二頁「空谷町」

 空谷町からたにちょうは、東京でも有数の歓楽街である。

 午前〇時を過ぎているのに、町は眠る事を拒絶するかのように賑やかだ。

 マリーが先頭を歩き、後ろを童話研究会が付いていき、メインストリートである神室かむろ通りを進む。


 いかがわしいネオンサインが視界を埋め尽くし、すれ違う人々は酒臭かったり、中には嗅いだ事のない甘ったるい香りを漂わせる者もいた。

 お世辞にも治安が良い地域とは言えず、本来子供の立ち入ってよい場所ではない。


 この界隈で制服姿は面倒が多いため、正太郎以外は一旦家に帰り、私服に着替えて来ている。

 エリカは、赤いチェック柄のシャツにベージュ色のハーフカーゴパンツ。

 薫は、紺色のサマージャケットの下に白いシャツ、ボトムズはジーンズ。

涼葉は、黒いTシャツとデニムパンツだ。

 黒のワンピース姿のマリーは、空谷町のギラギラとした空気に馴染んでいる。

 町の一部が少女の姿を借りて歩いているようだった。


「不思議な子ね。エリカちゃんみたい」


 涼葉の呟きに、エリカが首を傾げた。


「私?」

「ええ。マリーちゃんとあなたは、どこか雰囲気が似ている気がするわ」

「……実は、私もそんな気がする。なんとなくだけど」

「ええ。桜でありながら業火でもある。美しさと苛烈かれつさを併せ持っている……そんな感じかしらね」

「……それ褒めてないでしょ!!」

「ごめんね。上手く言葉に出来ないわ」


 エリカは、わざとらしく頬を膨らませてねたが、ふと涼葉が肩に担いでいる大きなプラスチックケースが目に付いた。


「そういえば涼葉さん。気になってたんだけど、その荷物はなに?」

「ちょっととした貰い物よ。大きな声じゃ言えないものかしら」

「エロ本でしょ?」

「エリカちゃんって、時々親父臭い事言うわよね」

「そうかな? で、どんなエロ本?」

「もう……」

「二人とも。馬鹿話はそこまでだ」


 釘を刺しつつ正太郎が指差したのは、エリカ達から見て左手にある雑居ビルの三階だった。

 この町では珍しくネオンは灯っていないが、周囲のやかましい明かりのおかげで創作料理エリーゼと看板に書かれているのが読める。

 エリカ達は、マリーの先導で三階のエリーゼに入った途端、店内の惨状に目を奪われた。


 テーブルや椅子だったと思しき大量の木片がワインカラーの絨毯に散乱し、至る所に人の物と思われる噛み跡や爪痕が残されている。

 木片を見れば、しっかりした作りのテーブルであったのが素人目にも窺えるし、絨毯じゅうたんも分厚い。

 普通の人間の顎や指の力で、ここまで破壊出来るのだろうか?


 煉瓦れんが色のタイツ模様の壁紙は、赤黒い血痕や吐しゃ物が染み込み、異臭が鼻腔びくうを痛め付ける。

 ほんの最近まで人々に美味と笑みを提供していたであろう空間には、死と暴力のみが残されていた。


「マリー。ここで何があった?」


 正太郎が尋ねると、マリーは唇を一度噛んでから開いた。


「この店、評判の創作料理店だった。でも三日前――」







 事件が起きたのは、三日前の午後十時二十七分。

 エリーゼの下の階にある雀荘から『三階のレストランが騒がしい』と通報。最初に駆け付けた二名の制服警官は、現場の異様な光景に絶句した。

 崩壊した店内で、十数人の人々が血塗れの姿で呻きながら、のた打ち回っている。


 二人の制服警官は、男女のペアであったが、いずれも苦しむ人々を助けようとも、現場で何が起きたかを尋ねようともしない。

 二人を弛緩しかんさせた原因は、三名のコックだった。


 一人は、コック服を着た若い女性である。

 純白だったコック服は、乾いた返り血と嘔吐物、さらには人間の出し得るあらゆる体液が染み込み、どどめ色に染まっていた。

 彼女は、人間だったと思しきものに馬乗りになって、赤黒いゼリー状の物体を殴り続けている。

 乾き始めた血塊けっかいか、あるいは血染めの臓器なのか。

 女性が嬉々として拳を振り落す度、ビシャリ、ビシャリと水音が響く。女性は高笑いしたかと思うと、絶望に唇を歪め、床に散らばる赤黒いゼリーを舐め回した。


 彼女の背後では、コック服の若い男性が何かを口に含んで、飴玉みたいに舐めている。

 何度か舌の上で転がすと、床に吐き捨てた。

 それは充血した眼球であった。

 数分、眼球をぼーっと眺め、指で摘まんでまた口の中に放り込む。

 彼の傍らには、首から上がすり潰された女の遺体が転がっていた。


 また別のコック服の男が清掃服に身を包んだ男の首に手をかけて、よだれを垂らしている。

 二名の制服警官は、いずれも清掃員の男を助けようとは動かなかった。既に死斑が出始めており、もう亡くなっているはずだと。

 いや、二人はそれを理由にしたに過ぎない。本来ならわずかな可能性に賭けてでも清掃員の男性を助けるべきだ。

 しかし二人の考えは、共通していた。


 もしもあの男に近付けば、自分達が殺されるに違いない。

 人間の修羅場を見続けてきた彼等は恐怖に屈し、動かない事を選択した。

 そして十数分もの間、傍観者で居続けた後、女性の制服警官が無線を手にし、応援要請をした。

 駆け付けた捜査員達が、二人の制服警官といずれも同様の反応であったのは、言うまでもない。


 最終的な死傷者の合計は、店のスタッフも含めて十二人。

 死亡したのは四人。

 生き残った者の事情聴取が行われたが、全員がまともに話の出来る状態ではなかった。

 殺人を犯した者は、特にひどい錯乱状態であり、

 

『来ル……アタマ……頭ァァァ!』


『あたまは? さがそうね。探そうね!』


『ねぇ。山羊ヤギさん。頭ハ、何処オオオ! 隠さないで!!』


 絶え間なく意味不明な言葉を口走った。

 精神科医によれば、何かを伝えようとしている可能性もあるらしいが、現場となった店には山羊に関連するものはない。

 比較的軽症の被害者から得られた証言も曖昧であったが、唯一の共通点が幻覚を見た事だった。







 マリーから警察の捜査状況を聞かされ、エリカが気に留めたのは、幻覚という単語だった。


「あのさ、どんな幻覚だったの?」

「支離滅裂。一貫してたのは、発狂する狂気」


 マリーの言うように、普通の事件ではない可能性が高い。

 エリカは、そう結論付けようとしたが、正太郎が異を唱えてきた。


「ワード以外の可能性はねぇのか? この辺りは日本でもトップクラスの治安の悪さだ。ドラッグもそれなりに出回ってるだろ?」


 人に幻覚を見せて、狂気に駆らせるのはワードだけではない。

 薬物の過剰摂取でも幻覚を見る事はあるだろう。

 正太郎の推測に、マリーは渋々と頷いた。


「被害者全員、この現場から薬物反応が出た。LSDに近い。でも未知の物質。それが引っ掛かる」


 客の乱闘騒ぎの原因は、恐らく幻覚を見た事。そして被害者から検出された未知の物質。

 エリカからすれば、ワードの仕業であるとするマリーの主張を裏付けるのに、十分すぎる証拠だ。

 しかし正太郎は、懐疑的な態度を崩さなかった。


「正体に、見当はついてんのか?」

「ついてない。だから正太郎を呼んだ。正太郎、分かる?」

「見当もつかねぇな。ワードの仕業って線も確実じゃねぇし」

「絶対絶対ワード!」


 声を荒げたマリーの顔に普段の涼しさはなく、正太郎に信じてもらえない悲しみとぶつけ所のない怒りで塗り潰されている。

 気まずそうに眉を掻きながら、正太郎は薫に視線を向けた。


「亀城。裏路地のゴミ置き場に、血を染み込ませたパンを撒いといてくれ。町を偵察してほしい」


 正太郎は、ズボンの後ろポケットから二つ折りの皮財布を取り、薫に投げ渡した。


「了解……コンビニ行ってきます」


 薫は、財布を握り締めて、店を出て行った。

 その姿を見送ってから最初に口火を切ったのは、涼葉である。


「如月先生。私とエリカちゃんは、何すれば?」

「俺と一緒に推理だ。犯人がワードならどんな奴か。そもそもワードなのか」

「絶対ワード」


 マリーの声が先程よりも、鋭さを増している。


「ワードと断定する決定的な証拠はねぇだろ?」

「信じないの?」

「決めつけて動くのは危険って事だ。これが薬物の過剰摂取や混入事件だったら、俺達が首を突っ込むべきじゃない」

「ここのスタッフやお客さん、よく知ってる。ドラッグなんか、やらない!」


 マリーの一声が正太郎を口籠らせた。


「絶対、ドラッグなんか……やらない……」


 悲哀に飲まれ、消え入りそうなマリーを現実に繋ぎとめるように、正太郎はまっすぐ見つめた。


「知り合いだったのか?」

「家族……だった」


 正太郎は、ばつが悪そうな顔をした。

 大切な人々に危害が及んだからこそマリーは、ワードの存在をかたくなに信じている。

 涼葉と出会った時のエリカもワードの仕業であれば、自分が助けられるからそうあってほしいと願っていた。

 マリーもワードが相手なら、復讐する大義名分を得られる。


 エリカのマリーに対する共感は強かった。もしもマリーの立場に追い込まれたら、同じように考えるだろう。

 自らの手で裁きを下せる相手であってほしいと。

 そんなマリーの心情をなだめるように、正太郎はマリーの頭に手を置いて髪を一撫でした。


「手伝うよ」


 そう告げると、マリーは笑みを零し、猫のように正太郎に擦り寄った。

 正太郎は、鬱陶しそうにマリーを引き剥がすと、改めて店内の様子に目を向ける。


「しかし幻覚か。対象となる物語が多すぎてどれだかなぁ」

「幻覚を見せるワードって多いのですか?」


 涼葉に問われると、正太郎は右手の親指と人差し指で顎を撫でつつ言った。


「幻を見せるってのは、物語の代表的な類型るいけいの一つだ。その手のワードの発生例は多い。有名所だと、マッチ売りの少女だろうな」


 世界中の人が知っている有名な童話だ。

 マッチ売りの少女が暖を取るためにマッチを擦る度、幸せな幻を見るが、最後には寒さで死んでしまう。


「ただ可能性は低いな。マッチ売りの少女をモチーフしたワードなら前に倒した事がある」

「如月先生が?」

「ああ。三年前ドイツでな。マッチ売りの少女の主演級メインクラスワードは、身体から炎を出し、炎を見た者に幸福な幻覚を見せて誘い込み、焼き殺すというものだった」


 被害者が幻覚を見て、発狂し、乱闘を始めた。

 幻覚の内容の詳細は、証言が支離滅裂で不明。

 LSDに似た未知の物質が被害者達から検出されている。

 これらのヒントがどのような物語に導いてくれるのだろうか?

 答えを辿りつくには、会心の手掛かりとは言えない。

 推理が硬直し、場の空気がよどむ中、声を上げたのは涼葉であった。


「マリーちゃん。被害者から薬物成分が検出されているのよね?」

「そう」

「ワードの力って科学的ではないわよね。魔法じみた、いうなれば物理法則を無視した力を、私達グリムハンズもワードも行使出来る。それにしてはLSDって随分現実的というか……」


 涼葉の言わんとする事が分からず、エリカの困惑は深まっていく。


「未知の物質って時点で、魔法じみてない?」

「エリカちゃんの言う事も分かるわ。でもLSDっていうのが具体的過ぎて引っかかるの……思い過ごしかしらね?」


 何の気なしのエリカの指摘に、涼葉がしおれていき、罪悪感が胸を刺す。

 助けを求めて正太郎を一瞥いちべつすると、やれやれ顔で頷いた。


「涼葉のそれ案外いい線行ってるかもな。マリー、ワードの姿は目撃されてねぇのか? 例えば、被害者が幻覚だと思っているモノがワードって事もあるだろ」

「分からない……ここ二日ぐらい……会ってなかった」

「なんで?」


 何の気なしにエリカは聞いた。何かの意図を持っていたわけではない。

 マリーが被害者に会わない理由を純粋に知りたかっただけだった。

 しかし俯いてしまったマリーの反応が、エリカに地雷を踏んだ事を自覚させた。


「ご、ごめん」


 不用意に一番聞いてはいけない事を聞いてしまった。

 後悔もすでに遅く、マリーの白い頬を涙が伝い落ちていく。


「あの……」


 そんな最悪のタイミングで帰ってきた薫は、最高潮に気まずい雰囲気に圧倒されながら正太郎に財布を返した。


「沙月さん……どうしたの?」

「エリカが泣かせたんだ」

「エリカちゃんが泣かせたわ」

「ちょっと先生! 涼葉さんも!? 違っ!? いや違わないけど、やっぱ違っ……わないけど、私のせい……だよね。はい。ごめんなさい。黙ります」


 とりあえず余計な事を言わずに黙っていようと、決めるエリカであった。

 しかし状況が飲み込めず、薫の戸惑いは一層増していく。


「僕に何があったのか説明してくれる? ねぇ先生?」

「マリー。明日になったら病院に連れて行ってくれ」


 黙って頷くマリー。


「僕だけ蚊帳かやの外か」


 疎外感に苦しむ薫であった。

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