第36話 自分勝手な夢とうちの子にと
翌日から部屋にいるしかない私は課題のプリントを一枚ずつ片付けていくことにした。
ちゃんと授業は受けていたし毬乃と一緒に勉強もしたから難しいことは無くて午後には全部終わってしまった。
図書室で本を読んでいて部屋にある本はみんな何度も読んでしまっているから見る気もしない。
手持ちブタさんになってしまって私は椅子に座って、ぼーっと外を眺めていた。
それでも考えるのは毬乃に何かしてあげられることは無いかってそればかり。
その日の夕方になって帰って来たお母さんから毬乃の話を聞いた。
薬が切れて目を開けても横になったままで、起して口元に運べば食事はする。
ただ、左手に触ろうとした時だけ左手を守るように身体を小さく丸めてしまう。
「大きな病院に移すべきなンじゃないかって話もある。でも、そうするには色々手続きの問題があるからねぇ」
話が終わってお母さんは頭をかいた。
「もう一つある。言って良いのか迷ってるンだ……」
「迷ってるって悪いことなの?」
今の話だって、いい話じゃない。お母さんが話すのにためらうなら悪い話しか無いのは分かっている。それでも私は質問する。
「あンたにとってはね。報告するって言ったから話す。毬乃ちゃンは、あンたの名前には反応する」
「…それのどこが悪いの? 反応ってあった方がいいんじゃないの?」
「そりゃあ、あった方が良いよ。専門家じゃないから詳しくは分からないけれど、部屋で大槻先生と話していて、あンたの名前が出たら――毬乃ちゃんが震えて身体を抱え込んじゃったんだよ。あれは怯えているンだと思う」
「なん…で…? 私、そんなに毬乃に嫌われちゃったの?」
立ち上がったお母さんはテーブルを回って、いつも毬乃が座っていた場所に座って私の頭を胸元に抱える。初めてうちに来て泣いた毬乃にそうしていたみたいに。
「これは、お母さンの勝手な想像。あたしは逆だと思う。何も無いって言ってたんだろう。毬乃ちゃンはちえに嫌われたって思っているンじゃないかな。傷つけたから、ちえも無くしたって。だから名前を聞くと嫌われたって思い出して怯えるンじゃないかって、お母さんは思う」
「…毬乃に嫌われてないといいな……」
毬乃に会いたい。顔を見るだけでもいいのに。
「明日、大槻先生に提案してみるよ。ちえと会わせたらどうかって」
「…いいの?」
私はお母さんに頭を抱えられたまま動かないで聞く。
「だって今でも好きなんだろう?」
「うん……大好き」
「伝えたら何か変わるかもしれない。もちろん、すぐには無理。だからまずは提案だけしてみる。大槻先生のOKが出たら連れて行く。それが首の傷が消える前だったら停学を覚悟しなって言ってもどうせ毬乃ちゃンを優先するのは分かっているしね」
停学の話は私も覚えていた。だから、いいのか聞いた。でも、お母さんは分かった上での話だった。
今だって家にいるのは強制なんだから停学で休む日が増えたって私は気にしない。
そんな会話をお母さんと話していても、私は毬乃が怖がっているかもしれないことを気にしていたんだと思う。
私は毬乃の夢を見た。自分に都合のいい夢。
ベッドに横たわる毬乃は眠っていて、声をかけても目を覚まさなかった。
私はおまじないをしようと顔を近づけて――毬乃の唇にそっとキスをした。
顔を離すと毬乃がパチっと目を開けて私を見る。
「寝てる時にキスしちゃだめじゃん。起きてる時にしてくんなくっちゃさー」
起き上がった毬乃にキスされそうになって恥ずかしくって拒むと
「いーじゃんかー。自分からしたくせにー」
なんて言われて二人して大きな声で笑う。
そんな夢だった。
目が覚めた私は泣いていた……
「ふっざけンな!!」
パジャマの裾で涙をぬぐっていると外でお母さんの怒鳴り声がした。
私は机の方に移動して窓から下の玄関の方を見る。
うちのと違う荷台の無い高そうな黒い車が止まっていて、背広を着た男の人がお母さんとお父さんの前に立っていた。
「これは一体、何のつもりですか?」
静かに話しているのにお父さんの声も怒っているように聞こえる。
「ですから前山様から誠意です。どうぞ、お受け取りください」
「ふざけンんなって言ってンだろう!」
お母さんは、封筒のようなものを背広の人の胸に押し付けた。
背広の人が手を出さなくてお母さんが手を離したから封筒は下に落ちた。ぼすんと辞書を落としたような重い音がした。
「誠意ってンなら、直接ここに来て頭の一つでも下げろ!
誰が金なンかいるか! 人と馬鹿にすンのもいい加減にしろ!
人様の娘を傷つけて金で誤魔化そうとする奴なンて最低だ!!」
落ちた封筒を拾った背広の人は、ぱたぱた叩いてホコリを払う。
「前山様は、お忙しい方です。ですので私が代理で来ております」
「それで、そのお忙しい前山様は娘の毬乃さんをどうするつもりですか?」
「現在、前山様が引き取るかどうかは検討中です。毬乃お嬢様には問題があり過ぎますので」
私はお母さんの頭の血管が切れた音を聞いたような気がした。
少なくともお母さんがものすごく怒ったことに間違いない。
そうじゃなければお父さんがお母さんを羽交い絞めにするなんて光景を見るはずがないから。
「あンたの雇い主に伝えな。うちは金が欲しくって毬乃ちゃンの面倒を見てンじゃないって。
あンたがいらないなら結構、毬乃ちゃンはうちの子にする」
「…分かりました。その旨、前山様にお伝えします。では、毬乃お嬢様のご様子が知りたいので、その診療所にご案内いただけますでしょうか」
「僕が、ご案内しましょう」
どうやったのか羽交い絞めにしていたお母さんの身体をくるっと器用に回して、お父さんは自分の方に向かせた。
「来るなら頭を冷やしてからにしてくれるかい。妻が傷害罪なんて僕は嫌だよ」
お父さんの方――こっちを向いたお母さんと目が合った。お母さんは驚いた顔をしてうつむいてしまった。
それを見たお父さんが首を捻ってから後ろを振り返って私を見て苦笑いをした。
見てはいけないものを見たのかもしれないから、私はそろそろと部屋に頭を引っ込めた。
ベッドに座って、こんな早い時間に来たんだと思って時計を見ると、もうお昼を回っていた。
学校に行かないから起されなかったのかな。起されないことよりもお昼まで寝ている自分にがっかり。
「何もしてないから、さぼり癖がついちゃったのかなぁ。がっくしー」
毬乃のまねをして声に出しながら肩を落とす。
「がっくしって、口に出すなンてあンたくらいだよ」
部屋の入り口に口元を押さえて笑いながらお母さんが立っていた。
「二人目。私は二人目なの。最初は毬乃が、がっくしーって言ったんだよ」
「ああ、毬乃ちゃンなら言いそうだ」
想像したのかお母さんは余計にお腹を押さえて笑い出した。
ひとしきり笑ったお母さんは、私の横に来てベッドに座る。
「ごめン。嫌な事を聞かせた。言い訳にしかならないけれど寝ていると思ったンだ。さっき起こしに来た時は幸せそうに寝ていたから」
私の方を見ないでお母さんは本棚の方を見ている。だから私も本棚を見ていた。
「聞かせちゃったから話す。
毬乃ちゃンをうちに引き取ろうって話がある。お父さンの提案。色々考えてお母さンも賛成した。
落ち着いたら、ちえにも話す予定だった。家族で考えようって話だったから
もちろん本人の気持ちを聞かなきゃいけないし、引き取ったら今までのような事はさせないけれどね」
今までみたいなことって、やっぱり触りあっていたことだよなぁって思っても口には出さない。
「まあ、仲の良い人達はみンなして、ちえのために良くないって反対している。心配してくれる気持ちは分かるし、みンな良い人なンだ。でもこういう時は正直うざい」
「お母さん、汚い言葉…」
ぽろっと出たお母さんの汚い言葉に横顔を見ると手で口を押さえている。
「お母さんはだめだなぁ……予感は当たったのに、結局何もできなかったよ」
予感って最初の毬乃と出かけるのを反対した時の事だろうか。
私を見て、にっと笑ったお母さんが抱きしめてくる。
抱きしめたまま深呼吸を繰り返すお母さんはまるで私の匂いをかいでいるみたいで居心地が悪い。
「よし!」
立ち上がったお母さんは自分の頬をぱんぱん叩いた。
「お父さんの所に行って来る。あのお抱え弁護士野郎の好きにさせてたまるかっての」
「…野郎も汚い言葉じゃないの?」
くすくす笑いながら私は元気なったお母さんに質問した。
「良いンだよ。あンないけ好かない奴は野郎で」
本当は良くないと思っているのかお母さんは口元を手で覆ってそっぽを向いている。
それがおかしくて私はもっと笑ってしまう。
「まぁ何にせよ、診療所に行って来るよ。お昼はリビングにあるから宜しく」
まだ笑っている私の頭を撫でて、お母さんは部屋を出て行った。
机の方の窓からオートバイで走り出すお母さんを見送る。
お母さんはともかく、私が分かるほどにお父さんが怒るなんて大丈夫なんだろうか。
問題が起きなきゃいいけれど……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます