新訳グリムハンズ ～彩桜高校童話研究会活動録～

最終章：童話研究会

一頁「驕れる英雄」

　穏やかな風に撫でられる野原の真ん中で幼い少年が泣いている。

　俯き、すりむけた膝を押さえながら。

　一人の幼い少女が少年の傍らに腰かける。

　赤い水筒から氷水を流し、白いハンカチを濡らした。

「男の子は、泣いたらダメ」

　濡らしたハンカチを少年のすりむけた膝に宛（あて）がうと、微笑を零した。

「正（しょう）ちゃん。男のが泣いていいのは大切なモノをなくした時だけだよ」

「うるせぇ!　男泣きはいいんだよ!」

　情けのない言い訳だったが、少女から少年へ向ける慈愛が消える事はなかった。

「私、正ちゃんの泣き顔好きじゃないの」

「おとこは、泣いちゃいけないなんて……えっと、あれだ!　ダンジョサベツだ!」

「私、正ちゃんの笑ってる顔が好き」

「うるさい!　痛いもんは、痛いんだ!」

「正ちゃんは、ほんとうに痛がりさんだね。帰ったら薬つけてあげる」

「いたくて……あるけない」

「じゃあ、おぶってあげる」

「いやだ!　男のコケンにかかわる!」

「じゃあ、私はどうすればいいの?」

「そんなのおれがしりたいよ!!」

「んーと……そうだ。がんばっておうちに帰れたら、また絵本読んであげる」

「ほんと!?」

「うん。だからいっしょに帰ろ?」

「うん……かえる」

「どの絵本がいいかなー?」

「グリムのやつ」

「いいよ。いっしょにグリム読もうね」

　そんな幼き日から十年が経ち、少年と少女は、物語から生まれた異形を狩る事を生業とした。

　竜の蜷局（とぐろ）の腹の下。囚われた町が一つある。

　雄上町（ゆうかみちょう）。人類が経験した文明の崩壊と再生を一日で繰り返す町。

　朝目覚めると、そこに広がるのはいつも通りの日常だ。しかし昼頃になると町の上空を暗雲が包み込み、日付が変わる事には人も町も灰と化していく。

　そして朝日が昇ると何事もなく町は再生された。

　日が沈むまで破滅を歩み、日が登る頃には再生する。

　輪廻の象徴にして神話の存在。上空に浮かぶそれは、白く巨大な蛇であり、黒く雄々（おお）しい竜であり、赤く艶（なま）めかしい神だった。

　四列の牙が並んだ口で、自らの尾を噛み締め、生み出された円環の輪の下界を、己が輪廻に支配する。

　神災級（ドラゴンクラス）ワード・ウロボロス。

　町一つを襲う怪異に、気付く者は居なかった。

　数キロに及ぶ巨体を雄上町の人々はもちろん、隣町の住人や果ては政府に至るまで、認知認識出来ていない。

　彼等にとってウロボロスという異物は、当たり前に存在する光景に過ぎなかった。

　存在に違和感を抱き、状況を正しく感じ取れるのは、極一部の異能者のみ。

　蛇神の威容を隣町の沖宮町（おきみやちょう）の一番高いビルの屋上から眺める少年と少女と女性もそうした異能者であった。

「あれが神災級か」

　紺色のブレザー姿の少年、如月正太郎は、ウロボロスを見つめながら破顔していた。

　彼の笑みには、若すぎるが故の万能感が漂っている。

　神が如き存在であろうと、正太郎にとっては羽虫と同等。気紛れに腕を振るうだけで、彼の者は容易く地に落ちるだろう。

「正太郎、気を付けな」

　慢心に満ちた少年に忠告するのは、上下黒のパンツスーツの上から男性物の朱色のジャケットを羽織った女性だった。

　金色の髪を腰まで伸ばし、双眸は蒼く澄んでいる。

　彫像のように均整の取れた容姿は、芸術家の手で作られたのかと錯覚させる程だ。

　背の高さは女性離れしており、男子高校生の平均身長である正太郎の頭頂部がようやく彼女の肩と並ぶ程である。

　名をメリル・マクスウェル。イギリスから日本に派遣されたグリムハンズの指導者であり、自身も赤ずきん（ロートケプフェン）のグリムハンズだ。

　二年前、コーンウォールでワードによる事件が起きた際、日本政府が応援役として寄越したのが正太郎と亀城和弘であった。

　その事がきっかけでメリルは、光正（こうせい）高校の英語教師として赴任。今では正太郎が籍を置く『童話研究会』の顧問を務めている。

　正太郎にとっては、教師や同好会の顧問というだけでなく、同じマクスウェル流を扱う師匠でもあるのだが、彼女の忠告が響いている様子はない。

「別に見てるだけなら、どうって事もないだろ?」

「ワードの生態は、まだはっきりしてないんだ。何が奴の行動のキーとなるか分からないんだよ」

　硬い声で言ってはいるが、メリルもウロボロスを心底から脅威と感じていないようだった。

「まぁ、とは言え問題ないだろう。正太郎の能力（グリムハンズ）なら」

「先生の言う通り。正ちゃんなら大丈夫」

　そう言ったのは、正太郎と同じ光正高校の制服を着た少女だ。

　雪の色が染み込んだように白い肌と、日本人でありながら深緑（しんりょく）の瞳をしている。

　男の子みたいな短髪だったが、それが却って彼女の中性的な魅力を引き立てていた。

　倉持（くらもち）美月（みつき）。正太郎の幼馴染であり、同じ童話研究会に所属するグリムハンズだ。

「過大評価だよ」

　正太郎は、二人の賞賛に、口では謙遜しつつも、

「まぁ……負ける気しねぇけど」

　その表情は、若々しいおごりで満たされていた。

　童話研究会の部室で、パイプ椅子で項垂（うなだ）れていた正太郎は、不機嫌そうに瞼（まぶた）を開け、微睡（まどろみ）を脱した。

　長机の上でスマホがけたたましく鳴っている。

「クソガキだな。あの頃の俺」

　日曜日だから静かな環境で本が読めると思って童話研究会を訪れたが、一番嫌悪している頃の自分の夢を見たせいで目覚めは最悪だ。

　スマホを手に取ると、マリーからの着信である。

「よう。フランスはどうだ?」

『厄介なワード。早く日本に帰りたい』

　マリーの思いとは裏腹に、正太郎は彼女が日本に居ない事を安堵していた。

　無論、厄介なワードを相手にしているのは気掛かりだし、心配している。

　しかし王家憑依型のワードが発生した日本は、世界でもっとも危険な場所と化した。

　通常のワードの相手をしている方が余程安全であろう。

「今は、居ない方がいいだろ」

『だから!!　でもいきなりフランスに呼ばれた。タイミングよすぎ』

　マリーは、きっと気付いている。正太郎が今回の一件に手を回した事を。

　十六歳から二十五歳まで世界中を放浪していた正太郎は、行く先々でワードを退治し、その国の要人に恩を売っている。

　マリーに関しても、以前フランスで作った借りを返してもらった格好だ。

　かなりの力を持ったワードがパリで発生し、討伐部隊が結成される運びとなり、そのメンバーとしてマリーをねじ込んだ。

　勿論、マリーが討伐隊として十二分に通用する実力を持っているからこそ通った人事である。

　マリーは、人から頼まれると断れない性分だ。普段は、素っ気ない棘のある言葉を吐くが、なんだかんだと断れず流される。

　どうすればマリーを口説き落とせるのか、正太郎はよく知っていた。

「マリー。今回の件は、俺に任せてくれないか?」

『でも!』

「分かってる」

　マリーの想いを踏みにじっている事も。

　思いやりなどではなく、単なる独善である事も。

「自分の手で復讐したいんだよな。それでも任せてほしいんだ」

　如月正太郎の罪に、誰一人として巻き込んではならない。

『正太郎。いつまで一人で苦しむの?』

「お前が思ってるより、俺は辛くないよ」

『正太――』

「マリー」

　これ以上、話していると決心が鈍る。

　子供相手なのに、頼りたくなる。

「こっち片付けたら、そっちの手伝いに行くよ」

　口先だけなのは、マリーにも伝わっているだろう。

　手伝いに行ける保証なんてないに等しい。

『分かった……気を付けて』

　気を遣わせている。一回り近く年下の子供に。

　自分の幼稚さに、反吐が出そうになる。

「ああ。お前もな」

　マリーとの通話を終えた正太郎は、胸の奥から込み上げてくる嘔吐感を流し込みたくて、コーヒーを淹れ始めた。

　礼儀を弁えていなかった生意気なガキ。

　自信過剰で、モノを知らなかったガキ。

　守りたい者を何一つ守れなかったガキ。

　あの頃の自分を言い表す言葉が、止めどなく溢れてくる。

　今、目の前に居たら、顔の形が変わるまで殴りつけてやりたい気分だ。

「いや。今でもクソガキなのは、たいして変わんねぇか」

　自嘲を浮かべ、わざと濃く作ったコーヒーの入るマグカップを煽った。

　あの頃を唯一羨（うらや）むのだとしたら、根拠のない全能感に支配されていたが故、現在のように自己嫌悪の輪廻に囚われていない事だろうか。

　正太郎は、長机の上に置かれたＡ四サイズの紙に目をやった。

　調査報告書

　神災級ウロボロス復活。

　日本政府は、現在対応を検討中。

　正太郎の報告を受けた日本政府が、全国に居る探知系統の能力を持つグリムハンズに意見を聞き、出した結論だった。

「紙一枚かよ」

　けれど一枚の紙に書かれているのは、人類が存亡の危機に瀕している証明だ。

　十年前。日本政府は国内初にして、世界でも三例目の神災級ワード『ウロボロス』の発生を確認。

　当時、世界最強のグリムハンズと謳（うた）われた、如月正太郎の所属する童話研究会が討伐の任に当たった。

　早朝、雄上町に到着した三人は、頭上で蜷局（とぐろ）を巻くウロボロスを仰ぎ見ている。

「輪廻に囚われた町。そこに住まうは円環を司る蛇だ。あたし等の任務は、その討伐。さて、どう退治しようか生徒諸君」

　メリルの問いに、正太郎は気だるげに答えた。

「俺がやりますよ。いつも通り」

　世界最強のグリムハンズの称号は、高校一年生の少年を酷く増長させていた。

　そして事実であるから、美月とメリルはこれを咎める事もしない。

　二つ名に恥じない実績を如月正太郎は着実に積み上げていた。

「そうだね。正ちゃんなら大丈夫」

　けれど美月は、微かな不安を抱いていた。

　神災級という規格外の危険性を深層意識で察知していたのだろう。

　しかし如月正太郎のそれは、過剰な自信に覆われて錆びついていた。

「どうかしたのか美月?」

「だって神災級って名前がすごいし、町ひとつに影響を及ぼすワードなんて初めてだから……」

「大丈夫だよ。なぁ先生」

「油断しない方がいいのは確かだ。過去に二度しか例がないからね。いずれも人類の歴史に大打撃を与えた化け物だよ」

　神災級を形成する強大な揺蕩う力は、討伐の瞬間弾けて地球上を追い尽くし、人類の意識に影響を与え、世界を混迷へと追いやった。

　一度目の出現が第二次世界大戦、二度目が東西冷戦激化の引き金になったとされている。

　ウロボロスは、発生してまだ間もない。

顕現も完全には果たしておらず、今倒せれば世界に与える影響を小さく出来るはずだ。

「今回は、そうなる前に奴を叩き潰すよ」

　メリルの指示を受け、正太郎は意識を集中させる。

　体内の奥底、魂と呼ばれる場所で眠る姫君に祈った。

　――敵を倒す力をくれ。

　応えるように正太郎の右手から黒いイバラが現れ、腕に巻き付いた。

　禍々しく伸びる無数の棘は、正太郎の増長した心を具現化したようである。

「行くよ!　正太郎!　美月!」

　メリルの号令で正太郎が黒いイバラを振るう。

　イバラは、雷光に匹敵する速攻で空へ延び、ウロボロスの腹を黒い棘で一撫でした。

　瞬間、町を覆いつく巨体は、目には見えない微細な原子と化して崩壊していく。

　ウロボロスは、抵抗の意志を見せる間もなく、無慈悲にそして呆気なく空の蒼に溶けていった。

「ったく、何が神災級だよ。大袈裟な」

　俺は、世界を救った。

　俺は、英雄だ。

　俺こそが最強だ。

　如月正太郎は、何と浅ましいのか。

　それが破滅の始まりだと気付かないのだから。

　メリルも誇らしげで、正太郎を見つめて目を細めていた。

　考えるのは、正太郎と美月を連れての祝勝会で何を奢ってやろうかとか、妹のマリーに今からどんなお土産を買って帰ろうかという事。

　驕（おご）った正太郎を咎（とが）める考えは、メリルから消え失せていた。

　神の名を冠する怪物がこんな簡単に終わるはずがない。

　世界中でたった一人疑念を抱いてたのは、ウロボロスの消え失せた空を見上げる美月だけであった。