三頁「壊れた大切」
正太郎とマリーは、最も早い面会時間に病院を訪れた。
マリーと一番親しかった被害者であり、加害者の
「私、外に居る」
マリーは手練れのグリムハンズだが、その本質は十五歳の少女。
壊れてしまった大切な人を直視しろというのは酷だ。
「ここで待ってろよ」
マリーを廊下に残して、正太郎の病室の扉を開けた。
突如ヤギの断末魔にも似た甲高い声が響き、正太郎の入室を阻んでくる。
およそ人の声帯では出し得ない音の主は、二十代後半に見える女性であった。
若者特有のエネルギーは感じられず、遺体と見紛う程に生気を失った白い肌をしている。
両の手足は、拘束具でベッドに繋がれており、
正太郎は扉を閉めると、ベッドの傍らで膝を付き、恵理子と視線を合わせた。
「こんにちは」
挨拶をした途端、恵理子はヤギのような声を上げる事を止め、代わりに喉の奥を鳴らし始めた。
「……ア……ア……」
「どうしました?」
「ア……ア。あ、あ、あいつ」
「あいつ?」
「ばかめぇ!!」
咄嗟の事に防御が遅れ、爪で肉が
発狂の影響か、脳のリミッターが外れているのだろう。
一八〇センチ以上あり、普段から鍛えている正太郎を超越した怪力。これなら人間を素手でミンチに出来ても不思議ではない。
されるがままでは爪が食い込み、
正太郎が身体能力強化をオンにし、渾身の力で左腕を引き剥がすと、恵理子は爪の間に入った正太郎の薄皮と血をしゃぶりながら嬉々として言った。
「足がフサフサ。かわいいね。木が燃えてるよ! 危ない危ない! ぼわーんとモクモク! きゃーきゃー! にげてー! にげてー!」
行動も言動も一貫性がない。
正太郎は、自分が楽観視していた事を気付かされる。
簡単な証言なら聞けると考えていたが甘かった。人格が完全に破壊されてしまっている。
しかしマリーに辛い思いをさせてまで、ここへ来たのだ。手ぶらでは帰れない。
「お店で何があったんですか?」
「ヤギさん……ヤギさん。あたまはどこ?」
「ヤギ? 山羊ってなんですか?」
「ねぇ。頭は、何処オオオオオオ!」
再び恵理子の爪が首筋に迫り、正太郎は立ち上がりざまに、これを
近付く者は全て敵と認識しているのか、その認識すらなくしているのか。
恵理子の姿を見つめる正太郎に去来したのは、憐みでも狂気に囚われた恵理子への恐怖でもない。
あるのは、悪意への無垢な怒りと制裁の念。
「あんたの仇は、俺とマリーが討つよ」
正太郎は、会釈してから病室の扉を開けると、泣き出しそうな顔のマリーが居た。正太郎の首筋の血を見つけると、真っ青になって駆け寄ってくる。
「正太郎! 大丈夫!?」
「大した事ねぇよ」
マリーは、正太郎の首の傷に触れながら俯き、正太郎の胸に額を預けてくる。
正太郎は、マリーの頭に手を置き、撫でながら尋ねた。
「仲良かったのか?」
「ご飯作ってくれて、家に泊めてくれた。妹さんが亡くなってる。だから……」
マリーは十二年前、姉と共に日本を訪れ、それから程なくして姉を失い、以来一人で生きてきた。
人を寄せ付けず、人に頼らず、子供でありながら自分だけの力で。
これほど懐いている正太郎でさえ、援助を申し出た時、断られている。
そんなマリーが甘えていたのなら、素晴らしい人格者だったのだろう。正太郎の恩師でもあるマリーの姉を思い出させる程に。
「でも、もう……」
「……辛いな。医者は、なんて?」
そう問うと、マリーは正太郎から離れ、背を向けた。
「一生あのまま。脳を破壊されてる。あの人は……特に症状が重い」
「被害者は、症状に差があるのか?」
「軽い人は、多少は話せる。でも、事件の事、ほとんど記憶してない。警察も医者もお手上げ」
「症状の軽い者と重い者。何か共通点でもあるのか?」
「分からない」
「リストみたいなのあるか?」
「ある」
マリーは、スマホを正太郎に手渡した。
画面には、マリーがテキストソフトで作ったリストが表示されている。
死亡 四名。
重度 五名。
秋津恵理子 二十九歳。エリーゼ店長兼厨房担当。LSDに酷似した物質の過剰摂取による重度の精神症状あり。海宮正明を殴打し、殺害。
軽度 三名。
以上が被害者と症状の一覧である。
正太郎とマリーは、事件現場となったエリーゼに戻り、唯一壊れずに残ったテーブルの上にスマホを置いて、エリカ達にも被害者リストを見せた。
「僕には、さっぱり分からないよ」
「私も分かんないや」
エリカと薫は、リストを見ても、これといった閃きを得る事はなかった。
「涼葉さんは、どう?」
エリカに問われ、涼葉はスマホに表示されたリストを凝視する。
「まず年齢は除外出来るわね。症状の重さに、歳は関係ないみたい。性別も関係なし。となると後は職業ぐらいかしら……」
涼葉は、こめかみに指先を
その様子を訝しく思い、正太郎が声を掛ける。
「どうした涼葉?」
「確かに差がないように見えます。従業員にもお客にも重症者は居る。でも見てください。従業員の重症者は全員が厨房で働いていました。そして症状の軽い人はホール担当です」
重症者の秋津恵理子・白谷秀介・明智健吾は、いずれも厨房で調理を担当するスタッフだった。
同じエリーゼのスタッフでもホール担当だった牧明子と今村健太は、恵理子達に比べると症状は軽い。
「それに人を殺しているのも……エリーゼの厨房担当のスタッフだけです」
厨房に居た者が最も症状が重く、さらには狂気に任せて客を殺害している。
この事実を偶然で片付けていいはずがない。
厨房に何かしらの原因があったとするのが適当だ。
「でも悠木先輩、お客にも症状の差はありますよ?」
「多分だけれど、お客さんの座っている席じゃないかしら? 症状の重い人は厨房に近かったのかも……そこにワードが居た?」
厨房には何かある。警察が捜査をした際、何も起きていないなら今現在、ワードは潜んでいない。だが何かしらの役に立つ手掛かりが残されているかもしれない。
警察では見落とすような、もしくは証拠ともならない些細な物でも、正体を探る役に立つかもしれない。
正太郎は特殊警棒を手にすると、厨房へ続く
「俺が見てくるから、お前達は店の出口の近くまで離れてろ。まだ幻覚の原因になったものがあるかもしれねぇ。万が一俺が暴れたら――」
正太郎が言い終わるより速く、エリカ・薫・涼葉・マリーは、特殊警棒を握り締めて力強く頷いた。
「容赦ねぇな……」
「任せて先生! 日頃の恨み――」
「エリカさん!?」
「じゃなくて。先生が洗脳されたら、私達全力でぶっ殺っ……じゃなくて、助けるから」
「なんだろう。頼もしいんだけど、厨房よりもお前達の方が死地に見えるのは、気のせいか?」
「そんな事ないよ。ねーみんな」
「いや、エリカ目が怖ぇよ。俺の事殺してぇのか? 今朝仲直りしたよな?」
――今度、焼肉でも
もう一つの決意も固めながら正太郎は、スイングドアを押して、厨房に足を踏み入れた。
左側の手前に業務用の冷蔵庫があり、その奥にコンロが設置され、右側には流し台、中央には調理台がある。
少々手狭だが清掃は行き届いており、店長だった恵理子の人柄が
これと言っておかしい点も見受けられなければ違和感もない。
ごく普通の平凡を絵に描いたような厨房だ。
「何もねぇか……」
ワードが居た痕跡は、少なくとも正太郎には確認出来なかった。
探知能力に優れるグリムハンズであれば、何かしらの痕跡を見つける可能性もあるが、現状の面子でそれは望めない。
正太郎が厨房を出ると、殺気を剥き出しにした生徒達とマリーが出迎えてくれた。
「お前達、俺の事そんなに嫌いか?」
「先生、どうだった?」
「エリカ、無視か。そうか。とりあえず俺が見た限りでは何も」
エリカは、特殊警棒で右肩を叩きながら天井を仰いだ。
「じゃあ、厨房には何もなかった可能性もあるって事なの?」
「涼葉の見つけた共通点は、無視するには出来過ぎてる。今はなくとも、事件当時何かが居たのは、間違いねぇだろう」
「例えばですが、食材にワードが何かしたのかしら?」
涼葉の推理に、マリーは首を振った。
「胃の内容物は汚染されてない。でも店中からLSDと似た未知の物質が出た。だから警察は、薬物が店内に散布されたと判断した」
「症状の差を考えると厨房で散布されたのかしら? でもワードは、一体どんな方法で散布を?」
涼葉とマリーが推理に没頭していると、店の入り口のドアを叩く音が店内に響いた。
「誰かしら?」
ここは事件現場。エリカ達以外に用がある人物は、
「まさか警察とか?」
エリカが不安を口にすると、マリーの口元に笑みが灯った。
「大丈夫。許可済み」
「貰ってるの!?」
エリカの驚愕に、正太郎は呆れを隠さず、顔に浮かべた。
「忘れたのか? 警察にもグリムハンズを知る者は居る。マリーは、このあたりじゃ有名人だから上層部にも顔が効くんだよ」
「そっか。でも、じゃあこれは誰なの?」
エリカの、この疑問に答えたのは、薫であった。
「多分僕の鳥だよ。何か見つけたのかも」
「まったく薫君は。紛らわしい奴め」
「ごめん沙月さ……なんか謝るの納得いかないんだけど」
「亀城。エリカの相手しなくていいから早く鳥から情報聞け」
薫がドアを上げると、一羽のスズメが薫の肩に飛び乗った。
耳元で数度鳴き声を上げてから飛び去ると、途端に薫の顔色が青ざめていき、
「先生! この店の裏にワードが来てる!」
正太郎を先頭に五人は、裏口から繋がる非常階段を駆け下り、エリーゼの入っているビルの裏手に向かった。
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