第6話 迫る影 二
一滴の汗が、首筋を伝い落ちる。
じりじりと焦燥が焼く背筋。
直たちはまだ、捕食者の前に縮こまる小動物も同然だった。
「尋ちゃん、どうしよう、また襲ってくるよ!」
一層強く直を抱きしめ、夏子は震える声を兄の背に投げかけた。
尋巳は化物を
「とにかく逃げるぞ。
「!? 尋兄、アレ、相手にする気?」
いくら何でも向こう見ず過ぎる。
非難の声を上げると、してたまるかと尋巳は片手を振った。
「アレ引き付けて、反対に降りる。 足の方は面倒やが、本体は鈍くさいやろ。 こっちに寄せたら、一気に引き離す。 その間にお前らは逃げ!」
とにかく立て、準備しろ。
それでも力の入りにくいまま、直は夏子の手を取って立ち上がった。
引き
その様は、まるで襲いかかるタイミングを見計らっているかのようだった。
「行けっ」
短く言い捨て、尋巳が化物へと走り出す。
化物の注意が尋巳へ向くのを確認しながら、直は夏子の手を取って転がるように走り出した。
「お兄ちゃんっ」と夏子が小さく悲鳴を上げるのに、心臓が
「(捕まらんといてよっ)」
無事を強く願いながら、直は駆けた。
社への石段が目の前へ迫る。
もう少しッ
『******!』
それは、澄んだ音の響きだった。
パキ、パキパキパキッ
「!!?」
勢いづいた体が、がくりと急ブレーキをかけたみたいに後ろへ引っ張られる。
「あっ」
夏子が声を上げて、直の方へ倒れ込んでくる。
そのまま二人、
何かに足を取られた。
またあの化物が……?
直は
瞬間、皮膚を刺すような冷感が刺激した。
動かない足。
それは透明な氷に捕らわれ、強固に地面に縫い止められていた。
「何、これ、何なん!?」
我を忘れたような夏子の悲鳴。
「夏!?」
妹の声に、化け物の足を避け続けていた尋巳が振り返った。
そこへ一瞬の隙ができる。
化物はそれを見逃さない。
尋巳が
背後から立ち止まった尋巳の足を払い、態勢を崩したところへ、揺らめいていた三本が襲いかかった。
みるみる間に、
太い足に幾重にも巻き上げられる尋巳に、直は声のない悲鳴を上げた。
助けなければ。
立ち上がろうともがくが、氷漬けの足に動きを阻まれ、地を
「(どうしよう、どうしよう)」
動揺が、脳裏を巡る。
もう自由に動ける者は誰もいない。
追い詰められた。
直は全身の血の気が引くのを感じた。
するとその時。
化け物のすぐ後ろの茂みがガサガサと音を立てて揺れ、何かが分け出でてきた。
ずずっずずっと、重たげな体を草の上で引きずる音。
繁みから現れたのは、二つの影だった。
「こぽっ、こぽぽ」
それは、不思議な声だった。
水中から、まるで泡立つように立ち上ってくるような、澄んだ音。
二体の影の内、一方に肩を貸している方が、それを発していた。
影は、亀のような頭をした異形だった。
そして亀に支えられてぐったりとしているもう一体の方。
瞬時には分からなかったが、こちらは魚のような頭をしていた。
仲間がいたのだ。
魚面を引きずりながらゆっくりと蛸に近づいた亀は、あの不思議な音色をした声で何事かを話しかけた。
一句ごとに調子を変えるその音色に、蛸がゴボゴボと泡の弾けるような音を返して頭を横に振る。
そのやり取りはまるで、会話を介して意思疎通している様に見える。
では、あの音は、この異形たちの声なのか。
呆気にとられる直たちの前で、亀の化物が、蛸に何かを差し出した。
ヒレのような手の上には、
石は全体が荒く層になっていて、その層一片一片の端がガタガタと飛び出している。
表面の様は、
蛸は差し出された石を見て頷くと、尋巳を直たちに近づけ、魚の化物を亀から引き受けた。
身軽になった亀は、一度だけ蛸へ意味ありげな視線をやって、直たちのほうへ向きなおる。
厚い
亀は、人で言えば
そして静かに瞼を閉じると、
『** ** ***** **** **』
朗々と唱え始めた声は、水中で響くように、どこか音が遠かった。
不思議な響きを伴って紡がれる声は、平坦な調子で続く。
すると、海亀が捧げるようにヒレの上で転がしていた石が、白く発光を始めた。
光はどんどん明るさを増し、やがてひとりでに浮かび上がって、直たちと異形のちょうど中間で回転しはじめる。
白い発光だと思っていた渦は、だんだんとその質感が水のような、なめらかで実体のあるものへと変わり、とうとう完全に水流のうねりへと変化した。
その色も白から澄んだ海色へと淡く色づき、
直は、その渦の中に何かが揺ゆらめいているのに気が付いた。
ぐるぐると回るそれは、濃い墨色をしている。
じいっと凝視して、ようやく文字のような形だと気付くころには、渦巻く球体は円を描く一つの流れへと姿を変えていた。
水で形作られた円をのぞきこむと、向こう側に異形たちの姿を見ることができた。
ただ円を描くだけであった水流から、円の中心へと水が
水の流れはそのままに、円は『水鏡』へと姿を変えた。
その中へ水面に映り込んだように、直たちの姿が揺らめく。
『***』
亀の声が、短く何事かを唱える。
すると、声に答えるように水面がぴしりと固まり、平坦になったそこに、はっきりと直たちの姿が映し出された。
自分の姿だ。
そう認識した途端、直は全身が突然硬直したのに気付いた。
「(動けない……!)」
両腕の指一本一本、首を振り動かすことさえままならない。
唯一自由になる目だけを動かして横を見れば、夏子と尋巳も不自然に固まった表情を浮かべたまま、瞳を困惑に染めて動かしている。
三人が動けなくなったのを確信したのか、尋巳の拘束は解かれ、直と夏子を捕えていた氷は砕け散った。
『****……!』
かと思うと、水鏡が内側から弾け散る。
同時にぼふりと濃い白煙が水鏡から吐き出され、辺りを包み込んだ。
直たちの体も、硬直から解放される。
飛び散った水
水を被る。
直はさっと身構えたが、視界に覆いかぶさる破片は突然意思を持ったように身をうねらせ、半開きになっていた直の口に、するりと入り込んでしまった。
「……!!?」
瞬間、呼吸が詰まり、直は
身の内で何かが渦巻き、臓腑を巻き込んで荒れ狂う感覚。
苦しい、息ができない。
口を開閉させながら、直は腹を押さえ、喉に爪を立てた。
そうしていると、いつの間にか内臓をかき混ぜられる感覚が治まり、今度は胃の底から突き上げる強烈な嘔吐感が襲う。
構える余裕もなく、直は奥からせり上がってくるモノをゴホゴホと吐き出した。
舌の上を塩味と、わずかな苦みが撫でる。
口から溢れたのは、大量の海水だった。
「(海水? なんで?)」
異常な事態に気が動転して、直は吐き出したモノを凝視した。
すると、
「――――眉唾物の一計であったが、どうやら上手くいったようだな」
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