第七章:それぞれの想い

一頁「エリカと涼葉の想い」

 山羊が居る。


 やぎがいる。


 ヤギガイル。


 其処に、あそこに、ココニ。


 狂気は群れに。狂気は一つに。


 夜が牙を剥き、淫靡いんびな音色を奏でて踊る。


 朝まで踊れば、全てが終わる。夜明けが来れば、全てが変わる。


 この世界は、永遠に続いていく。私の甘く腐れた意識の中で。


 悲しまないで、赤ずきん。


 あなたの見つめる私は、もう私ではないから、悲しむ事はないんだよ。







 夏の重ったるい朝露あさつゆを切り裂き、矢が的を射抜く。

 彩桜高校の弓道場で悠木涼葉は、指に残る弦の感触に眉をひそめていた。

 弓矢という道具は、今ではスポーツに用いるようになっているが、元を辿れば命を奪うために作られた物だ。

 最初は、食べるための獲物を奪うために。

 銃が登場するまでは、より確実に人を殺傷するために。


 武器。戦うための力。

 それは、悠木涼葉に足りないもの。

 親指姫サンベリーナは、便利なグリムハンズだが、決定的に欠けている物がある。直接的な戦闘能力である。

 忠臣ヨハネスのワードとの戦いで、涼葉は自身の非力さを思い知らされた。

 エリカや薫が傷付いていく最中、傍観者でいる事しか出来なかった。

 グリムハンズのおかげで身体能力は、常人の数十倍以上あるが、単純な腕力で立ち向かえる程ワードは甘い相手ではない。


 睡眠作用を持つイバラを発生させ、拘束にも応用出来る茨姫リトルブライアローズ

 ガラスを操り、規格外の破壊力を持つ灰かぶり姫シンデレラ

 血を摂取した動物を操り、血で作った三匹の家来は、鉄をも切り裂く力を持つ桃太郎。

 涼葉の周りに居るグリムハンズは、ワードの超常性に匹敵する武力を持っている。


 小さい分身を発生させる程度、何の役に立つか分からない。

 力が欲しい。せめて仲間の隣に居る事が許されるだけの力が。


 ――それが手に入らないなら、きっとあの場所を居場所と呼べなくなってしまう。


 涼葉は、ここ数日童話研究会に顔を出さず、弓道場へ通い詰めて矢を射続けていた。

 時に慰めとして。時に現実への逃避手段として。時に力への欲望の発露として。


「最近気合が入ってるね」


 涼葉が振り返ると、弓道着姿の小柄な女性が肩にプラスチック製のライフル用ガンケースを担いでいた。


吉住よしずみ先生」


 吉住かおり。弓道部の顧問だ。

 四十代ながら、可愛らしい印象を抱かせる人だが、


「でも、どこか刺々しい気配を感じるね」


 人の内面を見抜く事に長けた女性であった。


「あなたの求めている物は、ここにないね」

「私の求めている?」


 試すつもりで尋ねてみるも、


「殺意ね。何かを殺す手段」


 涼葉の考えは、お見通しだった。

 香は、ガンケースを床に置くと、開いて中身を見せてきた。


「吉住先生、これは……」

「的をための物ではない。狙った獲物をための物ね。あなたの矢には殺気が乗っている。何があったのかは、分からないけどね……」


 香には、グリムハンズについて話していない。けれど直感的に、あるいは武に携わる者の本能で涼葉が荒事に関わってると察しているのだろう。


「あなたが誰かに危害を加えようとしているとは思わない。きっと必要な事なんでしょうね」


 穏やかな声で諭してくれるが、眼差しには、強い意志が宿っていた。


「だけど今の気持ちで、この場で矢を射る事はしないでほしいね」


 的を射るための矢ではなく、相手を射殺すための矢。

 香にとってそれは、弓道への冒涜に等しいのだろう。


「すみません。そしてありがとうございます」


 涼葉は、香に頭を下げるとガンケースを担ぎ、弓道場を後にした。







 正太郎がドイツから帰国して一週間。

 エリカは、早朝正太郎の住むマンションを訪れるようになり、屋上で警棒の訓練を付けてもらっている。

 灰かぶり姫シンデレラは、破壊力が高い反面、攻撃の隙が大きく非常に取り回しが悪い。

 ヨハネスのワードと戦った時のように、接近戦に持ち込まれた際の脆さは致命的。

故に警棒の扱いにも慣れておこうと思い立ったのだ。

 エリカの手捌てさばきは粗削りだが、正太郎に危ういと思わせる場面も増えてきている。


「エリカ、脇が甘いぞ」

「なら!!」


 エリカの振るった警棒の先端が正太郎の左頬を掠め、


「悪くねぇが――」


 正太郎の警棒は、エリカの左肩を打ち据える寸前で止まった。


「まだまだ甘い」

「くそ……」

「よし。この辺にしとこう」

「えー負けたまま終わり?」

「詰め切れないお前が悪い」

「なにそれ!」


 エリカは不満を露わにしたが、そろそろ登校しなければならない時間だ。

 正太郎が警棒をジャケットのポケットに収めると、


「先生」

「ん?」


 エリカの声には、遠慮が染み込んでいる。


「どうした?」


 正太郎が先を促すと、エリカは戸惑いがちに喉を震わせた。


「ドイツで何してたの?」

「政府筋の仕事だ」

「関わっちゃダメ?」

「ああ。でも巻き込んじまいそうでな……」


 正太郎に浮かぶのは、心の芯から湧き上がる恐怖だ。

 エリカを巻き込む事が、正太郎にとってワードと対峙するよりも恐ろしく思えているのだろう。

 対する沙月エリカにとっての恐れは、如月正太郎が知らぬ間にどこか遠くへ行ってしまう事だ。


「別に恨まないよ。巻き込まれるなら、無視の方がやだ」


 時折正太郎の姿は、儚い灯に見える。

 見守り続けないと、いつの間にか消えてしまいそうだ。


「ちゃんとね、言葉にしてほしい。どんな事でも受け止めるから」


 誰かを大切に思える感情を取り戻させてくれた人。

 孤独の辛さは知っているから、恩人に同じ道を選んでほしくない。


「悪かったな、エリカ」


 正太郎は、曖昧な笑みを浮かべてエリカの頭を一撫でした。

 これが彼なりの懸命な意思表示なのであろう。だから今は、これ以上望まない。


「うん。じゃあ仲直りね」

「ああ。仲直りだ……でもこれは返せよ」


 正太郎の手にチェック柄のトランクスが握られている。

 エリカは、咄嗟にスカートのポケットをまさぐった。


「な、ない!?」

「ったく。最近一枚足りねぇなぁとは思ってたんだよ。実行犯は、涼葉か?」

「特選鯖の一夜干しと引き換えに……」

「ネクタイはともかく、これはやめろ、マジで」

「返してよ! 使うんだから!!」

「何に、とは絶対聞かねぇからな」


 正太郎がトランクスをジャケットの右ポケットに突っ込んだ瞬間、マンションに通じる扉が開かれた。

 現れたのは、エリカと同じ年頃のヨーロッパ系の少女である。

 白雪のように透き通った肌と腰までまっすぐ伸ばしていた黄金の髪に、黒のワンピースがよく映えている。

 職人が丹精込めて作り上げた人形のように均整の取れた顔立ちは、エリカの視線を掴んで離さない。

 服装は、黒のワンピースで首に赤いマフラーを巻いている。

 美しさばかりではない。彼女の姿には見覚えがある。

 ヨハネスのワードと戦った時、巨大な銃を操り、エリカの命を助けてくれた少女だ。


「よう」


 正太郎の砕けた口調で、二人が旧知の仲である事をエリカは悟った。

 薫が言っていた正太郎が頼りにしているグリムハンズというのが彼女であろう。

 この年頃で正太郎が信頼を寄せるのだから、相当な手練れであるのは、想像に容易い。


「先生。あの子は?」

「マリー・マクスウェル。十二年前、イギリスのコーンウォールで知り合ったマクスウェル流のグリムハンズだ」

「マクスウェル流?」

「如月流みたいに媒介を必要とせず発動出来る、最も一般的なグリムハンズの流派の一つだ。精神統一して、自分の能力をイメージする事で発動する。一見便利だが、パニックになって精神乱したら発動しないからな。強い精神力が求められる」

「へぇ……それで彼女とはどういう関係? 愛人?」

「俺をロリコンにすんな。昔馴染みだ。ヨハネスの一件も彼女に頼んだんだよ」


 マリーは、エリカと向かい合うと、ほんのりと笑みを浮かべて握手を求めてくる。


「よろしく」


 抑揚のない声音だったが、何故か愛想がよく感じられた。

 気高くも気取っていない態度がマリーの美貌を一層彩っている。


「よろしくね。沙月エリカです!」


 あえて自分らしく覇気のある声で握手に応じると、マリーは数瞬笑みを強めたが、握手を終えた途端、正太郎を一瞥いちべつして頬を膨らませた。


「正太郎。お礼して」


 正太郎は、舌打ちながら顔をくしゃくしゃに歪めた。


「覚えてやがったか……」

「約束は守らないとダメ」

「やだっつったら?」


 正太郎が嫌みたらしく破顔すると、突如マリーの右手に拳銃が現れ、放たれた弾丸が正太郎の髪を掠めて飛んだ。


「バカヤロウ!! 気軽にぶっ放すなっていつも言ってんだろ!!」

「また当たらない。それにサプレッサーも付いてるから音も静か」

「そういう問題じゃねぇだろ!! このトリガーハッピー!! どうせ厄介ごと押し付けようとしてんだろ、てめぇ!!」

「そう」

「そう、じゃねぇよ!!」


 マリーは、頬を膨らませて、あからさまに機嫌を損ねている。

 中々難儀な性格をしているらしいが、ヨハネスのワードから命を救われた借りもある。

 こちらに銃口が向くのも嫌なので、一先ずエリカはマリーを援護射撃する事にした。


「せんせー。約束は守った方がいいよ」

「うるさい。こいつが持ってくるのは、マジで厄介ごとばっかりなんだよ」

「でも約束したんでしょ? 約束破るのは、教師としてどうなの?」

「エリカ、援護感謝」

「この前、命を助けてもらったお礼だよ」


 マリーは、相当突飛な人物である。

 さらに対して正太郎に恋心を抱いているようだ。

 本来なら恋敵として憎むべき相手なのだろうが、何故かマリーからは、自分と似た何かがあるような気がした。


 ――友達になりたい。

 

 マリーも同様らしく、エリカには柔らかい笑顔を向けてくれる。

 二人掛かりには敵わないと見たのか、正太郎は項垂うなだれながら両手を上げた。


「降参。女のこういう時の連帯感って嫌いだわ。で、どんな仕事なんだ?」


 正太郎の問いに、マリーから笑みが消え失せ、二つの碧眼が猟犬の如き鋭い光を発した。


「私の縄張りで事件が起きた」

「どんなワードだ?」

「人を錯乱させる。でも詳細は分からない」


 マリーから与えられた情報は、漠然ばくぜんとしている。

 しかし人を錯乱させるというキーワードだけで、どれほど厄介な存在かを認識させる。

 正太郎も珍しく警戒心を露わにしていた。


「わかった。昼間は目立つから夜に空谷からたにで合流だ。で、どうする?」


 正太郎の視線は、エリカに向いている。

 意図を組めずに、エリカは肩をすくめた。


「巻き込まれるかって、聞いてんだよ」


 人を錯乱させる能力は、相当に危険なワードだ。

 来るなと言われると思っていたエリカには、思わぬ朗報である。


「いいの?」

「俺も一緒に行くから構わねぇよ。じゃあ童話研究会、上京といくか」

「おー!」

「東京デート開幕」

「デートは今度な……って、だから銃口を向けんじゃねぇ!!」


 エリカの機嫌を損ねる事を恐れただけなのか。

 それとも少しは、信頼してくれるようになったのか。

 本当の意図は分からないが、正太郎と一緒に居られる事が何より嬉しく思えた。

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