二十二

 赤鬼が運んできた人の恨みは、瞬く間に広がり汚染していった。

 大地も海も怨嗟で溢れ、瘴気で包まれる。

 騰蛇達が戻って来た時、あまりの惨状に言葉を失った。

 人の恨みの強さを実感した瞬間であった。

 そして何より貴人の傷を負った姿が、どれほどに苛烈であったかを想像させた。自身の臣が祟り神になるのを防いだ事を聞いた時は、かける言葉を失った程だ。大切な者を失う辛さを経験している騰蛇は、自らの手でそうせざるを得なかった気持ちを汲んだ。

 皆満身創痍の中、太陰だけが無傷ではしゃいでいた。

 各々の被害が如何程かは、戻り確認が必要であった。

 己が城に戻り、状況を報告するようにとの命を実行した。

 

「久方振りであるな。こうして、共に月を眺めるのは」

 目の前には、海が広がる。

 さざ波の音を聞きながら、ただひたすらに遠くで揺らぐ月に視線を向けていた。

 騰蛇は、巳月の横に腰を下ろした。

「菴羅も全て枯れてしまったな」

「はい。残念ですが、壌土まで汚染されてましたから―だ暫く時間がかかりそうです」

「我等が戻り、皆の士気も上がっておる。やり直せるであろう」

「そう、ですね」

 あの日の歓喜の声がよみがえる。

 自分の居場所がここであると示すような、声が。

「——初めて、陽の下で皆の顔を見た時は……眩しくてな。目が慣れるまで苦労したものだ。これが、姉上の見ていた光景かと思ったものよ。あれは、今でも忘れられぬ。余りにも輝かしくてな」

 騰蛇の言葉に、巳月は耳を傾ける。

 そして、思い出す。

 騰蛇は、その身を姉と弟で共有していた。

 昼は女神、夜は男神。

 陽は月を知らず。月は陽を知らない。

 半身を失い、騰蛇は初めて陽を目にしたのだ。

 巳影が祟神になったあの時。

 本来であれば、双子である巳月はこちらには居られない。それが、こちらの掟であった。だが、騰蛇の姉が巳月の代わりとなった。

 自らそう進言して。

 それだけはならないと巳月は言ったが、引いてはもらえなかった。臣を守りたいのだと、言ってくれた。

 それでは申し訳が立ちません。そう抗議したが、二人で決めた事だと言われた。次いで、痛み分けだと。

 その想いに甘えてしまった。

「あの時、互いに、失ったものは大きかったが。巳月よ、そなたは再び出逢えたものを――後悔はしておらぬのか?」

 騰蛇の問いが耳に残る。

 たった一人の家族。その魂を宿す者に、巳月は巡り合った。

 それこそ、奇跡的であった。

 こちらとあちら。

 神と人。

 二度と会う事は叶わない。

 そう、思っていた。

「……後悔していないと言えば嘘になります。貴人様に頂いた時間を人の世で過ごし、思いました。人である瞬間の尊さを――。確かに地祇として願い入れれば、あちらに生きられる。けれど、この溝が埋まる事はない。いつかは――別れなくてはならない。私には、人としての時間を奪う事が出来ない」

 あちらとこちら。

 人と神。

 水鏡の様に、手を伸ばしても決して触れられない。

 儚い一瞬の夢。

「そうか。ならば、もう何も言うまい」

 いずれ、時が癒してくれよう。

 今はまだ真新しい傷が癒える日を、騰蛇は願う。

 遠くで、巳慧と巳凪が騰蛇を呼んでいるのが聞こえた。

「呼ばれているな」

「……その様です」

 立ち上がり、砂を払い落す。

「ではな」

 城へ向かう騰蛇の足音が、やがて消える。


 巳月は、海に浮かぶ月を眺めていた。

 ゆらり。

 月は静かに、ただ揺れた。

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