第5話 迫る影 一

「ひっ……!」


 ぞわり。

 背筋を這いあがる感覚に、直は悲鳴を上げた。


 『それ』はまるで大蛇のように太く、ナメクジのようにひどくぬめついていた。

 ぬるりと肌をなぞる表皮は湿気を帯びて柔らかく、そのくせ足首を締め上げる力は尋常のものではない。

 触れる面からは何かが皮膚をんでいるかのような感触が襲い、引き倒された直は、おぞましさに声をなくす。

 月のない夜は、慣れても、なお暗い。

 恐怖におののきながら『それ』の正体を知ろうと目を凝らしてみるが、闇に形ばかりが浮かび、はっきりと見極められない。

 そうしている間に『それ』が伸び出た根本――――雑木林の奥から、ずるり、ずるり、と大きなモノが這い出てくる音がした。

 直は音に我に返るが、既にナメクジのような『それ』は、膝まで這い上る寸前だった。


「(何か、何か……! ――――そうやっ)」


 不意に思いつき、直は渾身こんしんの力で地を蹴った。

 飛び上がっていっぱいに腕を伸ばし、納屋の電灯のスイッチへ手を叩き付ける。

 瞬間、ぱっと白熱球の発光がまき散らされ、辺りが明るく照らされた。


「(ついた!)」


 直は痛む手を握りしめ、勢いよく振り向き――――――目を見張った。


「(なに、アレ……!?)」



 『それ』のは、辛うじて人の形をしているように見えた。



 ただ、そう見えただけで、明らかに人間ではない。

 人のように屹立きつりつしてはいても、その容貌は《異様》と言うに尽きた。


 皮膚は赤黒いまだら。

 頭から首にかけて緩やかな流線型を描き、胴はどこか異国を思わせる装束の中に消えている。

 その服の下では骨格のない体が、うねりながら怪しくうごめいていた。

 顔と思しきあたりには鼻も口もなく、黄金色の虹彩の中央に筆で一閃したかのような瞳孔が一対、直を捕えてぎらついている。

 ――――まさかあれは、



「(た、たこ?!)」


 『それ』は。

 その化物は、まるで蛸のようだった。

 

 夏のこの時期、漁師の祖父が土産に寄こしてくれる、蛸そっくりだった。

 よくよく見れば、直を捕えていたのは、不揃いに並んだ吸盤着きの腕。

 濃い色の衣装から伸び出ているのも、左右四本の八本足である。


「(たこ、の、化け、物……??)」


 そうは思っても、頭の中は混乱が嵐のように渦巻いていた。

 一体、あれは何なんだ。

 あんなもの、見たことも無い。

 地球上の生き物なのか、あれは。

 呆気にとられて身動きもせず、直は座り込んでいた。

 そんな獲物を、大人しくなったとでも思ったか。 

 いきなり化物はずるりと地をって、直との距離を詰めてきた。


「ッ、いや……!」


『食われる』!


 唐突に湧き上がった恐怖に、直は顔を引きらせた。

 逃げようと土を蹴るが、腰の抜けたらしい体は、思うように動いてくれない。

 蛸の姿をした化け物は、ズルズル、ゆっくりと、しかし確実に、直に近づいていた。

 アレが蛸なのだとしたら、あの腕の下には、鋭いくちばしを持った口があるはず。

 あの八本の腕にからめとられ、硬い嘴が自分の肌に沈む様が脳裏に浮かぶ。


 ぶちゅり


 嘴が肉をえぐる。

 血があふれ、骨から肉ががされる。




 ――――ぞっとした。


 


 駄目だ、逃げないと。

 身をよじって暴れるが、足に絡みついた蛸の腕は、ついに太腿のつけ根にまで達した。

 見開いた視界に、残った腕も鎌首をもたげ、自由な四肢へ迫るのが見える。

 恐怖が突き抜ける。

 無意識に、れた喉が叫びを吐き出していた。



 誰か、誰か、誰か、



「ひ、尋にぃ!! 夏っちゃんッ 助け……てッ!」



 上ずったその声は、切迫していた。

 それでも助けを求めて、振り絞られた声に――――






「直!!」






 強く、答える声。

 目を強く閉じていた直は、ハッと顔を上げる。


 どこ?


 揺れる視界に、新たに動く姿。

 階段の縁の向こう。

 駆け上がってくる尋巳の姿が見えた。


「伏せぇっ」


 飛び込んできた鋭い叫びに頬を張られ、直は頭を抱えて土に伏せた。

 それを化物越しに視認したが早いか、尋巳は手に持った ”モノ” を力任せに投擲とうてきする。

 介入者に化物も頭を巡らせるが、その動きは少し遅い。

 綺麗に放物線を描く物体。

 狙いはあやまたず、丸いが化物の後頭部にビチャアッとめり込む。

 場所が急所だったのか、背後からの急襲をもろに食らった化物はびくりと引き攣れると、裾から覗く足をもだえるようにのたうたせ始めた。

 捕えられていた直の足からも、ズズズ…… と腕が引き下がってゆく。

 解放された直は、固まったまま化物を凝視した。

 直後、駆け寄って来た尋巳に腕を取られ、引きられながら化物と引き離される。


「ケガは?!」


 肩を掴んですぶられ、なんとか気を取り戻して無事を首を振って伝える。


「よかった、直ちゃん……!」


 脇から駆け寄って来た夏子が直の手を取り、そのままぎゅっと抱き締めた。

 人肌の安心感に飲まれ、今になって直は恐怖に震える。


「いきなり、足が、あの、蛸みたいなんが……」


 支離滅裂に言い募るが、そんな直を制して、尋巳は二人を背に庇った。


「!!」


 息を呑む。 


 化物が。


 金の目が、三人を見据えていた。


 めり込んでいた炊飯器が転がり落ちて、吸盤の足がそれを荒々しく払いのける。

 まだ終わっていない。

 化物が、三人に狙いを定めている。

 皮膚の上に残る感触に、鳥肌が立つ。

 背に庇われ、腕に囲われ。

 再び走る緊張に、直は息を詰めた。

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