四頁「悪魔の幻惑」

 童話研究会の面々が古めかしい自動販売機が二台と、散乱したゴミがあるばかりの狭い裏路地に辿り着くと、霧のように揺らめく異形がたたずんでいた。

 背丈は、成人男性と大差はない。

 上半身は樹木のようで、幹の部分は青カビに覆われてねじじれており、伸びる枝は水気を失い、枯れている。表皮には燃えるような赤黒いひび割れが血管のように走っており、時折火花が散っていた。

 下半身は、山羊が直立したようであり、黒く長い毛を絡ませて海藻みたいに垂れ下がっている。


『ヤギさん。あたまはどこ?』


 要領を得ないと思っていた恵理子の言葉は――。


「こいつの事を言っていたのか!」


 方法は分からないが、このワードが厨房に現れ、エリーゼに居た人々を狂気に駆らせた。

 どんな技を使ってくるか分からない以上、接近戦での対応は避けるべきだ。

 幸いここに居る全員が距離を取って戦う術を持っており、その点で不足はない。


 問題は、ワードの正体だ。

 レストランを襲い、料理人を発狂させ、人を襲わせる。

 一連の行動をとった理由は?

 正太郎の考察を切り裂くようにワードが身震いすると、幹の部分から灰色の粉が宙を舞った。


「如月先生、あれが発狂の原因じゃありませんか!?」

「任せて涼葉さん!」


 エリカは大きく一歩踏み出し、右人差し指の付け根を噛み切ると、ビー玉を握り締めた。


「何かする前に、ぶっ飛ばしてやる!」


 粉を吸い、発狂する。本当にワードの能力は、それだけなのだろうか?

 LSDに近い成分が検出された事も何かの物語と繋がっているはずだ。

 そもそも何故エリーゼがワードに狙われたのだろうか?

 エリーゼという店名に何か関係があるのか、それともマリー・マクスェルというグリムハンズと懇意こんいにしていた事と関係があるのか。


 ――LSD?


 どこかで読んだ覚えのある物語だ。

 マリーの出身地は、イギリスのコーンウォールであるが、その事と関係があるのか?


 ――コーンウォールを舞台にした物語?


 ワードの下半身は、山羊のようである。

 何かのモチーフ?

 黒い山羊が象徴する物は、マリーと関係があるなら西洋の何か。山羊が象徴する代表例は悪魔だ。

 上半身は植物であり、これは植物を現しているのは間違いないが、何故下半身が山羊の足になっているだろうか?

 ワードが繰り出したあの粉末は、LSDに近い成分を持っていると考えて間違いない。

 植物の下半分は根だ。つまりは、根の部分が悪魔を象徴する山羊の足の形をしており――。


「まさか……」


 イギリス生まれのグリムハンズを狙うワード。

 彼女の生まれは、コーンウォール。

 植物を象徴するワードでありながら下半身は、山羊の足。根の部分が悪魔を象徴している。

 悪魔の根。悪魔の足。

 幻覚。発狂。

 そして厨房にしかない物――。


「グリムハンズ! 灰かぶり姫シンデレラ!」

「エリカ! 攻撃やめて離れろ!」


 エリカがアスファルトに拳を叩きつけると同時に、ワードの表皮から飛び散った火の粉が粉末を燃やし、白煙と化して路地に充満した。


「みんな息を止めろ! 絶対に煙を吸うな!」


 正太郎の指示に薫・涼葉・マリーは、すぐさま口元を手で覆ったが、エリカはその場にへたれ込んで宙を仰ぎ見ている。

 グリムハンズ発動時の隙で反応が遅れてしまい、煙を吸い込んでしまったようだ。

 エリカは、ぽつりと呟いた。


「わたしのせいだ……」


 エリカの声に宿るのは、正太郎と初めて出会った頃の絶望である。


「吸っちまったか!」


 正太郎は、エリカを抱き上げると、


「全員息を止めたまま店の中へ逃げこめ!」


 正太郎の指示を受けた全員が非常階段を駆け昇り、裏口からエリーゼの店内になだれ込んだ。







「化け物」


 ――違うよ。


「化け物」


 ――違う……私は、化け物じゃない。


「お前は、化け物だ」


 ――お母さん、なんでそんな事言うの? お父さん、なんで怒っているの?


 思い出せ。お前の罪を。


 思い出せ。お前のとがを。


 結晶の中で光がゆらゆら揺れている。

 赤から黒へ。黒から白へ。

 血は、炭に。炭は、灰に。


 皮は裂け、肉は千切れ、骨は砕け、後に残るは血溜まりばかり。

 誰のせいだ?


 ――私じゃない。


 お前のせいだよ。


 ――あなたは、誰?


 お前の罪だよ。


 ――私は、何も悪い事してない。


 母を殺した。

 父を殺した。

 叔母も、従兄弟も、友達も。

 なのに、お前はいつだって罪から逃げるんだ。

 警察からも逃れたね。

 あの時、罪を告白するべきだったのに。


 ――私は、悪くない。


 仲間に出会って満足げ。

 奪ったものの重さも忘れて、毎日楽しくヒーローごっこ。


 思い出せ。

 お前が起こした血の罪を。

 両親を引き裂いた日の事を。


 あの時二人は、何と言った?

 お前を見て、何と言った?


 ――あの時……お父さんとお母さんは。


「しっかりしろ!」


 ――違う。そんな風には言ってない。


 もっとよく思い出せ。


「エリカちゃん!」

「沙月さん!!」


 ――うるさい……うるさい。


 雑音に耳を傾けるな。

 自分の罪を見据えろ。

罪から逃げるな。

 もう夢すら見なくなって忘れたか。

 あの言葉を――。


『化け物』


 ――あなたは、誰?


 私は、お前。


 私は、あなた?


 あなたは、私。


 私は、あなた。


 私は、化け物。


 だから救われちゃいけない。


 幸せになっちゃいけない。


 闇の中に居続けて、自分を許しちゃいけないんだ。


「エリカ!!」


 誰?

 化け物を救おうとするのは?

 でもね、救われてはいけないんだ。

 私は、化け物だから。

 叫び続けるんだ。

 この闇の中で永遠に――。


「お父さん! お母さん! ごめんなさい!! 許してぇ!」


 それが咎人には、お似合いだ。


「エリカしっかりしろ! エリカ!」


 だから、優しい声の人、もう私の名前を呼ばないで。

 私に救われる資格なんか――。


「しっかりしろ!」


 甲高い音と共に、真っ暗だったエリカの視界に光が差し込んだ。

 頭が杭でも打ち込まれたように痛み、左頬も刺すような痛みを訴えてくる。

 状況が呑み込めない。さっきまで何をしていたのか、今自分がどんな状態なのか。


「エリカ! 俺が分かるか!?」


 はっきりと分かるのは、身体を抱く温もりと、不安げに顔を覗き込んでくる仲間の姿。


「きさらぎ……せん、せい?」


 一番泣きそうな顔をしている人の名前を呼んでみる。

 すると正太郎は、安堵の笑みを浮かべ、エリカの身体を固く抱きしめた。


「よかった……帰ってきた」


 エリカの思考を覆っていたかすみが徐々に晴れていく。

 そして思い出す。ワードと相対した事を。敵にガラスを放った瞬間以降の記憶がない事を。


「何があったの?」


 正太郎は、赤くなったエリカの左頬を擦った。


「ワードの出した粉末の幻覚作用にやられたんだ。煙は、少ししか吸い込んでなかったみたいだな。悪い。ほっぺた痛いだろ。しこたま引っ叩いたからな」

「うん。すごい痛い。頭と同じぐらい」

「痛いのは、生きてる証拠だ」

「その台詞……ムカつく」

「だけど、お前のおかげで正体が掴めたよ。あれはシャーロック・ホームズに出てくる悪魔の足だ」

「悪魔の足?」

「モーティマーという男が自分の兄妹を殺すために使った毒薬だ。妹の恋人であるスターンデールがアフリカから持ち帰ったもので、燃やした煙を吸った人間は、発狂して死に至る。作品の舞台になったのは、イギリスのコーンウォール。静養に来ていたシャーロック・ホームズが事件に巻き込まれる話だ……」


 正太郎の説明を終える頃には、マリーの瞳に殺意を宿っていた。


「私はコーンウォールの生まれ……だから私のせいで……皆が!!」

「違う! マリー、お前のせいじゃない。いいな?」


 正太郎の言葉は、暖かい。

 救われたばかりのエリカには、一層深く理解出来た。

 けれど重荷が全て消え去ったわけではない。

 幻覚の最中、聞こえ続けた罪をとがめる言葉が、今でもエリカの心をむしばんでいる。

 それでも――。


「マリー。気にするなと言っても難しいだろうが、今はワードを倒す事に集中するんだ」

「分かった……」


 正太郎の言うように、今は敵を倒さなくてはならない。

 自分の苦しみに負けず、使命を果たさねばならない。

 エリカは、上体を起こし、正太郎から離れて床に座り込んだ。

 まだふらつきが残っている。立ち上がれるようになるまでは、しばらくかかりそうだ。


 正太郎がエリカの身体を支えようと両手を伸ばすが、エリカは視線でやんわりと制する。

 正太郎は、伸ばしていた右手でエリカの頭をポンっと優しく叩いてから、纏う気配を歴戦の戦士へと変化させた。


「続きを話すぞ。この悪魔の足っていう植物は実在しないんだが、成分については、いくつかの説があって、その一つがLSDではないかと言われてる。被害者の体内から発見されたLSDに似た未知の物質ってのも説明がつく。悪魔の足は、燃焼する事で毒性を発揮する。厨房にしかない物。火だ。奴が厨房に出現して撒き散らした粉末は、火の粉で着火するまでもなくコンロの火で炙られて大量の煙が発生しちまった」


 マリーは拳を握りしめ、青い瞳を憎悪の赤に染めている。


「あいつが……私の大切な、家族を……」


 エリカがマリーに慰めの言葉を掛けようとした瞬間、ドスンっと岩が歩いてぶつかってきたような重い音が、エリーゼの入り口のドアから響いた。


「先生、あの音って?」


 エリカが見やると、正太郎の頬を汗が一筋伝い落ちた。


「お前が気絶した時、厨房の裏口から店に入って、裏口の扉を俺のイバラで封鎖したんだが、裏口からの侵入は不可能と見て、正面に回ってきたな。しつけぇ奴だ」


 これだけのグリムハンズが居るのに、ワードは畏れていない。

 恐らく勝算があるのだろう。あのワードの幻覚に抗うのは不可能だ。

 幻覚を見せる灰を吸い込んだ時点で、確実に戦闘不能となる。


「先生、どうやって倒すの? あの幻覚の効果やばいよ」

「なんとかする。とにかくお前は休んでろ。身体に相当負担がかかってる。無理するな」


 またもワードの身体がドアにぶち当たり、蝶番ちょうつがいのネジが一本吹き飛んだ。

 耐えられて、あと一回か二回が限界だろう。


「外におびき出すのも大勢の人間を発狂させる危険がある。店の中に奴が入ってきた瞬間、俺と亀城のグリムハンズで拘束。粉末をばら撒く前にマリーのグリムハンズで仕留めるぞ」

「マリーのグリムハンズ?」


 エリカの疑問に呼応して、マリーの手に赤い布が形成される。

 マリーは、それを首に巻き付け、右手をかざすと同時に対物ライフルが手中に出現した。


「あれがマリーの……」


 困惑するエリカに正太郎が語り始めた。


「そうだ。題名級タイトルクラスグリムハンズ赤ずきん《ロートケプフェン》。赤ずきんと彼女を救った猟師の象徴。ファーストページは、地球上に存在する全ての銃火器を自由に取り出す事。ネクストページは、あらゆる銃火器の性能を数十倍以上に飛躍させる」


 マリーは、対物ライフルを構えて、今にも砕かれようとしている入口の扉に向けた。

 正太郎と薫は、右手の人差し指の付け根を噛み切り、グリムハンズ発動の用意を整える。

 もう少しで戦闘開始。そんな場面で涼葉が突如声を上げた。


「如月先生、私にもやらせてください」

「お前のグリムハンズじゃ――」


 親指姫サンベリーナは、感覚を共有する分身を作り出す力。どう評価しても戦闘向きとは言えない。

 突然の提案に正太郎も戸惑ているようが、涼葉はライフルケースからコンパウンドボウと矢の入った矢筒を取り出した。


「私も


 吉住香が与えてくれた涼葉の新しい力。

 戦う術を持たない事をずっと悩み、そして結論を用意してきたのなら彼女の想いを否定するのは、教師の仕事でも師匠の仕事でもないだろう。


「……タイミングは、マリーと合わせろよ」

「はい!」


 涼葉は、マリーの右隣に立ち、数瞬視線を合わせて微笑を交わした。

 涼葉とマリーがドアに注視し、それぞれが弓を引き絞り、トリガーに指をかけた瞬間、山羊のくぐもった声が木霊すると同時にドアが打ち破られた。


「顕現せよ! シャーロック・ホームズ、悪魔の足!」


 正太郎の言霊により、ワードの姿がより鮮明に顕現していき、異形は山羊の断末魔のような鳴き声を上げた。


茨姫リトルブライヤローズ!!」

「桃太郎ネクストページ!!」


 幻覚剤を撒かれまいと、放たれたイバラと三匹の家来は、人類の知覚速度を遥かに逸脱してワードを拘束する。

 刹那の間を置く事なく、涼葉の矢とマリーの銃弾がワードの上半身を捉えた。

 しかし矢も弾丸も表皮を貫く事なく、運動エネルギーを失っていく。

 仕留め損ねた。

 誰もが落胆しながらも、次の一手を模索しようとしたその時、


「まだ終わってないわ!」


 涼葉の咆哮が店内を轟き、二つ目の矢を放つ。

ワードの表皮で留められた一の矢の矢筈やはずに、二の矢の矢尻が衝突し、


「恵理子の仇!!」


 二の矢の矢筈やはずに対物ライフルの弾丸が直撃する。

 二の矢と銃弾によって送り出された一の矢は、ワードの身体を貫き、茶色の光球へと昇華させた。

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