十六

 岩浜より街へ戻った。

 いつもと同じ、何ら変わらない日常。

 正午を超え、益々の賑わいを見せている。

 商家の並ぶ商店街を抜け、川を越える。その先の外れに、天璋院の屋敷はあった。

 門番はおらず。

 異質な静けさを醸し出している。

 この門をくぐれば最後、あの平凡な日に戻れるかは解らない。

 朔羅の鼓動は早鐘を打つ。

「だから――厄介ごとは嫌いだ」

 覚悟がついたわけではない。

 ついたわけではないが、鬼が現れた以上、この門をこじ開けるしかないのは理解している。

「……やるしかないか」

 自分に言い聞かせた。

 朔羅は、口元に人差し指と中指を添え、言葉を発しようとした時。門は内側から開かれる。

「入られよ。という事であろうな」

「行こうよ」

 白虎は、朔羅のじっとりと汗ばんだ手を引く。

「ボク達がついてる」

 そのまま門をくぐると、退路を断つ様に門は閉じた。

「ふむ。帰す気は無さそうだ」

「異様ですね」

 肌に纏わりつく陰気。息をしただけで腑が汚れそうな空気が、辺りを覆う。

 中庭の奥。朱色の正殿の前に何者かの姿を確認する。

 凝視すると、一人は褐色肌の男。そしてもう一人は水干姿の男。

「これは、月影殿。ようこそ、我が屋敷へ」

 水干姿の男は、柔らかな声音を響かせる。

「お顔は拝見しておりましたが、こうして対面するのは初めてですので、まずは名乗るとしましょう。私は、天璋院家当主。天璋院歌柊(かしゅう)。隣の彼は――言わずもがなですので、あえての説明はよしとしましょう」

 笑みを隠す様に、口元に袖を寄せる。

「あぁ、そちらの紹介は不要です。聞いたところで――ですので」

 再び、笑む。

 こうして向き合った今も、朔羅にはこの男が、ごく普通の術者にしか見えなかった。

「お前は、一体何を考えているんだ。あの子に、何をした――」

 疑問が口を突いて出た。

 朔羅の問いに、歌柊は口元を緩める。

「何をと、申しますか。見ての通りですよ。鬼の器にしたまでの事です。まぁ、少々色を加えましたが。そちらの神々に、出来ればお聞かせ願いたい。恨まれながら、人の心を持つ鬼を相手にするのは、どんな気分でしたか?」

 淡々とした言葉から滲み出る静かな狂気。

 六合達の目付きが鋭く変わる。

「あまり、お気に召さなかった様で、残念です。あの子達の最期は中々に見応えがあったので、今頃は、さぞ楽しんでいる事でしょう」

 くすくすと小さく笑う。

「お前――」

「月影殿。あれを創るまでには、私も相当な苦労を致しました。如何にして、その心を魂から引き剥がし、器に定着させるか。数々の失敗の賜物です。途中、心が折れそうにもなりましたが、ああして良き物が創れた。そして、此処にいる黒鬼には手こずりました。何せ、自我が強く屈伏させるのに時間がかかりましたので」

「――屈伏だと」

「えぇ。今の黒鬼は、私の言う事をただ聞くだけの人形の様なものです。此処で、あなた達が倒れれば、この黒鬼を止められる者は果たしてこちらに居りますでしょうか? 書がこちらにある限り、あの閻魔でさえ制御出来うる。やっとです。これで、天璋院こそが最高の術者だと皆思い知るでしょう」

 薄い笑みの向こうに激しい劣等感を覗かせた。

「我等が負ける口ぶりであるな」

「如何にも。そう、言いました」

 歌柊の表情は自信に満ちていた。

「月影殿。既に結果は見えています。ここで一つ案ですが。そこな神々は、今貴方の式。その式を従えたまま、私の配下となるのなら――月影の者の命は保証致しましょう。貴方と私が組めば、この世ならず、天地全てをこの手に納めるのも容易い。如何です? 悪い話ではないでしょう?」

 悪気の見えない微笑みが、朔羅を襲う。

 悪びれを一切感じないのが、恐ろしい。そう、思っていないからこそ吐ける言葉。

 微笑みの奥に潜む闇。

 目の前に立つ男を何とかしなければいけない。つまりは、その提案に乗る事は出来ない。頭では理解していても、底知れない闇への恐怖で声が出ない。

 果たして、この男に勝てるのか――。

 勝たなければ、ここで命を絶たれるのは目に見えている。

 だからこそ、唇は石の様に固く開くことを拒む。

「月影殿。神を信じるというのなら、お断り頂いても構いませんよ。ですが、ご覧になったでしょう? あの鬼を――あぁ、そうだ。この黒鬼の器になって頂くのも、大変面白いかも知れませんね。神を恨み、そのお優しい心を抱いたまま、ご兄弟を手にかける。月影の水月(すいげつ)に代わる術者としては、屈辱的な事でしょうね。――さぁ、お選び下さい。私と共に歩むか、鬼となるか」

「随分と侮られておるな。――朔羅よ。そなたは、自分達だけが助かれば良いと思うほど、愚かではない。我はそう信じている。あれと共に歩んだ末路にあるのは、苦しみと後悔だけぞ」

 騰蛇は諭す様に言葉を紡いだ。

 そう、そんな事は言われなくても分かっている。

 その話を受け入れてはいけないと。

 選ぶ道は決まっているが、口に出来ずにいるのは言い知れぬ恐怖から。

 分かっている――。

 重い唇に動けと命じる。

 口から吐く空気に音を混ぜ込む。

 断ると。

 音は、確かに静寂に響き渡る。

 その答えに、目の前の男は微かに口元を歪めて不気味に微笑む。

「そうですか――非常に残念です。では、これ以上の会話は無意味。黒鬼よ、あの男だけは無傷で。それ以外は、お好きになさって構いません。積年の恨みを存分に与えてやりなさい。それと、ついでですが失敗作の処分にもお付き合いください。神様方」

 歌柊は、指を鳴らす。

 すると、屋敷の奥から怨念を纏う人の形を成した者が湧いて出た。

「なっ――」

 朔羅は絶句する。

「なんて酷い(むごい)」

 六合は袖で口元を覆う。

「既に人にあらず。動く屍と言ったところか」

 僅かに感じる妖気。

 歌柊の口にした失敗作という言葉から、赤鬼等を創る為に先立って、何かを行なった結果の果てだと想像がつく。

 そして、その中には天璋院の家紋も見受けられた。

 朔羅は、歌柊の顔を睨む。

「怖い顔――その顔が絶望に歪むのは見ものですね」

 くすくすと笑む姿に、朔羅は両手の拳を強く握り締める。

「……なぁ、なんとかしたいんだが。なんとか出来るか?」

 不意に口をついて出た。

「あぁ、なんとかしよう」

「頼む」

 声を受け、騰蛇は太刀を構える。

「ボクは、あっちに行くね」

 白虎は両手に脇差を構え、動く屍の群れへと歩んで行く。

「盟約ノモト我モトへ召シ寄セル。鴉」

 朔羅の呼び声に、鴉はその姿を表した。

 鴉へ、朔羅は白虎を援護する様に命ず。

 御意。

 そう一言だけ発すると、その妖は漆黒の羽を大きく広げ、一度(ひとたび)扇ぐ。すると、黒い無数の刃が動く屍へと突き刺さって行く。

 痛みを感じない体は、刃を受けて尚動きを止める事はない。

 ただひたすらに、命令に従う屍人形。

「厄介」

 白虎は小声で呟くと、その刃を心臓目掛けて突き立てた。だが、屍人形は、声すら上げず再び動き出す。

「……これで倒れてくれたらよかったのにな」

 物悲しげな表情の後。白虎は無慈悲に四肢を切り落とす。

「ごめんね。こうしないと、止められないみたいだから」

「それで良いのか?」

 鴉は白虎へ問う。

「どういう意味?」

「止めるだけで良いのか? って事さ」

「うん。これで動けなくはなるみたいだから。でも――あの男、油断出来ない。この後に何があるか。何をしてくるか」

「そうか、分かった」


 白虎と鴉が共に屍人形を相手取る横で、騰蛇と朱雀は黒鬼との攻防に身を投じていた。

 既に神気を解放している所為か、熱気が凄まじい。

 刃のぶつかり合う音と、炎の燃え上がる音。

 隙の無い動きにに身を置きながらも、黒鬼は無表情のまま。恐れも疲れも何も感じない姿に、朔羅は気圧される。

「化け物か」

 あの騰蛇を相手に見劣りしない動き。

 朔羅は、どう援護すべきかを見失う。

「焦ってはいけません。今、これより先に出ては灰となりましょう」

 六合は朔羅を制すように左腕を伸ばす。

「それより、これをご覧ください。太陰よりあちらの状況です」

 小さな鏡を、六合は手渡した。

 朔羅はその渡された鏡を覗き込み、あちらが今まさに赤鬼によって怨念の渦の中に引きづり込まれた事を知る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る