第34話 動かないともう…なにもない…と

 四辻を曲がって突き当たりの毬乃の家の前で車が止まる。

 まだ足のしびれは残っていても歩けた私は車を降りた。

 なんだか怖い気がして立ち止まるとお父さんが頭を撫でてくれる。

 お風呂も入っていなくてブラシもかけてないから髪のあっちこっちがはねている。

 そんなことを考えながら、私は玄関をノックした。


 待っても返事が無いからドアノブに手をかけると今回はくるっと回って扉が開く。

「おい、ちえ」

 後ろから聞こえるお父さんの声を無視して私は家の中に入った。

 扉が開いた途端に家の中から変な臭いがして胸騒ぎがしたから。


 靴を脱いで早足で突き当たりの毬乃の部屋に行き、ドアノブを見るとやっぱり鍵がかかっている。

 ドアノブについた細い突起をかっちんと回して扉を開けると口では表せない変な臭いがした。

 暗い部屋の奥のぺっちゃんこのベッドに壁を向いて毬乃が横たわっている。

「毬乃!」

 湿った床を走って乗った柔らかかったベッドは石のように硬い。固くて冷たい感触を足の裏に感じながら私は毬乃に近づいた。

「毬乃?!」

 呼んでも返事をしない毬乃は昨日のワンピースをまだ着ている。

 毬乃の様子を見ようと身体をこっちに向けて――私は悲鳴をあげそうになった。

 顔が腫れて左目は半分開いていても残りの半分も青くなって腫れている。鼻血だけじゃなくて頭にも乾いた血が付いていた。

「毬乃、私が分かる?」

 右目は開いているのに何も見えていないみたいだ。

「ちえだよ。毬乃、ねえ!」

 ぴくっと毬乃が動いた。

「お父さん! 毬乃が、毬乃が!」

 玄関に見えるお父さんを大きな声で呼ぶ。

 お父さんが玄関に入ってくると、ほとんど同時にリビングキッチンから毬乃のママがすごい怖い顔で飛び出して来た。

「どうやってここを嗅ぎつけたの! この○×△×!!」

 聞いたことの無い名前を叫んで走ってくる毬乃のママの手には包丁が握られている。

 私はベッドに座ったまま毬乃の前から動かない。包丁で刺されたら毬乃が死んじゃう。自分だって死ぬかもしれないのに私はそんなことも考えられないでいた。

 でも毬乃の部屋に入ってくる前にお父さんが間に合った。後ろから包丁を持った手をつかんで身体を押さえてくれた。

 ほっとしても私じゃ毬乃を運べない。

 お父さんが毬乃のママを外に連れ出すように後ずさっても私にはどうにもできない。

「ちえ!」

 玄関の方に下がっていくお父さんと毬乃のママの間をすり抜けてお母さんが入って来た。

「お母さん! 毬乃が話しかけても返事しないの」

「ちょっと、どいてて」

 素直に脇によけるとお母さんは毬乃の目を指で大きく開いたり口元に手を当てたりする。

「桔梗! もう出て大丈夫だ!!」

 外からお父さんの声にうなずいたお母さんは毬乃の身体をそっと起こして両手を自分の首に回した。

 それからお尻に手を回して毬乃をおんぶする。持ち上げられた毬乃からつんとしたにおいがした。


「危ないことをしないで下さい!」

 外に出るとお父さんが駐在さんに怒られていた。

「刃物が怖くないんですか?!」

「包丁の扱いには慣れていますし、前に刺された事があるんで刃物不感症かもしれませんね、はは」

 さっきの毬乃のママが怖くて姿を探すとパトカーの後ろの席に大人しく座っていた。ぼうっとした感じでさっきとはまるで別人。

 お母さんが毬乃を車に乗せて、私も追いかけて車に乗った。

「毬乃ちゃンを支えていて」

 反応のない毬乃の頭を私の肩の寄せて後ろから手を回して腰の辺りで身体を支える。

 明るい日の下で見る毬乃は、汚れていて顔だけじゃなくて腕にもあざがあった。

「泣くのは我慢して。今は毬乃ちゃンを大槻先生の所に連れて行くのが先」

 毬乃の姿に泣きそうだった私は唇を噛んでうつむく。

 うつむくと力の無い毬乃の左手だけが硬く握り閉められている。

 つめが食い込んで痛そうだから緩めてあげようと思って指に触ると余計に力が入ってしまった。

 握る指の間から見えたのはパステルグリーンの布だった。

「…か…な…」

 小さい声。ほとんど聞き取れない声で毬乃が呟いた。

「…も…ない。これ…か…ぜった…わたさ…ない」

 それっきり毬乃は何も言わなくなってしまった。

 私は我慢できなくて、もっと強く唇を噛んで声を出さないように泣いた。

 お母さんは何も言わずに運転していた。


 診療所の裏口から運び込まれた毬乃はレントゲンを撮ったり身体の状態を調べられたらしい。

 らしいと言うのは、お母さんから毬乃のために、と止められて一緒にいることができなかったから。

 裏の待合室と呼ばれるインフルエンザとかの人にうつる病気の患者さん用の待合室で1人、私は待っていた。


「お母さン、ちょっと家に行ってくる。毬乃ちゃンの着替えにちえの服を借りるから」

「うん。でも毬乃の方が胸が大きいから胸の緩い服にしてあげて」

 ちょっとむっとした顔をしてお母さんは裏の待合室から出て行った。

 触ったから知っているんじゃなくて毬乃に着替えを貸したから知ってるだけなのに。


 もっと早く相談すれば良かった。パークに行かなきゃ良かった。早く謝れば良かった。ああすれば、こうすれば良かったって後悔だけが頭の中でぐるぐるしている。

 泣いてしまって腕でぬぐっていたらこすりすぎて目の辺りが痛くなってきた。


 お母さんがトートバックを肩に戻って来て、そのまま診察室に消えた。

「ちえ」

 しばらくして診察室からお母さんが顔を出して手招きをする。

「毬乃ちゃンに会わせてあげる。でも絶対に騒がないこと。いいね?」

 うなずいた私は診察室を通り抜けて病室があるのに大槻先生のおうちに連れて行かれた。

 部屋の一つのベッドに寝かされて目を閉じた毬乃はあっちこっちに包帯が巻かれてシップが張ってあって右手に点滴をしていた。タオルケットの足に近い方からはチューブが出てベッドの下にたれてる。

 左目には大きなガーゼが張ってあった。

 お母さんに騒ぐなって言われていたけれど、毬乃のひどい姿に声も出なかった。

「今は薬で眠らせている。打撲が数箇所と肋骨を何本か骨折しているし栄養失調にもなりかかっている。何日か食べてなかったンだと思う」

「…毬乃は治るの…?」

 声を振り絞って聞くとお母さんは難しい顔をする。

「打撲と骨折はね。栄養も点滴で取れるからとりあえず心配ない。でもね左手が握ったまま開かないンだ。腱に異常は無いから心理的なものじゃないかって言うのが大槻先生の見解」

 点滴をしている毬乃の右腕は外に出ていて握られたままの左手はタオルケットの下に隠れて見えない。

「車の中であンたが左手に触ったら毬乃ちゃン、何か言っていたよね。何を言っていたの?」

 毬乃の言葉を思い出すだけで、また泣きそう。

「……もう、これしかないって。絶対渡さないって」

 普通に話したつもりでも自分で声が震えているのが分かる。

「渡さないって…握っているのなンて緑の……あっ」

「お母さんが想像してるとおりだと思う。昨日の毬乃はちょっとおかしくって…」

 私はスカートの中に手を入れられて毬乃を突き飛ばしたこと。その時にショーツのどこかが破れて毬乃がつかんでいて足に引っかかって転んだことも話した。そうしないと毬乃が手にしている理由の説明がつかないから。

「毬乃、私に謝ってたんだよ。それで手に持ってて先生に取られそうになって抵抗して…千切れたんだと思う……私、もっと早くお母さんに相談すれば良かった。毬乃が嫌がっても嫌われても、こんなことになるよりずっと良かったのに……」

「とりあえず話は分かった。送るから、一先ずちえは家に帰りな」

「でも、私…毬乃のそばにいたい。だめ?」

「いても何もできないよ。それとも、もう会うなって言って欲しいの?」

 お母さん達が話を聞いてくれたから毬乃はここにいる。それに何でも言うことを聞くって自分から言った。

 毬乃は大丈夫じゃなったけれど、ここにいればもう叩かれない。大人しく言うことを聞こう。


 でも、帰る前に――怒られてもいいや。

 私は早く元気になって欲しくて毬乃の頬に、おまじないをする。シップの上からだったから唇にシップの感触が残った。ちょっとひりひりする。

 驚いているお母さんを置いて私は来た道順の逆を通って車に戻った。

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