新訳グリムハンズ ～彩桜高校童話研究会活動録～

四頁「硝子（ガラス）の靴」

　夜の帳（とばり）が下りた上谷公園で冴木は、エリカの首を両手で締め上げていた。

　エリカは、引き剥がそうと爪を立てたり、冴木の顔面を叩いて抵抗するが効果はない。

　グリムハンズとしての身体能力を発揮しているのにだ。

「なんて腕力……なの」

　エリカの身体能力は、同じ体格の女性の数十倍以上。

　女と男の体格差を考慮しても、グリムハンズと常人では歴然の差がある。

　警察官として格闘訓練を受けていようと、覆る力量ではないはずだ。

「ガラスだ」

　冴木は、左手をエリカの首から離すと、上着の左ポケットから証拠品袋を取り出して、エリカに見せてくる。

　その中には、小さなガラス片が入っていた。

「おめぇさんは、人を殺した現場に必ずガラス片を残している。これがおめぇさんの署名的行動。この犯人をずっと探していた」

　冴木が言葉を紡ぐ度、エリカの首に太く固い指が喰い込んでくる。

　このままでは、首の骨を砕かれてしまう。

　右腕一本でエリカの首を絞めている今が唯一のチャンスだ。

　エリカはスカートの下、右太ももに付けている鞘から特殊警棒を振るい抜き、冴木の右腕に打ち下ろした。

　常人であれば知覚を許さない速攻。しかし冴木の左手が特殊警棒を受け止めた。

　冴木が破顔しながら警棒を握り締めると、軋（きし）みを上げながら警棒は冴木の手中で小枝のようにへし折れる。

　特注のチタン製警棒を握力のみで容易く破壊するのは、常人の技ではない。

　この場合、選択肢は三つだ。

　〇冴木がグリムハンズであり、怪力を扱える。

　〇目の前に居るのは、冴木の姿に擬態したワード。

　○憑依型ワードに寄生されている。

　目の前に居る男の外見は、エリカの知る冴木と寸分の狂いもない。

　しかし冴木は、このような超常的な技を振る事の出来ない一般人のはず。

　ならばワードが冴木に擬態しているか、ワードに憑依され操られているかだ。

「ずっと探していたんだよ。このガラスの持ち主をなぁ」

　まるでシンデレラのガラスの靴を拾った王子様だ。

　舞踏会の帰り際、シンデレラが落としたガラスの靴が合う女性を捜し歩く王子と、事件現場に残っていたガラス片を残した少女を探す刑事。

　王子様というには、いささかごつい気もするが、現実はこんな物であろう。

　馬力が違いすぎて、冴木の手から逃れるのは難しい。

　灰かぶり姫（シンデレラ）は、精密な攻撃には向いていない。この至近距離では、自爆必至だ。

　許されたのは、甘んじて死を受け入れる事――。

　エリカが連れ去られてからすでに十五分。

　正太郎は、スマホを片手に闇雲に夜道を走り続けていた。

「くそっ!!　見つからねぇ……亀城!　そっちはどうだ!?」

『ごめん!　猫や鳥にも探させてるけど手応えなしで……』

「分かった。通話はこのままにして続けてくれ」

『了解!!』

　冴木がどのようなワードに憑依されているかは分からないが、人間の身体能力を大幅に増強している。

　仮にそうだとしたら今頃エリカは――。

「如月先生!!」

　悲壮な声を上げて正太郎の背後から、涼葉が駆け寄ってきた。

「涼葉。エリカは?」

「亀城君の操るカラスに乗って空から探してますが、見つかりません……」

「俺がついてたのに、このザマかよ。なんで俺は……いつも肝心な時に!!」

　普段からは想像出来ない正太郎の取り乱し方を見つめる涼葉は、逆に冷静さを取り戻しつつあった。

　普通に探していたのでは見つからない。

もっと広範囲をリアルタイムで捜索出来れば――。

「親指姫（サンベリーナ）」

　涼葉の知らない親指姫（サンベリーナ）のネクストページ。

　秘められた力があるのなら、今日この時をおいて何時使うのだ。

「あなたにもネクストページがあるんでしょ?」

　戦う事に使えない力だと、卑下した事もあった。

　何の役に立つのかと自らを蔑（さげす）んだりもした。

　身勝手な主かもしれない。

　それでも大切な仲間を救う力をこの手の中に――。

「エリカちゃんを……仲間を救う力をちょうだい!」

　戦う力に欠けているなら、それ以外で自分の出来る事を。

「お願い親指姫（サンベリーナ）!!　ネクストページを!!」

　願いを込めて涼葉は、右手の人差し指の付け根を噛み切った。

　エリカがいくらもがいても、冴木の手から逃れる事は叶わなかった。

　冴木の腕力ならエリカの首の骨を折るぐらい、造作もない。

　しかし至近距離でグリムハンズを使えば自爆は必至。

　甘んじて死を受け入れる以外にないのか?

　――なんて、ネガティブ思考は……。

　何もしないまま殺されるより、例え自爆してでも一矢報いる。

　今の沙月エリカは、グリムハンズだ。

　雛鳥のように口を開けて、救ってくれる人を待つだけの人生は、お人形のような子供でいる事は――。

「もうやめたんだぁ!!」

　エリカは、右手の人差し指の付け根を噛み切った。

　素早く取り出したビー玉に血を塗りたくり、握り込んで右の拳を繰り出す。

「灰かぶり姫（シンデレラ）!!　ぶっ飛ばせ!!」

　ビー玉は、手中で爆ぜるようにガラスを生み出し、エリカの右前腕部を包み込んだ。

　――な、なにこれ。

　ガラスがエリカの右腕を手甲のように包み込んでいる。

　今まで見た事もないグリムハンズの発現だ。

　こういう使い方をしようとも思わなかったし、出来るとも考えていなかった。

　何故こんな事が起きたのか、理解が及ばない。

　頭が混乱しかけた所で、

　――考えてる場合じゃない!

　今やるべき事は一つ。

　――これなら!!

　エリカは、ガラスに覆い尽くされた拳を振るって、冴木の左頬に叩き込んだ。

　強烈な一撃は冴木を怯ませ、その巨体を大きく後退させた。

　数分ぶりに冴木の手から解放された喉が酸素を欲し、むせながら深い呼吸を繰り返す。

「このガラスは、まさか!?　俺の求めてた!?」

　冴木にダメージはない。恍惚と頬を染めて、地面を蹴った。

　エリカは、左手の人差し指の付け根を噛み切り、ビー玉を握った左手を地面に叩きつける。

　燃え盛るように躍り出た結晶がエリカと冴木を隔てるように膨らんでいき、膨張に巻き込まれまいと、冴木はネコ科の猛獣のような機敏さで後ずさった。

　不揃いな山形に形成されたガラスの頂点は、一番高い場所で十メートルを裕に超え、公園の敷地を分断するように横へ広がり、遊具の一部をガラスの中に取り込んでいる。

　いつも通りの灰かぶり姫（シンデレラ）の威力だ。

　では、右手のこれはなんだ?

　――私は知ってる。

　グリムハンズの能力は一つではない。

　薫がそうであるように、エリカにもその力があるのだとしたら。

　――これがネクストページ?

　ならば正体にも見当がつく。

　エリカは、左手でビー玉を取り出すと、血を塗り付け、地面に落とした。

「グリムハンズ灰かぶり姫（シンデレラ）!!　ネクストページ!!」

　左足に渾身の力を込めて地面に落としたビー玉を踏み砕く。すると、弾けたガラスの結晶が爪先から膝下までを覆い尽くし、ガラスのブーツを形成する。

　ファーストページによって生じたガラスを足場に跳躍し、壁の向こう側に居る冴木に照準を合わせた。

　重力落下と渾身の脚力によって繰り出された蹴撃（しゅうげき）を、冴木は難なく躱（かわ）してみせる。標的を失ったガラスに覆われた爪先は、地面を深々と抉り、土埃を巻き上げた。

　大技を回避され、エリカに生じた隙。冴木は、容赦なく左右の拳を放り込む。

　左、右、ほぼ同時に襲い来る冴木の牙をガラスに覆われた右手を盾に防ぎ、返す刀で冴木の顎先に左足を繰り出した。

　上体を逸らし、紙一重で逃れた冴木は、大きく後方へ飛び退き、エリカとの距離を取る。

「私のネクストページ……」

　薫がそうであるように、ネクストページがファーストページと相互互換が出来る能力になるのなら、威力は高いが隙が大きく、接近戦で使いにくいファーストページに対して、ガラスで全身を武装するネクストページは、灰かぶり姫（シンデレラ）の穴を埋めてくれる。

　ガラスの靴は、シンデレラを象徴する代名詞の一つだ。ネクストページは、その描写に寄り添っている。

　新たに手にした力。しかし喜びは薄く、あるのは後悔ばかりだ。

もっと早くネクストページに気付いていれば、十四人のうちの誰かは救えたかもしれない。

　何も知らなかった自分が、酷く恨めしく思えた。

　砕けそうになる心の内を見透かしたように、ガラスの鎧と壁が崩れていく。

　けれど心を折る訳にも、膝を付くわけにもいかない。

　知らない事が罪ならば、もっと学んでいけ。

　使いこさせなかった事が罪なら、さらなる修練を積め。

　罪悪感に屈してしまうのは、簡単だ。

　足掻いていこう。醜くとも許されなくとも、しっかり地面に足を付けて。

　生きている限り、戦い続ける事がエリカに出来る唯一の贖罪（しょくざい）だ。

　そのためにも、今ここで冴木に殺されるわけにはいかない。

「ガラスだ!　このガラスだ!」

　冴木がファーストページのガラスの破片を手にした刹那、彼の背後に錆びた王冠を被った痩せこけた男の像が浮かび上がる。

「あのワード。あれって――」

「エリカ!!」

　割り込んできた声の主は、待ち望んだ人だった。

エリカを捜し歩き、上谷公園に辿り着いた如月正太郎がエリカを目指して駆け寄ってくる。

「シンデレラァァァァァ!!」

　灰かぶり姫（シンデレラ）の姿を視界に収めた冴木は、ヒョウのように跳躍してエリカに迫った。

　ガラスを作り出した主を探し求める王冠を被った男。

　それは、ガラスの靴を探し求める王子様。

　ならば、このワードの正体は一つしかない。

「灰かぶり（シンデレラ）!!　ファーストページ!!」

　ビー玉を握り込んだ左拳を地面に振り下すと、ガラスは大波のようにうねりながら爆ぜて、中空を舞う冴木の身体を巻き込みながら硬化し、腰から下をガラスで押し固めて超常的な機動を封じた。

「あんたの正体も分かった!!　顕現（けんげん）せよ!　シンデレラの王子!」

　エリカがキーワードを叫ぶと、冴木の目や口や耳の穴からら粘度の高い闇が立ち上り、空中に集まっていく。

　闇は、冴木の身体から抜け切ると、煌びやかな衣装に身を包んだ痩せこけた男の姿へと変じ、エリカを目指して舞い降りた。

「俺の生徒に触らせるかよ!!　茨姫（リトルブライアローズ）!!」

　正太郎の放った赤黒いイバラがシンデレラの王子のワードを空中で縛り上げた。

　エリカは、素早くビー玉を取り出し、宙に放り投げる。

「灰かぶり姫（シンデレラ）!!　ネクストページ!!」

　ビー玉を左足で蹴り砕くと爪先から膝下までを結晶が覆いつくし、月光の輝きを纏って繰り出された蹴り足が、王子の右頬を打ち抜いた。

　王子が青い光球に姿を変えると、冴木を捕えていたガラスは、砂のように風化していく。

　真夏の夜に昇華する雪のような結晶の輝きは、少女の成長を祝福するかのように踊っていた。

　ガラスの反射と月光が生み出す虹色の光と、エリカの纏うガラスのブーツを眺めていた正太郎は、感嘆（かんたん）の声を漏らしていた。

「近接特化型。あれがエリカのネクストページか……」

「先生!」

　エリカは、両手でピースサインを作り、笑んでいる。

「助けに来るのが遅い!」

　正太郎は、安堵の息を漏らしつつ微笑した。

　エリカと正太郎は、ワードを封印し、気絶した冴木を救急車に乗せた後、童話研究会の部室に戻った。

　部室では涼葉と薫が待っており、エリカと正太郎を出迎えた。

「エリカちゃん怪我はない!?」

「沙月さん大丈夫?」

　不安そうにしている二人に、エリカは笑顔を返した。

「大丈夫。二人とも先生と一緒に探してくれたんでしょ?　ありがと。涼葉さんが見つけてくれたって先生が教えてくれたんだけど……」

「ええ。この子達がね」

　涼葉の両手には、親指姫（サンベリーナ）が乗っていた。しかしその数は、一人ではない。十体の親指姫（サンベリーナ）が所狭しと敷き詰められている。

「涼葉さん!?　こ、子だくさん!?」

「大家族になりました」

「涼葉さん……それって!!」

「ええ。私のネクストページよ。たくさんの分身を作れるみたい」

「僕のグリムハンズと組み合わせて空からローラー作戦をして、沙月さんを見つけたんだ」

「すごいや涼葉さん!!　ついでに薫君!」

「僕ついでかよ……」

「エリカちゃんのに比べると、派手さに欠けるけどね。でも、この力は皆の役に立つわ。これからもよろしくね親指姫（サンベリーナ）」

　以前にも増して頼もしくなったエリカと涼葉の姿に、正太郎から笑みが綻んでいた。

「あっつーい。先生にアイス奢らせよう。ダブルで」

　遠慮を知らない暑さに負けそうになりながらエリカが通学路を歩いていると、進行方向に冴木が待ち構えていた。

　幸い彼には大きな怪我もなく、ワードに憑りつかれていた後遺症もないらしい。

「刑事さん」

　エリカの方から声を掛けると、冴木は戸惑いがちに口を開いた。

「おぼろげにだが……覚えてんだ。あの夜の事をよ……」

「あの夜……ですか」

　エリカがどうやって人を殺してしまったのか、その方法を覚えているという事。

　冴木の追い求めていた決定的証拠。

　手に入れた真実の使い道は、刑事であれば一つしかないだろう。

　――これで終わっちゃうんだ。

　仲間と過ごす楽しい日常も、怪物と戦う非日常も、今日でお別れ。

　自分がしてきた行いは、贖わなければならない日が来ると覚悟し続けてきた人生だった。

　法的な責任を果たす事も沙月エリカにとっては、大切な戦いだから。

　逃げる事はしない。

　真っ直ぐに向かい合っていこう。

「刑事さん……私が――」

「助けてくれて、ありがとよ」

　冴木は、直角に腰を折り、エリカに深々と頭を下げた。

　想定外の行動に、エリカは言葉を失った。

　罪を糾弾される覚悟をしていたのに、謝罪されたのだから無理もない。

「ありがとうって……何がですか?」

　冴木は顔を上げ、呆気に取られているエリカの事など、お構いなしに続けた。

「今日は、礼を言いに来たんだ。おめぇさんの事を追いつめた俺を助けてくれた。どう詫びたらいいもんかね?」

　エリカの安心を買い、油断させるための策ではない。

　冴木の言葉に嘘はないと、エリカは信じていた。

　昔から嘘を言わない人だったから。

「いえ。刑事さんいい人だから」

「俺が?」

「だって約束してくれたから」

　事件現場に居たゼゾッラの事を誰も信じてくれなかったのに、ただ一人だけ真摯にエリカの言葉を聞き、誓ってくれた人。

『犯人は、必ず俺が見つける!』

　力強い約束は、幼い頃のエリカにとっての支えであった。

　何もなかった空っぽのエリカを支えてくれた、たった一つの物だった。

　そして冴木は、あの時の約束を果たしてくれている。

「犯人は、必ず見つける。私に約束してくれた。だから刑事さんは、その約束を――」

「言うな」

　冴木は、それ以上何も言わせなかった。

　あの日から変わらない優しい微笑みで、エリカを包み込んでくれる。

「おめぇさんが真実を知ってんなら、それでいい。被害者のおめぇさんが真実を知っているのなら、俺の仕事はもう終わりだ」

　冴木は、上着の胸ポケットから名刺を一枚取り出して、エリカに渡した。

「何か困った事があれば、いつでも連絡しな。定年間近のジジイだ。出来る事は少しかねぇが力になる」

「ありがとう。冴木さん」

　エリカが冴木の名前を呼ぶと、彼は訝しげに首を傾げている。

「名前、覚えてたのか?」

「はい」

「嫌な奴だったもんな。そりゃ覚えるか」

「違います」

「ん?」

　――だって。

「優しかったから」

　エリカは、軽く会釈して踵（きびす）を返すと、学校へ向かって歩き出した。

　去り行くエリカの背中を冴木が見つめていると、

「冴木さん」

　正太郎が隣に立ち、飄々と笑いかけてくる。

「辛い思いをしてる子なんだな」

「刑事部長から話を?」

「大体はな……」

　冴木から溢れ出す憂（うれ）いの情（じょう）は、我が子の行く末を案じているかのようであった。

　正太郎が傍に居ようと、冴木が追及を止めようと、エリカの力が多くの命を奪ってしまった事実は消えない。

　壁が立ちふさがる事もあるだろう。

　並大抵の精神で乗り越えられる人生じゃない。

　それでもエリカからは、歩みを止めないと断言出来る強さが見て取れる。

　見て取れるからこそ、見守る立場の正太郎や冴木にとっては、辛いのだ。

　どれほど過酷な人生が彼女を待っているか、少し長く生きている分、知っているから。

「如月さんよ。厚かましいのは分かってるが、あの子の事を頼む。あの子は、幸せにならなくちゃだめだ。シンデレラのようにな」

「俺もそう思いますよ」

「なら、あんたが王子様になってやんな」

「あなたは?」

「そういう柄じゃねぇだろ。このツラは」

　難題を押し付けて冴木は、去ってしまった。

　正太郎だって出来る事なら、エリカの傍に居てずっと見守っていてやりたい。

「そうしてやれたら……俺だって、あいつと一緒に居たいさ」

　もう大切な生徒の傍に居てやる事は出来ない。

「著名な物語に登場する王族を象徴した特殊な憑依型ワード。王家憑依型（ロイヤルポゼッション）の出現」

　憑依型の中でも王族を象徴したワードは、ある一定の条件が揃わなければ出現しない。

　極限まで膨れ上がった揺蕩（たゆた）う力の顕現。

その災厄が差し迫っている兆候としてグリムハンズに畏れられている。

「神災級（ドラゴンクラス）の復活の証……」

　人にとっては神にも等しき異形の王、神災級の目覚め。

「奴は、この日本のどこかに居る」

　世界の終焉が産声を上げた。