十九
それは、ほんの些細な事柄からであった。
歌柊は幼き頃より術の才覚をみせ、将来を期待される人物であった。
そんなある日、歌柊は出会う。
月影水月に。
たまたま居合わせた。
ただ、それだけであった。
まだ幼さの残る水月は、妖と対峙していた。
一目で力の差を見抜いた歌柊は、水月に加勢した。
天璋院と比べ、月影は術者の家柄としては下級。
歌柊からすれば、取るに足りない出来事だった。
数日後、水月に術を教えて欲しいと言われた時、気まぐれで受諾した。
息抜きにでもなれば良し。
その程度だった。
案の定、水月の術は自分とは比べ物にならない下等なものであった。
真面目な彼女は、歌柊を師匠と慕い、一日も欠かさず術に励んだ。
真っ直ぐに向けられる視線と、彼女の純粋さに、いつしか歌柊は心惹かれていった。
そして、彼女の才能に気づくのに、そう長い時は不要であった。
日を重ねる毎に、水月は歌柊に近ずく。
一歩、また一歩と。
愛しさと、焦り。複雑な思いが歌柊の中に生まれる。
それでも、彼女に会う事を止められなかった。
水月もまた、真摯に術を教えてくれる歌柊を信用しきっていた。
そして――。
水月が、白蛇を救う日が訪れた。
彼女はその後、十二の神を従える。
天璋院ではなく、月影の者が――。
あってはならない事だ。
強い敗北感が歌柊の中に巣食う。
それでも、水月への恋慕は取り残されたまま。
どうしたらいい。
どうすればいいのだ。
彼女と神々の距離が急速に近くなる。
あの神々に、水月を盗られた感覚が襲う。
彼女に術を教えたのは自分だ。
彼女がお前達と共に居れるのは、自分のお陰なのだ。
それを、我が物顔でその隣に寄り添うのが解せない。
今も尚、自分の元を訪れては相談事をしてくれる彼女を、どうにかこの手に納めたい。
あいつらに、彼女を渡したくない――。
強まる思い。
そして。
だったら、殺せばいい。
心の中に、急速に闇が広がる。
模索した。
どうすれば、神を殺せるか。
文献を漁り、禁忌の術を試す日々。
しかし、いくら探しても、ただの人が神を殺す術は見つからない。
来る日も、頭を掻き毟る日が続いたある日。
ならば、殺せる者を創れば良い。との考えに行き着いた。
何者であれば、神を殺す力を有するか。
真っ先に浮かんだのは、鬼であった。
そうだ、鬼だ。
鬼ならば、神を殺せよう。
正義感の強い水月ならば、必ず鬼を退治すると言うであろう。
歌柊の思惑通り。
人を襲う鬼を、水月は退治すると言ってきた。
だが、赤鬼と蒼鬼は期待はずれであった。
呆気なく、敗れてしまったのだから。
そして。
人々は、水月を最高の術者がと口にし始めた。
これでは、天璋院の名折れ。
一族は、何とかせよと圧力をかけてくる。
どれだけの苦慮の末だとも知らずに。
ならば、鬼の中でも最強と謳われる黒鬼ならば、文句はあるまい。
再び現れた鬼に、人々は恐怖する。
水月は、此度も鬼を退治すると言ってきた。
そして。
歌柊は、嘘をついた。
彼女についた、最初で最後の嘘。
黒鬼は強い。
倒せなければ、被害は大きい。
だから――。
黒鬼は封じなさい。
無論、水月は師匠の言葉を疑わなかった。
最良の手だと思った。
封じた鬼を密かに飼い慣らす。
黒鬼を折伏する天璋院を、皆は最高の術者と褒め称える。
そして。
水月を惑わした神々を殺させる事が出来る。
その為に、あちらへ向かう触媒も手に入れた。
だが。
彼女は祟を受けた挙句、命を落とした。
二度と、水月に会う事は出来ない。
もう、二度と――。
そう思うと、自然と笑いがこみ上げていた。
なんと、滑稽な事か。
何の為に、今まで彼女を……。
虚無感が訪れた。
手塩にかけて育てた彼女がこの手をすり抜け、逝ってしまった。
あの日、神など救わなければ、こうはならなかった。
死する事もなく、今日も明日も明後日も――会う事が出来たはずだ。
再び、神への恩讐が息をする。
そうだ。
そうだ――。
必ず、必ずや――。
***
歪な思いがそこにはあった。
歌柊の狙いは、水月を殺す事でははないと知る。
そして、朔羅は視てしまった。
自分の延命の為に行った非人道的な禁術を――。
それ程に、神を憎んでいる。
だが、朔羅には歌柊が自らにかけた術を解く術を知り得なかった。
あの男の中には、人がその原動力として取り込まれている。
歌柊を殺せば、その者も死ぬ。
それは――したくない。
故に、六合へ問いを投げたのだった。
分からない。
そう返答されるのは分かってはいた。
目の前の炎が消え、黒鬼は依然、立ちはだかっている。
「顔色が悪いですね。劣勢に怖気付きましたか?」
歌柊は、朔羅へ向けて笑みを浮かべる。
「……お前、今まで何人食らったんだ」
歌柊は何を聞きたいのか理解出来なかったが、朔羅が言わんとする事を悟る。
「人の過去を覗くなど、無粋でしょうに。――覚えていませんよ、そんなの」
答えに、唇を強く噛む。
「水月(すいげつ)をどうするつもりだ?」
「どうもしませんよ。ただ、祟を解いて差し上げ、またあの日々を続けるだけです。その為には、天璋院は常に月影の上に居なくてはならない。分かりますか?」
書を奪い去った理由がそこにはあった。
殺す為ではなく、救う為の理由。
「お前の知る水月では、この世には存在しない。赤の他人なんだぞ」
「えぇ、分かっていますとも。それでも、水月であった事に変わりはございません。私が、師である事にもです。神々の居ない世界で、あの輝かしい日々を過ごすのです。貴方は――私にとって目障りな存在。ですから、ここで神々と共にお逝きなさい。さぁ、黒鬼。遊びの時間は終りですよ」
歌柊の声に黒鬼は反応を示した。
手にしている大太刀が太く更に巨大に変化する。
そして――。
「なっ――」
鬼は斬る。
「この俺を屈服しただと――笑わせる」
黒鬼が斬った相手は、歌柊であつた。
褐色の顔に自我が戻る。
「我が同胞を取り戻す。そう、口車に乗っかってはみたが――。貴様の行った所業には目も当てられない。あいつらを軽んじる行為、許しがたい。ここで俺に殺されるくらいが、お前にはお似合いだ」
褐色の腕を、切り裂いた歌柊の中に突っ込み、それを引き摺り出す。
「や、やめろー!!!!」
叫び声が虚しく響く。
「くっ……き、きさ、ま――」
地面に這いつくばる歌柊の姿は、若さを保てずに嗄れいく。
「――て、んち、じ、くう……ノ、ことわりヲ——」
掠れた声がふり絞られる。
最期には聞き取れない程小さき声だったが、黒鬼の周りに術陣が現れた。青白く光を放つ術陣の中。黒鬼の体内から泥の様な黒い塊が抜け落ちていく。
「取り込んだ者を吐き出す術か何かか――流石に相打ちにはならないだろうな」
あわよくば。
そう期待したが、術陣が消えた後も、黒鬼の姿は健全だ。
「勝手な男だ」
急激に進んだ老化の末に、肉体は灰となる。
歌柊の姿は衣服だけを残して、跡形もなく消え失せた。
「――身軽になったな」
枷となっていた異物感が消える。手を軽く握りしめ、本来の姿に戻った感触に笑む。
「さて、こいつに騙されていたとはいえ、あんたらが敵には違いないんだろ? 何、気が収まらなくてな。相手になってもらうぜ」
黒鬼は八重歯を覗かせ、大太刀を構えると、好戦的な笑みを浮かべた。
「良かろう」
黒鬼と騰蛇は、互いに目を合わせた後、再び刃を交えた。
「なぁ、あんた。以前は女じゃなかったか?」
黒鬼は、ニヤリと笑み騰蛇へ尋ねる。
「――さて、どうだったかな」
答えをはぐらかす。
「良い女だったからな。間違える筈ないんだがねぇ」
「せいっ!」
「っと」
黒鬼は朱雀の刃を交わし、距離を取る。
「おい、こいつのねーちゃんの話は禁句だ!」
そう言い、黒鬼に向かう。
「……あーあ、言っちゃった。しかも大声で」
すかさず言葉を放つ白虎を隣に、騰蛇は苦笑いを浮かべる。
「過ぎた事よ。それより、六合。ここは我らに任せ書を頼む。どこかに在るはずだからな。それと――先程まで張られて居た結界が解けている。朔羅、頼めるか? このままでは、我が焔が全てを焼き尽くそう」
六合と朔羅は顔を見合わせて頷いた。
***
最後の一太刀を振り下ろすと、額に滲む汗を拭った。
「見事だ」
巳月は桔梗へ声をそう声をかける。
「見事なのは、そっち。数を減らしてくれたから」
刀傷以外に、巳月は氷の刃を散らせて桔梗を援護していた。
「あんな凄い力、見た事ないよ」
綺麗だった。
羨ましいくらいに。
「襲ってこないって事は、もう諦めたのかな」
「諦めはしないだろうが。一度太陰様に報告しておこう」
二人が障子を開くと、水月の安堵した表情がすかさず目に飛び込んだ。
「巳月さん!」
嬉しそうに名を呼ばれた巳月の頬が緩む。
「心配かけた様ですまない」
「そんな、護ってくださりありがとうございます」
巳月に向けられる水月の笑顔に、桔梗は無意識に目を背ける。
「全部倒したのか?」
「はい。今の所、追撃はなさそうです」
「うむ。二人共ご苦労であった。しかし、鏡を失ってしまったからのう。戦況が分からぬ今結界を解く事は出来ぬ。援軍が来るか敵が来るか。用心せねばなるまい」
「はい」
「それじゃ、今の内に湯浴みをしてくるよ」
「あの――」
水月は、桔梗を呼び止める。
「ありがとうございました」
柔らかな微笑みが桔梗へ向けられた。
「……如何いたしまして」
一言だけ言い、背を向け部屋を後にした。
桔梗は、体についた死臭を洗い流すと、檜の湯船に体を沈めた。
右手を宙へかざし仰ぎ見る。
その手には、肉を斬る感触が残り離れずにいた。
初めて、人を斬った。
死した骸ではあったが、これが初めてであった。
術ではどうしようもない差がある。けど、剣なら――そう思い、鍛錬をしてきた。まさか、こんな所で役に立つなんて。
あの子を護れて良かった。
ふと、先程の笑顔が脳裏に浮かぶ。
水月(すいげつ)か――。
湯船に浮かぶ自分と目が合う。
違う。
頭の中で声がした。
「……何だよ、違うって」
桔梗は声を消す様に湯の中へ潜り出る。
「はぁ——」
前髪を掻きあげ、大きく溜息を吐き捨てた。
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