第37話 大騒ぎと転院と

 嫌な予感ほど当たるって言ったのは誰だったろう。

 背広の人――弁護士の人のせいで毬乃が大槻先生の所にいるのがみんなに知られてしまった。


 毬乃が起してあげれば起きることを知って立たせてみたらしい。

 立ったから手を引っ張ったら歩いた。

 では車に乗せよう、と止める大槻先生を無視して待合室を通って玄関を出ようとしたら毬乃はしゃがみこんでしまった。

 持ち上げようとして身体に触れようとしたら、悲鳴を上げて暴れだして弁護士の人が手を離しても叫び続けていて診療所は大騒ぎになった。

 誰が近づいても暴れてお父さんでもだめで、遅れていったお母さんだけが毬乃に触れて抱きしめるとやっと悲鳴は止まった。

 弁護士の人はお父さんに診療所からつまみ出されて、いったん帰ったらしい。


 晩ご飯が終わって落ち着いてからのお母さんとお父さんの話をまとめるとそんな感じだった。

「あの馬鹿のせいで怪我だらけの毬乃ちゃンを見られちゃったし、居場所がばれちゃったからね。表立っては何も無いだろうけど、みんな興味津々だよ」

 昼間のようにお母さんが怒ったのは間違いない。今日は多めにビールの缶が開いていて、ほんのり頬が赤い。

 でも、それ以上にお父さんは怒っているのか、いつもよりもっと口数が少ない。それにお酒はお母さんと一緒に飲むのに今日は一口もお酒を飲んでいないし。

「大きな病院に転院する方が良いかもしれないな…」

 深くため息を吐いてお父さんはそう言った。

 大きい病院は、ずっと遠くにあるって聞いた。

 大槻先生が名医だから、わざわざ遠くまで行く必要がないのがこの村の良いところの一つとお母さんが言っていた。だから私は名前も場所も知らない。

「大槻先生は僕らに恩があるからって無理して下さっているけれど、今日の毬乃ちゃんの様子や環境からも転院した方が良いと思う」

「今日の毬乃ちゃンに拒否されたから、じゃなくてぇ?」

 ちょっと酔っているのかお母さんは頬杖をついてにやにやしながらお父さんを見る。

「そんなことで転院の話なんかしないよ。いやまあ確かに、そんなに好かれてないのかなぁってショックではあったけれど」

「お父さんは、男の人だもん。しょうがないよ」

 ショックだったんだぁと思って慰めてあげる。

「ありがとう、ちえ。お父さんはちえに好かれていれば十分だよ」

「ええぇ、お父さんきらぁい」

 ふざけて言おうとした私の言葉をお母さんが先に言ってしまう。

「ちえに好かれれば、あたしはいらないなんて。ひどぉい。離婚よぉ」

 絶対にお母さんは酔っている。今まで冗談でも離婚なんて言葉を聞いたことがない。

「もちろん、ちえはあたしと一緒……」

 話がぴたっと止まって、お母さんからは寝息しか聞こえない。

「ひどい酔い方だなぁ。珍しい」

「昼間も怒ってたし疲れたんじゃないかな。弁護士野郎とかうざいって汚い言葉を私の前で使うくらいだもん。反省はしてたけど」

 ちらっとお父さんの目が右側にいるお母さんを見る。

「ちえは、どう思う?」

「どうって毬乃を大きな病院にってこと? お母さんが手続きに問題があるって言ってたからできるのかなぁって。方法は良く分からないけど行けるなら毬乃は行った方がいいと思う」

 私が反対すると思ったのか、お父さんは驚いた顔をする。

「噂話が始まった頃に毬乃に言われたの。ちえがいなきゃこんな所にいたくない。こんなところ大嫌いって。だから離れられるなら離れた方がいいって思う」

「ここを出たら、毬乃ちゃんはもう戻って来ないと思うよ。それでも賛成するかい?」

「……お父さんのいじわる」

 すごく意地悪なことを聞く。

「そんなのいやに決まってるよ。

 今だって約束破って会いに行きたいの我慢してるのに……でも毬乃が良くなるなら…会えなくてもいい。

 毬乃がまた笑えるなら場所なんてどうでもいいの。

 私は毬乃が好きだから…幸せに……」

 我慢しようと思ったのにできなくて、毬乃がいなくなることを想像して私は泣いてしまう。

「うん、意地悪な質問だったな。ごめん。ちえの気持ちは良く分かった。

 明日、お母さんと話した後に大槻先生とも話してみる。

 お母さんの言う問題は、あの弁護士野郎を脅せばどうとでもできるさ」

「弁護士…やろう…脅すって…」

 お父さんまで汚い言葉を使うから泣いているのに笑い出して私は泣き笑いになってしまった。

「ああ、いけない。僕まで汚い言葉を使ってしまった。これは、お母さんに内緒」

 お父さんは人差し指を立てて口元を押さえ、私は親指と人差し指を左から右に動かしてお口チャック。

「娘と秘密を共有したところで、お母さんを寝かせてくるよ」

 私を持ち上げた時と同じようにお父さんは軽々とお母さんを抱え上げた。

 むにゃむにゃ言いながらお母さんはお父さんの頬にキスをする。一度見ているから平気――でもない。恥ずかしい。

「おっ、お父さんて力持ちだよね。ずっとお母さんの方が力持ちだと思ってた」

「お母さんは人や物を動かすコツ知っているだけでそんなに力は無いんだ。ご覧の通り、力は僕の方が強いよ。本気で喧嘩したら古武術をやっていたお母さんに絶対勝てないから、もう謝るしかないかな」

「古武術とか刺されたとか、うちって変な気がする」

「…駐在さんとの話が聞こえてた?」

 うなずくとお父さんは困った顔をした。

「そうか。うーん。その話は、ちえが結婚相手を連れて来たら話すつもりだったんだよなぁ。それくらいの覚悟があるかって。まっ、だから今はそれ以上は秘密だな」

 お母さんを抱っこしたお父さんはウインクしてリビング奥の自分の部屋に入っていった。


 結婚相手なんて言われても全然想像できない。

 毬乃が初恋なのに。

 初恋は実らないって書いてあったのはどの本だったかな。本当に実らなさそうで悲しい。あんな言葉知らなきゃ良かった。

「おやすみなさい」

 することの無くなった私は奥の部屋に声をかけてリビングから廊下に出た。

 明日はちゃんと起きなきゃ。起きてもすることが無いからどうしようかな。

 部屋に戻った私は、毬乃のことを考えて過ごして時間を見てベッドに入った。

 今日は眠っても夢は見なかった。



 何日かして毬乃の転院が決まった……

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