二十五
橋の上から、黒く流れる川を眺めていた。
ここまで、どうやって来たのかは、あまり覚えていない。
ため息が溢れた。
「何やってんだろ……」
大事な仕事があるのに、胸の奥を掻き毟られて、どうしようもない。
何が、そんなに気に入らないのか。
何が、この胸の奥にあるのか。
桔梗は分からないまま、佇む。
「これで、良いんだ……これで」
自分を納得させるように吐いた。
静寂の中、水の流れる音だけが響く。
俯く桔梗の耳に、水音とは異なる音が微かに届く。
項垂れていた首を咄嗟に上げ、音のする方へ向けた。
そこには、一人の女が佇んでいた。
物悲しい表情を浮かべ、橋を渡ろうとしている。
こんな暗がりで、灯りも持っていない女に、違和感を感じた。
だが、気落ちしいる姿を見られた気恥ずかしさで、視線を落とした。その時、静寂に女の声音が響いた。「幸吉さん、そんな所に居たのね」と。
再び視線を上げる。
すると、橋の先に人影があった。
「っ——」
その影は手招く。
「待って、今そっちへ行きますから」
女は再び口にする。
違和感が濃くなった。
通り過ぎる女の目は虚。まるで幻でも見ているかのようで——。
桔梗は咄嗟に女の腕を掴み、歩みを制止した。
「離してっ——幸吉さんが呼んでいるのよっ!」
女は、桔梗の腕を引き剥がそうと抵抗をする。
向こう側では、今も尚黒い影が手を招く。
やっぱり変だ。
影は動かない。声もしない。
これではまるで——誘き寄せているようにしか、見えない。
「行っては駄目だ」
抵抗する女の腕を、更に強く握る。
「いやっお願い、離して! 幸吉さん!」
女は泣き叫び、桔梗の頬を力強く引っ叩いた。
「った——」
反動で、桔梗は女の腕を離してしまう。
自由を得た女は、手招く先へ走り出した。
「よせっ!」
影は動く。
桔梗には、ただ影が動いただけに見えた。
だが、女には違う。その影は愛しい者の姿が両の腕を広げている姿に映っていた。
間に合わない。
桔梗は焦った。
伸ばした手が着物を掠めた時。影と女の間に閃光が奔る。
影は、後ずさった。
女と影の間には、純白の刀を手にした狐面の者が立っていた。
美しい純白の刀。
見覚えがある。
桔梗は無意識に、己の腰の刀を触る。
「女は俺が預かろう」
狐面の男の声。その後に続くであろう言葉を、桔梗は瞬時に理解した。
抜刀すると、一直線に影へと向かっていく。
近づくにつれ、その影が禍々しい妖気を纏っているのに気付く。間違いない。こいつは人を喰っている。
影に一太刀入れる。
距離をとった影は、人影を脱ぎ捨て、禍々しい姿を現した。
天狗面。だが、天狗にしては翼がない。
それに、小柄だ。
「邪魔をするな」
掠れてはいるが、女の声だった。
「そうはいかない。人を喰った以上はね」
桔梗の声に、天狗面の妖は黒い鬼火を纏った。
その鬼火からは、凄まじい恨みが滲み出ている。
憎い憎い憎い
アノヒトヲカエシテ
モットイキタカッタ
アイツサエイナケレバ
恨みの声が重なって聞こえる。
「人の恨みに取り憑かれているのか……」
強く刀を握った。
巡り巡って、恨みは人へ返る。
「でも、人を喰ってしまったから。もう、君を救えない」
桔梗は妖の懐に素早く入り込むと、その面に御符を貼り付ける。すると、鬼火は激しい悲鳴を上げる。
動きが鈍った瞬間に、太刀を振りかざし、女を斬った。
膝から崩れ落ちた女の顔から、面が半分に分かれて落ちる。
素顔を晒した女の顔は、醜く爛れていた。見れば顔だけでない、その身を焼かれた跡に、桔梗は言葉を失う。
恨まずには、いられなかった。
もう二度と口を開くことのない女から、無言の言葉が聞こえた気がした。
女の体は徐々に溶け、消えていった。
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