からさほど遠くはないとはいえ、村からたどり着くには時間がかかる。
早く村に戻らなくてはならない。
少女の腰には簡易なポシェットが取り付けられていた。
その中に入っているのは、採取した薬草の数々だ。
森には多くの種類の薬草が生えている。
中には希少な種類のものもあり、クレア村ではそれを材料として作った薬などを製造したりもしている。
「早く持って帰らないとなぁ」
それに、あの怪我をしていた旅人にも、ひょっとしたら採取した薬草が役にたつかもしれない。
そう思ってもと来た道を引き返そうとしたその時。
『シャアア……』
「っ!」
なにかの唸り声が聞こえた。
聞いたこともない唸り声。
咄嗟に周りの木の陰に身を隠し、声の方を確認する。
「……っ!」
そこにいたのは、醜悪な生物だった。
歪な四本の脚に、人のような上半身は紅い皮膚に包まれている。
顔の半分を大きな一つの目玉が占めており、頭には鋭利に尖った角が生えていた。
大きさは二メートルほど。
おそらく中型級と言われるものだろう。
リミアを恐怖させる怪物が、そこにはいた。
(ま、まさかあれが魔獣……!?でもまだ"その時期"じゃないはず……!)
リミアは父であるナケルから聞いたことがあった。
元王国兵である父は自分が知らないことを多く知っていた。
魔獣には出現の時期があると。
魔獣には一定の生まれ出る時期があり、その時期は大方把握されているらしい。
基本その時期を過ぎてしまえばそれ以降は再び出現するまでの期間が生まれる。
今がその安全期間のはずなのだ。
既に前回出現した魔獣は『王国兵団』によって残らず討伐されているはずだ。
この森に出現する魔獣は確か一種類だけ。
危険な魔獣が現れると聞いていたが出現するにしてもまだ数ヶ月の期間があると言っていた。
それなのに何故。
(とにかく逃げなきゃ……!)
見つかったらもう自分は助からないだろう。
魔獣の身体能力は通常、人間の身体能力を大きく凌駕すると聞いている。
王国兵でもない自分が抵抗しても、無意味に終わるだろう。
魔獣についての詳細は聞いていないが、どうやら近くにいるあの一体だけのようだ。
慎重に行動すればきっと見つからずに逃げ切れる。
魔獣の動きに注意しながら、周囲を警戒する。
そして木の陰に隠れながらゆっくりと元来た方向へ進んでいく。
(おねがい、気づかないで……!)
心の中でそう願いながら足音に注意して歩みを進める。
走っては駄目だ。
落ち着いて、冷静に行動しなければ見つかる。
見つかったらきっと逃げ切ることはできない。
そうして徐々に歩みを進めることしばらく。
やがて魔獣の姿は完全に見えなくなる。
(逃げられ、た?)
僅かに安堵が生まれる。
どうやら、無事に逃げられたようだ。
周りを見ると先程よりさらに暗くなり、夜が近づいている。
暗闇で目が効かなくなれば状況はさらに悪化するだろう。
リミアは森を早く抜け出すため駆け出そうとする。
「……っっ!」
だが。
ぞくっと、急激な寒気を感じた。
自分でも理解できない一瞬。
周りの時間の流れが緩慢になったような気がした。
訳もなく、自身の左側に視線を送ると。
すぐそこにある、巨大な一つの目と、目があった。
「き、きゃあああああああああああああああ
あっ!」
気づけばリミアは叫び声をあげ、走り出していた。
見つかった。
見つかってしまった。
何故。
何故何故何故。
確かにさっきの魔獣からは距離をとったはずなのに。
パニックになりかけながら、必死に走りる少女の脳裏に浮かぶ考え。
——魔獣は一体ではない。
リミアはその考えに辿り着く。
だが今更わかったところで、もう遅い。
(逃げなきゃっ!逃げなきゃっ!逃げなきゃっ!!)
リミアは走る。
もう逃げるしかない。
逃げられないと思っていても、ただその場でじっとすることなどできるわけがない。
恐怖を瞳に宿しながらリミアは背後を振り向く。
ひょっとしたら自分を見失ったのでは。
そんな現実逃避にも似た甘い考えは即座に打ち砕かれた。
「っ!」
魔獣はリミアを追ってきていた。
四本の脚で、巨大な眼球で、リミアを捉えて離さない。
『シャアアアッ!』
怪物が口を開きながら雄叫びをあげる。
その口にら鋭利な歯が、びっしりと生えていた。
両腕を前に突き出しリミアをその巨大な掌で捕まえようとする。
あっという間に怪物との距離が詰められていく。
リミアは既に自分が進んでいる方向を見失っていた。
ただひたすらに逃げようとがむしゃらに走っている。
もう、帰る方向がわからない。
仮にここを乗り切っても——もう、助からないかもしれない。
息を切らしながら、それでも彼女は大きく息を吸い込んだ。
「だっ誰か助けてええええっっ!」
リミアは必死に叫ぶ。
誰かに助けを求めたかった。
例え誰にも聞こえていないとわかっていたとしても。
ここは森の中だ。
ましてやこの時間に周囲に人がいるとは思えない。
それに仮に人がいたとして、今すぐここに駆けつけて来てくれるなど、あまりにも都合がいい話だ。
魔獣は既に振り切れないほどに近づいていた。
あと数歩の距離。
もう、死がすぐそこまで迫っている。
「あっ——!」
リミアは不意に足を取られた。
背後の魔獣に集中するあまり前方に対する注意が欠けていた。
そのままバランスを崩し、地面に倒れる。
ようやく動きを止めた獲物に魔獣は跳躍し、飛びかかった。
仰向けになるリミアの瞳に怪物の姿が映った。
死ぬ。
あと数秒で、自分は——。
リミアは恐怖のあまり、ギュッと目を瞑った。
(誰かっ——!)
最後まで助けを願い続けて。
怪物がその拳を少女に振り上げ、命を刈り取ろうとしたその瞬間。
——正面から大きな衝撃音が鳴り響いた。
「…………?」
おそるおそる目を開けるとそこには。
(た、盾!?)
彼女の目の前には光り輝く"障壁"が張られていた。
見れば半透明に透けている障壁を隔てて、自分を追いかけてきた中型の怪物がのたうちまわっている。
先程の衝撃音は魔獣がこの光の盾に衝突した音だと理解した。
「——無事?」
そして。
声が、聞こえた。
人の声だ。
幻聴ではない、確かにはっきりとその声は響いた。
声のする方、上空から一人の人影が現れる。
「あ、あなたは……!」
目の前に現れたのは黒髪の青年。
傷だらけで倒れていたはずの青年。
何故この人がここに?
そんな疑問は今はどうでもよかった。
「ま、魔獣が!」
魔獣は再び体勢を立て直し、こちらに敵意を向ける。
『キシャアアアア!』
再び飛びかかろうとする魔獣、ガドロゲス。
魔獣がこちらに攻撃を仕掛けるより僅かに速く、青年は右手を魔獣に向かって掲げる。
「【ファルザ】」
そして一声。
すると一瞬で青年の正面から光り輝く光線が発射される。
『シャア、ァ……!?』
数秒も立たないその一瞬で、魔獣の胴体には風穴が空いていた。
そして僅かに呻いた後、絶命する。
「…………!」
いきなりの出来事にリミアは絶句する。
何が起こったのか理解できなかった。
武器らしき得物を持っていない青年が魔獣の胴体に風穴を開けた。
ただわかるのはそれだけだった。
まさか、と。
ある単語が脳裏を過る。
——魔法。
魔導の力を操り、己の意のままに制御する力。
聞いたことがあった。
そのような不思議な力を操るものが世の中にはいるのだと。
リミアはその力を始めて目撃した。
「さて、無事で良かったよ。……ちょっと危なかったけど」
「あなたは、一体……」
「説明は後だ。オレは魔獣の親玉を倒しに行く。ここは危険だ。ついてくるか?」
「……は、はい!」
「よしわかった」
ライクはリミアを抱き上げ、地面から浮遊した。
中空へ舞い上がり、停止する。
リミアは逃げ回っているときは気がつかなかったが、耳を澄ませば僅かに破壊音が聞こえた。
青年は音のする方に向かって飛行する。
何故だろう。
青年が向かおうとしているのはさっきの怪物の親玉。
つまりより危険な場所に足を運ぶということ。
これからさらに危険な場所に向かうというのに。
リミアは青年に抱きかかえられながら謎の安心感を感じていた。
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