二頁「輪廻の中で」
十年間、如月正太郎は、片時も休まずに考えてきた。
――今の俺なら、ああはならなかったのだろうか?
朝、目が覚めた時。
昼、教鞭を振っている時。
夜、眠りにつく時。
十年間、自問し続けてきた。
神災級という規格外に対して取れた最善は、なんだったのだろうか?
今の自分ならどうするのだろうか?
今ならもっと上手く出来たのだろうか?
少なくとも、あの時取った行動全てが、最悪であった事は言うまでもない。
疑うべきだったのだ。
ウロボロス討伐が、拍子抜けさせられる程に簡単すぎた事を。
本来呆気なさは、簡単に終わった事の安堵よりも釈然としない不安感を煽ってくる。
これで終わったのか?
神の名を関する災厄が?
しかし皆は、こう口を揃えた。
よくやったと。君が世界を救った英雄だと。
正太郎も疑わない。
俺が英雄だ。俺が神を殺したんだと。
メリルも信じて疑わない。
自分の生徒がやったのだと。世界の脅威は去ったのだと。
たった一人美月だけが祈っていた。
私の不安が
だが翌日、
「ウソ……だろ……」
雄上町・沖宮町・
「昨日、俺が倒したはずなのに……」
以前よりも遥かに大きさが増している。単純計算で三倍。あるいはもっとだろうか?
先日よりも膨れ上がった巨体は、正太郎に自らの
だが正太郎は、この期に及んでも自分の力を過信しようとしていた。
幼稚で無根拠な自信をイバラに変えて、再びウロボロスは討伐される。
しかし先日の倍以上も膨れて蘇り、また倒せばウロボロスはさらに膨らんだ。
生まれては殺し、殺しては生まれる。
終わりの見えない
ついに日本列島の空を覆い尽くしたウロボロスの腹を仰ぐ正太郎は、彼の蛇が究極を体現していると理解した。
太陽光は、ウロボロスの背に遮られ、日本全土を闇が包んでいる。
今のウロボロスの腹ならば、富士山すら小石のような凹凸としか感じないだろう。
「なんだよ、これ……」
殺したはずなのに。滅したはずなのに。
一度や二度ではない。十か、あるいは百か。
蘇る度、正太郎はウロボロスを殺し続け、翌日にはウロボロスが以前を上回る体躯で蘇る。
輪廻は、終わらず繰り返し、繰り返す度に、強大な災厄が横たわった。
神なる蛇は、世の理を
「正ちゃん。これで正しいのかな?」
美月は、何かを悟りつつあった。
「殺すだけじゃ、違う気がするの……」
「俺にどうしろっていうんだよ?」
「分からない……私にも分からない……私のグリムハンズなら分かるはずなのに……どうして」
「じゃあ言うんじゃねぇよ!」
美月と一緒に考える余裕がなかった。
いや、考える事を放棄していたと言っていい。
力に溺れた正太郎にとって殺せぬウロボロスの存在は、如月正太郎という人間の根幹を打ち砕かれるに等しかった。
殺せないなら殺せるまで殺すだけ。
やる事は変わらない。
生き返ったのならば殺すだけ。
生き返らなくなるまで殺すだけ。
殺して、殺して、殺し続けた結果、地球の三割の面積がウロボロスの
正太郎は、ようやく気付く事が出来た。
ウロボロスは、ただ殺しただけでは殺せない。
何かの方法があるはずだった。
それは酷く簡単な方法のはずなのに、思い出す事が出来なかった。
正太郎以外にもその方法を知る者は誰もなく、結局正太郎は政府の要請通りにウロボロスを殺し続けた。
世界中から優秀なグリムハンズが日本を訪れ、正太郎と共にウロボロスを討ったが、翌日には輪廻に囚われる繰り返し。
やがて地球という惑星に巻き付いたウロボロスは、あまねく世界を死と再生の円環の下に置いた。
全人類の大半がウロボロスに支配され、終わらぬ死と再生の日々を過ごす。
永遠に明日を見られない繰り返される二十四時間の中でグリムハンズだけは、
必ず倒す方法があるはずだと、懸命に記憶の糸を辿ったが誰も何も思い出せない。
ワードと同じく揺蕩う力を根源に持つグリムハンズは、ワードの起こす事情に対して相応の抵抗力を持つ。
だからこそ全てがリセットされる中で、記憶の一部を保ち続ける事が出来た。
しかし最も肝心な記憶をウロボロスは、グリムハンズから奪い去っていた。
ワードの原点となっている物語を探り当て、強制的に顕現させ、意味を理解した上で倒し封印する。
ドイツ人科学者ニコライ・ヴォルコフが五十五年の研究期間を経て、一九八〇年に辿り着いた結論だった。
だが封印を用いるワード討伐は、物語を調べる手間と時間が掛かり、被害の拡大を招いてしまう。
被害が拡大する事で、人類全体へのワードの存在露見を恐れた各国政府とグリムハンズは、ヴォルコフの忠告を聞かず、封印せずにワードを殺し続けた。
そして神災級発生のメカニズムを知らなかった当時の人類は、ワードを封印しない影響に気付く事が出来ず、ヴォルコフの提唱したワード討伐法を知る者は、世界中から姿を消した。
楽な道に逃げ続けた人類が押し殺してきた記憶。
グリムハンズが持っているのは強大な異能だけではなく、世界を救う志であったはずなのに。
一人また一人と絶望し、精神を折られたグリムハンズが
世界が輪廻を生きるようになって三百五十六日。
一日で滅びと再生が繰り返される事、三百六十五回目。
平凡な朝を迎え、夕暮れと共に迫る破滅の戦列に怯え、夜の最中に崩壊し、朝日が上るとまた日常が帰ってくる。
ある時は隕石が降り注ぎ、ある時は大地が割れ、またある時は疫病が牙を剥く。
人類が有史以来より経験した、あらゆる文明の崩壊と再生が繰り返される世界。
いくらかのグリムハンズは、未だに全ての日々を記憶していた。
止められない崩壊を。答えの見えない難問を。殺さねばならぬ事を分かりながら、しかし殺せばウロボロスの影響力は強まっていく。
「どうして殺せないんだ!」
大火に飲まれ、灰の廃墟と化した町の中心で正太郎は、膝を折り、涙していた。
「俺の力なら殺せるのに。死なないのはなんでだ!?」
方法があったはずなのに、どうしても正太郎には思い出せない。
美月とメリルも、同じく思い出せなかった。
正太郎や美月には、まだウロボロスの影響は出ていないが、メリルは受け継げる記憶の量がループの度に減っており、
「アレには殺し方があったはずだよ。あたし達が忘れてしまった殺し方が……」
「大丈夫だよ。正ちゃん、先生」
無限に続く一日の中でも、美月の心は折れなかった。
そして記憶を失う恐怖にも、メリルの心が折れる事はなかった。
だが現実は、日増しに絶望の色を強めていく。
ウロボロスを殺せば、より大きくなって蘇った。
殺さなくても今度は、自力で顕現に近付いた。
顕現に近付く度、ウロボロスは影響力を増していき、ついに彼の円環に囚われていないのは正太郎達だけになっていた。
さらに数十のループを繰り返したある日、ウロボロスは自身の腹の内に呑み込めぬ三人に一手を講じた。
「お姉ちゃん」
メリルのたった一人の肉親、最愛の妹であるマリー・マクスウェルを、
「助け――」
ウロボロスは、円環に捉われた人々にマリーの肉を食らわせた。
朝日が登る頃にメリルの目の前でマリーを捕え、次の朝日が登る頃まで時間を掛けて人々に食らわせる。
メリルはマリーを救うため、グリムハンズを振るい、妹を襲う人間を殺し始めた。
拳銃は頭を撃ち抜き、機銃掃射は四肢を砕き、対物ライフルは胴体を両断する。
「先生、やめろよ……」
正太郎の前に居るのは、愛すべき恩師でなく殺戮者であった。
「あんた達もやりなさい!!」
メリルの咆哮が、正太郎と美月を射抜いた。
しかし相手は人間。操られているのだから被害者である。
殺せと言うのか?
あの優しかったメリルが人を殺せと。
マリーの事は、妹のように愛している。
だから守るために、メリルの言うように、グリムハンズに呼び掛け、力を振るおうとする。
けれど迷いの生じた精神では、マクスウェル流のグリムハンズは起動しない。
正太郎と美月には、出来なかった。
グリムハンズで人を殺す事を。
狂気に任せて、人の群れを
そして如何にグリムハンズと言えど、一人では万に迫る大群に抗う事は出来ない。
数千を殺しても尚止まぬ軍勢にメリルは力尽き、正太郎と美月はメリルを連れて逃げ出した。
操られた人々を殺せもせず、マリーも救えず、出来るのはマリーの死から目を背けて逃げる事。
マリーが生きながらに食われていく様を、メリルは何十回と見せられて――。
『助けて!』
「マリー!!」
『お姉ちゃん!』
「やめて!!」
『痛いよ!』
「お願い……」
『やめて!』
「やめて……」
『助けて!!』
地獄の日々は、終わらない。
ここは、ウロボロスの造り出した世界。
彼の蛇の思惑通りに、全てが繰り返される。
朝目覚め、喰われるマリーを見捨てて、迫り来る人々から逃げ続け、全ての人類が世界の崩壊で死に絶える夜まで正太郎達は逃げ続けた。
朝が来ればマリーは、何事もなかったかのように蘇り、そしてまた喰われてしまう。
あらゆる天変地異を生き延びて、全人類から逃げ続ける日々。
繰り返される終わりのない絶望の世界で、メリルの心は次第に腐臭を放っていった。
世界の崩壊がリセットされても、メリルの精神が再生される事はない。
強い抵抗力を持ち、記憶を繋ぎ続けてきたグリムハンズだからこそ壊れてしまったのだ。
指導者を失った正太郎に出来たのは、がむしゃらにウロボロスを殺し続ける事だけだった。
大切な人を奪われた怒りを乗せて、それがどのような結果に陥るかを知りながら殺し続け、ついにウロボロスが太陽にまで頭を伸ばした頃――。
「意味を理解すればいいの」
七百三十九回目のループの夜明け直前、美月がウロボロス討伐の方法を口にした。
「ウロボロスが何だったのかを、言ってあげればいいの」
「ウロボロスが何なのかを?」
「どんな神話から生まれたのかを。そしてウロボロスを本に封印するの……」
「美月?」
度重なる輪廻で
人が持ち得る究極の力。
それは、この世でたった一人に受け継がれる力。
ファーストページは、世界に
円環に支配された世界において行使する事は、ウロボロスの深層意識と世界中の人々の深層意識に渦巻く神災級への絶望の声に耳を傾ける事。
膨大過ぎる情報量は、もはや人の許容出来る
さらにウロボロスの圧倒的な力により、グリムの能力行使が阻害されていた。
だからこそ美月が真実に辿り着くのに、膨大な時間を要してしまったのだ。
「世界を救って……正ちゃん」
「美月?」
「だいすき」
微笑みと共に紡いだ言葉を最後に美月は壊れ、二度と動く事はなかった。
そして――。
「顕現せよ! 輪廻の象徴ウロボロス!」
太陽系すら
強制的な顕現により、力が不安定となった事で、自身の存在を小さくしか保てなくなったのだ。
一度棘が触れれば最後、対象は原子レベルで分解される。
ウロボロスの攻勢は凄まじかった。
自身を強制的に顕現させられた事により、初めて恐怖を覚えたのだろう。
この少年をここで確実に殺さねば、自分が封印されるのだと。
丸太のような尾から繰り出される一撃は、容易く正太郎を捉え、全身の骨格を粉砕する。
正太郎は、イバラを体内に送り、砕けた骨に巻き付けた。
肉が裂ければ、イバラで縫い合わせ、皮がめくれればイバラで縛り付ける。
常人の知覚を超えた速度域で交わされる、万に及ぶ致命打の攻防の果て、尚も届かぬイバラの一撃。
大切なものは、全て失くした。
明日が見たいわけではない。
だけど、終わらせる事が出来るたった一人が膝を付く事は、きっと二人が許してくれないから。
痛みすら失い、脳が
意識の有無すら自覚出来なくなり、いつしか正太郎は、眠るように闇へ落ちていた。
正太郎が目を覚ました時、円環から解き放たれた世界は、翌日へと進み、正太郎の手には『ウロボロス』と書かれた紙片が握りしめられていた。
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