二十
閻魔は、帰還した雷鬼と水鬼を交互に見る。
「酷い臭いだな」
「言ってくれるな。生粋の鬼ってのに混ぜ込みされて、ちょっとばかり厄介でな。まぁ――あれだ。俺達が言えたもんじゃないが、酷いもんだったぜ」
「そうか、ご苦労だった。こちらには先程――首謀者の魂が到着したとの報告があった」
「それは、興味深い事ですわね」
「ふん。この冥府を荒らした罪は重い。丁度、風鬼の枠が空いた所だしな」
先の一件が後を引き、閻魔の口調は冷ややかであった。
「まー、なんだ、空いたままなら良かったんだがな」
「鬼に堕ちますか。でも、仕方ありませんね。それなりの事をしたのですから」
大罪の末路である雷鬼と水鬼には、閻魔の言葉が重く聴こえた。
人には輪廻転生がある。
けれど、稀にその枠組みから外される者がいる。
鬼と言われる彼等がそれだ。
生きた時代。
そこで、犯した罪の重さが大きければ大きいほど、冥府に奉仕し罪を落とさなければいけない。
鬼とは、その中でも最も重罪を犯した者に与えられる。
鬼のような力を与えられる代わりに、最も過酷な任務を与えられる。鬼から抜け出すには、閻魔に罪を償ったと認めさせるか、死して魂を消滅させるかしか無い。
前任の風鬼はその役目を果たし、転生を閻魔に認められた。
転生までにかかった歳月は五百年。短い方だった。
雷鬼は、生前賊として多くの人の命を奪った。時には拷問を楽しむ事もあった。弱い人間を甚振るのが堪らなく快感だった。捕らえられ、処刑され、冥府へ来た。無論、閻魔はそれを良しとはしない。雷鬼としての奉仕を命じられた。初めは、鬼のような力を得て高ぶっていた。閻魔など、たかが華奢な青年風情。殺して仕舞えば自由になれると思った。だが、そんな事は夢物語だった。
閻魔は不死身だ。
それに、鬼を束ねるだけの実力がある。
いつだったか、前々任あたりの炎鬼が、謀反を起こした事があった。
あの時の閻魔の顔は忘れられない。
謀反を起こした事よりも、生前犯した罪の重さを理解していない事への怒りだった。
一太刀で、炎鬼は真っ二つ。
浮き出た魂さえも、閻魔は斬った。
そして言った。
刃を向けるなら覚悟しろ。と——。
殺意が削がれた瞬間だった。
鬼に落ちる輩は、大罪を犯している。故に、血の気が多く閻魔を狙う奴もそりゃそれなりに居る。だが、閻魔に勝てた者は居ない。
水鬼も、それがどれだけ無駄な事か理解している。
彼女は生前、遊び女であった。男を食い物にし、貢がせ、捨てる。その中には彼女に騙され自ら死を選ぶ者もいた。
人の心を弄ぶ。嘘を平気でつく。騙される方が悪いと罵る。
どうにか取り入れないかと思案したが、閻魔が色仕掛けに落ちる事は無かった。
剰え、醜い心で近寄るな、ばっちい。と平然と口にした。
これには笑うしかなかった。
私に落ちない男は居なかった。この美貌を、男は欲しがる。
それなのに、醜いと——。
この方は、真実私を見てくださる。
そう思った時に、己に与えられた任を果たそうと決めた。
何年かかろうと。
風鬼に、あの男はなるのだろう。
当然だ。
己の欲の為に、多くの人を殺し、この冥府を荒らした。
神を殺そうなど、重罪だ。
その罪を償うのには、どれほどの時間を有するか想像出来ない程。
「お前達は身なりをどうにかしたら、持ち場に戻れ」
「御意」
***
切っ先が、黒鬼の頬を掠める。
にっと笑み、楽しそうに大太刀を振り下ろした。
刃を受け止めると、騰蛇はそれを押し返す。
距離を取り、今度は素早く焔を纏わせ振り切る。
放たれた黒焔を、刀で一気に切り落とす。
二つに離れた焔は左右に被災し、木々を灰と化す。
今や、屋敷と呼べる物はなく、ただの焼野となっていた。
被害が出ない様に張った結界さえも超えて行きそうな勢いに、朔羅は一層集中する。こんな熱量が一気に放出したら、辺り一面吹っ飛ばしてしまいそうだからだ。
「お待たせ致しました」
そこへ、六合が戻ってくる。
彼女は腕には、一匹の黒猫が抱きかかえられていた。
「は? ちょっ、こんな時に野良猫なんか連れて来るとか。そういう冗談いらないっての」
見るやいなや、朔羅は六合に対して言い放つ。
「野良猫ではありません。書です」
真面目な顔で六合は言った。
「書? いやいや、どう見たって黒猫じゃねーか」
「違います」
眩暈がする感覚を覚える。
至って大真面目な顔で、はっきりと言われては、それがどこをどう見ても黒猫にしか見えなくとも、そうですかと頷く他ない。
朔羅は、書を見た事はない。
ただの先入観。というよりは、書と言われれば誰でも本を思い浮かべるものだ。
その常識が、今目の前で覆された事に、ただついていけないだけだった。
書は、六合の腕の中で猫らしく鳴く。
やっぱり、猫じゃねーか。
声には出さず、心の中で呟いた。
「書を離すわけにはいきません。お力添え出来ず申し訳ございません」
そう言い、書を撫でる。すると、喉を鳴らして満足そうに六合の手に頬を擦りよせた。
最早、否定する言葉すら口を滑り出ない。
「――六合よ。書は、我が閻魔まで届けて来よう。そなたは、ここの結界を。騰蛇の焔で綻びが出ているのでな」
突然の声に振り向くと、金色の髪の男が立っていた。
「貴人――ご無事で何よりです。他の者は、無事なのでしょうか?」
姿が見えぬ者を心配する。
「――疲弊してる故、あちらに居残ってもらった。途中、青龍達の元にも寄ったが、天后は最早動けぬ状態であった。太陰は、こういう場には向かぬからな。結界の気が確かにあった故、問題なかろう」
「そうですか。皆、良く頑張ってくれました」
「少々遅かったが、閻魔は約束を守った。今度は、こちらが守る番であろう。書を」
「はい」
六合は貴人へと書を手渡す。
「お頼み申し上げます」
黒猫を抱き抱えた貴人は、直様冥府へと向かった。
「お待たせしました」
手の空いた六合は、朔羅に代わり結界を張る。
力を緩めることが出来た朔羅は、ふうと息をついた時。
目の前に、黒く影が飛んで来たかと思った瞬間、衝撃が走る。
「っつ――っおい! 大丈夫か!?」
それを体で受け止めた朔羅は、その場に尻餅をついていた。
「――すまぬ」
どこからの血か。
ぬるりとした感触。朔羅の手が赤く染まっていた。
「騰蛇っ」
「心配要らぬ。が――やはり強いな」
蛇眼は力強く、朱雀と交戦している黒鬼を見る。
「のう、朔羅。そなた、妖を折伏させるにいつもどうしておる?」
「いきなり何だってそんな事聞くんだ?」
「いや、何。そなたなら、あの黒鬼を折伏出来るのではないかと思うたまで。鴉にしてもそうだが、そなたの式は従順故。縛り拘束する力が強いのではと――」
「無理言うな。相手は鬼だ! 万が一にも出来たとして、いつ寝首をかかれるかわかったもんじゃない!」
「出来ないとは、言わぬのだな」
騰蛇の視線が朔羅を捉える。
「何故、殺すではないのですか? 騰蛇」
やり取りを見ていた六合が間に入る。
「刃を交えているからこそ、分かる事もある。確かに、我等は敵であろう。だが、以前の様な際立った殺意は消えている。恨みも何もかも、あの術者に向けていたのであろうな。今はただ、そうなってしまった抑えきれぬ苛立ちをぶつけているだけにすぎぬ。ならば――無下に命まで取る必要があるのかと」
六合の瞳が揺らぐ。
「それに、気づかぬか? 六合。式の強さは術者の強さ。何も変わっていない事こそ、それを証明している」
それに気付いた六合は、視線を朔羅へ落とす。
「え? 何?」
「そうですね。朔羅ならば、可能かもしれません」
「無理強いはせぬ。決めるのはそなた自身故。我等が先に倒れるか、あやつが倒れるか。よく見て見極めるがよい」
騰蛇は言い残し、立ち上がると、黒鬼へ向かって行った。
***
書は鳴き声を上げて、閻魔へすり寄った。
ご機嫌な黒猫を抱き上げ、その顔に頬を寄せる。
「クロ、怖がらせてごめんな」
猫撫で声を上げ、愛猫を可愛がる閻魔の姿を、貴人は真顔でじっと見る。
「おいっ、もうくすぐったいって」
ざらつく舌で顔を舐められ、嬉しそうに閻魔は頬を緩めた。
その様子に、貴人の目が細められる。
「あーもう可愛い」
「閻魔よ。忘れてはおらぬな?」
両の腕を組み、貴人は冷ややかな視線を送る。
「ん? あ、あぁ。あれだろ? ちょっと待て」
そう言い、閻魔は書の瞳を覗く。
「教えてくれ――」
閻魔の声に書は一度だけ鳴く。
そして、その瞳の奥に文字を写す。
それは――魂の記録。
閻魔が書を読み解く姿は、ただ猫の目をじっと見ているに過ぎない、不思議な光景だ。さらに、独り言の様に書を読んでいる姿は珍妙であった。
「これで全部だ」
言い終えると、閻魔は黒猫の首に鍵を付けた。
「また狙われたらたまったもんじゃない。前のより頑丈な首輪だぜ、クロ」
書は再び鳴く。
「あんたも、臭うな。相当派手にやられたみたいで。傷だらけだぜ?」
貴人の姿を下から上に視線を移す。
「そなた程ではなかったがな」
貴人の前で、閻魔は傷の癒えた、以前と変わらぬ姿を見せている。
尋常ではない治癒力は、不死であるが故。
死者や罪咎が蔓延る冥府において、統括する者の死は魂の循環だけでなく、あちらとこちらその両秩序を乱す事態を防ぐ為である。
ただ一人、その荷を永遠に背負う。
閻魔とはそうゆう者だ。
「へぇ、言ってくれるじゃん。ま、戻るもんも戻ったし、後は元凶を裁くのみ。それで、あの鬼はどーなったんだ? こっちに来る様なら、それなりの部屋を用意しないといけない。人外はなんにしろ時間がかかるからな」
「倒さねばならぬ相手ではある」
「そっ。じゃ、一部屋開けておくとするか」
直様、閻魔は指示を出す。
「こっちはいつでもいいぜ。さて、あの黒鬼を倒せるかどうか、お手並み拝見だな」
悪戯に笑ってみせる。
「手酷くやられておきながら、よく笑っていられる」
「クロを盾にされたんじゃ全力なんて出せるか馬鹿。こいつが怪我でもしたらどうするんだ!」
力強く言い切る。
相変わらずの猫贔屓には呆れる。
「――まぁ、良い。これで暫くの間は会うことはない」
「そうだな。あんた、ここでは眩しすぎる。陰気な匂いが染み付く前に帰りな」
互いに、それ以上の言葉を交わす事はなかった。
貴人は閻魔の前から消え、冥府にはいつも通りの時間が流れ始める。
***
黒鬼は、地面に片膝をつき、ふっと頬を緩めた。
この俺が、膝を折っている。
深い傷を負わされて。
胸の傷は深く広い。
生温い血が流れ落ち、大地を濡らす。
俺が弱くなったのか――否。
であれば、強くなったのは相手の方か――。
ふと、鬼の目に朔羅の姿がとまった。
神を従え、妖を従え、それでも尚平然と立っている。
くっくっと、鬼は笑った。
あの時の女とは、似ても似つかない。
燃えるような、正義感もない。
火傷しそうな熱い視線もない。
それなのに――。
ふらりと、黒鬼は立ち上がり、朔羅へと向かった行った。
あと一歩で切っ先が届く。その手前で、騰蛇はそれを阻む。
大地が再び近くに映る。
その視線に、黒い影が伸び、鬼は顔を上げた。
朔羅は黒鬼を見下ろした。
そして、唱える。
黒鬼の周りに、光の輪が浮かび上がる。
次いで、その両足に枷が浮かび上がる。
「……俺を捉える気か」
黒鬼は、抵抗を始める。
陽は傾き、茜の空は今にも消えかかっていた。
朔羅が黒鬼を折伏し始め、数時間経つが、以前拮抗したままだ。
「あの傷でよく耐えられるものだ」
六合により表立った傷を癒してもらった騰蛇達は、朔羅の戦いを静かに見守っていた。
「さくらー頑張れー」
白虎が小声で声援をあげる。
「失敗したらどーすんだ?」
「無論、その時はこの刃、突き立てる他あるまい」
「朔羅は、ご自身の力に気づいていないのでしょうね。私も、加減されていない事に気付かなかったのですから」
「加減?」
朱雀が首を傾げた事に、騰蛇と六合は視線を合わせ頷く。
「不思議なものよ。それでいて、野心がない。いや、ないからこそなのかもしれぬな」
有り余る力を持つのが、朔羅のような者で良かった。騰蛇は、そう思った。
光の中。
鬼の額に最後の枷が浮かぶ。
観念したわけではい。
ただ、その力に押さえつけられる――。
枷は、すっとその体内に沈んでいった。
鬼は、朔羅の首に腕を伸ばしたが、届かない。
何かが、それを許さない。
宙で止まった褐色の腕に、朔羅の汗が滴り落ちた。
肩で息をし、疲れ切った表情を浮かべる姿が目に入る。
「――ふん」
拍子抜けする姿に、鼻を鳴らした後、失血から鬼はその場に倒れこんだ。
月光が、鬼の瞼を眩しいく照らす。
あまりの眩しさに、あの忌々しい光を思い出し飛び起きた。
胸の痛みに視線を向けると、ご丁寧に包帯が巻かれていた。
「お目覚めか」
縁側で、その男は月を眺めながら盃を傾けていた。
「一杯どうだ」
そう言い、酒の注がれた盃を置く。
「つまみもあるぜ」
焼いた小魚を皿に取り分け、盃の横に置いた。
「お前――」
「こんな良い月が出てるんだ。呑まなくてどうする。それとも、鬼にはそうゆう趣向はないってのか?」
言いながら、小魚を頬張る。
「まぁ、これで笛の音なんかがあれば最高なんだがな」
朔羅は、小魚を食べ終えると、鴉を呼び寄せ笛の演奏を頼んだ。
妖使いが荒いと、文句を言いながらも一曲だけならと、鴉は得意な笛を吹き始める。
鬼は、置かれた盃から酒を一気に飲み干す。
「良い飲みっぷりだ」
朔羅は、酒を継ぎ足す。
その顔は、やや赤くなっていた。
鬼は、暫く笛の音に耳を傾けながら、酒を愉しんだ。
やがて、音が途切れると、鴉の妖も共に酒を傾け始めた。
「お前の笛は、いつ聴いても最高だな」
「当たり前だ」
ふっと、鬼は妖と目が合ったが、言葉を交わす事はない。
いつしか酒瓶は空になり、鴉はその身を宵闇へと溶かしていく。
「お前、何で俺をあいつらに殺させなかった?」
仰向けになり、黒鬼は尋ねた。
「何となくだ」
帰ってきた答えに、目を丸くする。
「何となくだと?」
「あぁ」
鬼は、高笑いをし始める。
「仮にも人間が、鬼を何となくで命を救うとは――」
笑いが止まらない。
「おい、夜なんだから静かにしろって」
そう言われても、可笑しいものは可笑しいのだ。
「わかった、わかった。まぁ、あれだ。助言されたからってのもあるが、あんただって仲間の為だったんだろ? だったら、確かに命まで奪う必要はないんじゃって思ったんだから、仕方ねぇじゃねーか。俺だって賭けだったんだ」
徐々に笑いがおさまっていく。
「その賭けに負けたという訳か。良いだろう。ならば俺も――何となく、付き合ってやろう」
素っ頓狂な男だ。
黒鬼は思った。
人も妖も食らった鬼を、側に置くとは——。
確かに、此度の事は赤鬼と蒼鬼を救う為の芝居。
だが、あいつらの意志はそこには無かった。初めから、鬼の魂が欲しかっただけなのだと気付いた。神を殺す為に、あいつらを利用した。
家族も同然な、我が友を侮辱する行為。
許せる事では無い。
だから、ふりをしていた。
従順なふり。何も知らぬふり。
そうして機を待った。
なかなかに見ものであった。
飼っていた従順な鬼に牙を剥かれた瞬間のあの男。
倒れて当然だ。
俺を従えるには役不足だったのだから。
黒鬼はふっと口元を緩ませた。
一千年前。
天璋院の人間に赤鬼と蒼鬼と殺された。ただ、鬼をいうだけで、問答無用だった。
あの日以来、ずっと治らない殺意と苛立ちで、暴れまくった。
何人も人を殺して食った。
当てつけるように。
俺から、大切なものを理不尽に奪ったのだから、当然だ。
散々暴れて、あの女が現れた。
面白い女だった。
神を使役していた。
いよいよかと思ったが、女は俺を封印するに留まった。
何故、あいつらと同じ所へ行かせてはくれないのか——。
今もまた、こうして俺は生かされた。
あいつらに会う事なく。
今度は紛れもなく折伏させられた。
あの時浮かんだ光の輪がこの身を縛る。
逆らえないのだと解る。
だが、それでも良いと何故か思った。
遠い昔。
赤鬼と蒼鬼とこうして酒を酌み交わした日を、思い出したからだろうか——。
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