十四
朔羅と共に、あちら側へ。
その命を受けたのは、騰蛇、朱雀。そして、六合。
書が奪われた今。
水月をあちらへ帰すのは危険と判断し、貴人の城へ留まる事になる。身の世話は、巳月が請け負う事になった。
「巳月は、大丈夫かしら……」
朔羅の屋敷にて、六合はふとした思いを口にする。
「大丈夫とは?」
座卓を挟み、向かい合わせで座る騰蛇からの声が飛ぶ。
「同じ――目をしていたので気になりました。所詮は、神と人。その想いが遂げる事はございません」
六合は、そっと瞳を伏せる。
「巳月も、それは理解していよう。例え――その想いに気付いたとて、告げる事はあるまい。あれは、そういう奴よ。とはいえ、因果とは、誠酷な事をするものだな」
騰蛇は広い庭へと視線を移す。
「あの時――。我等は、共に半身を失った。あやつは、それに負い目を感じている。口には出さぬがな」
「騰蛇……」
「何、我は何も気にはしておらぬぞ。あやつを守るためだったのだからな。我が半身の決断ではあるが、それは同時に我の決断でもある」
後悔はしておらぬ。
騰蛇は、ふっとその半身を思い出す様に微笑んだ。
「話に水を差す様で悪いんだが、これ見てくれ。今し方、偵察に行かせてたやつからの知らせだ」
座卓の上に、朔羅は地形の描かれた紙きれを置いた。
庭と向き合う場所に、胡坐をかく。
騰蛇達は置かれたその紙切れに目を通す。
そこには、五つの山と黒く塗り潰された点が記されていた。
「この点は何なんだ?」
朱雀は首を傾げて問う。
「この山々は、五山。そして、ここには確か――かつて、冥府へ通づる道が在った場所……」
指で指し示しながら、六合が答える。
「へぇ、当りだ。随分とこちらに詳しいんだな」
ニヤリとした表情で朔羅は六合の顔を覗き込んだ。
「それは――今は話さずともよいでしょう。それより、黒く塗りつぶされているのが気になります」
「そうだ。黄泉への道は塞がれ、今はその場所には何もない。だが、ここに黒い気配があったというわけさ。ま、誰かが道を抉じ開けでもしたんだろう」
「んじゃ、黒鬼はここから冥府へ降りたのか?」
「恐らく、そうであろうな」
「黒鬼だけでも厄介。ですが、書とは魂の記録。必ずや、取り返せねばなりません」
「閻魔が貴人に頼み事なんて――相当切羽詰まってんだな」
「閻魔は死することはない。だが、決して簡単に傷を負わせれる相手ではない。だが、手酷くやられるとは。そこまでの力を既に黒鬼は付けているのであろう。冥府から共に強奪した、蒼鬼と赤鬼の魂をどうするつもりであるのかも、注視せねばならぬな」
言い終えると、騰蛇は銀が座卓に置いた緑茶を、口に含んだ。
「でも、そっちは冥府で何とかするって事じゃなかったか?」
「朱雀。問題なのは、器です。魂だけでは何もできません」
六合の言葉に、納得の表情を朱雀は浮かべる。
「それを使うつもりならば、間違いなく器は必要。して、何を器とするか。か」
「器ねぇ」
器と口にする朔羅の表情は、僅かに不満を表した。
「すまぬな。器という表現は、そなたには好ましくないようだ」
「別に。入れ物って意味合いでは間違いじゃない。ただ、何と無く冷たい感じがしただけさ」
人も妖も、魂を入れるだけの入れ物。
それには、どうにも度し難い差を感じた。
「そなたの言いたい事は分かった。確かに、突き放す言葉であったな。して、如何な呼び名を付けるのが良かろうか?」
話の理解が早い騰蛇から、器に変わる名を求められる。
「体。そっちの方がしっくりくる」
「うむ。では、その様に呼ぶとしよう」
「――では、黒鬼ですが。まずは、鬼となる体を探す事でしょう。ですが、生きている者の体に、魂の入る余地はありませんので、選ぶとすれば死した体でしょう。しかし、こちらでは死者は火葬。墓場を荒らしても、それは無意味なことです」
六合は器という言葉を言い換えて見解を口にした。
「墓場に鬼の気配はないらしいから、そこは外していいだろう」
「前にこっちに来た時、戦の跡があったが、その時の死体とかはどうなんだ?」
「朱雀よ。時とは流れるもの。あの時の屍であれば腐敗してとても体としては機能しないだろう」
「そうか……」
閃きを容易に否定され、肩を落とした朱雀の隣。一連の会話を耳にしていた銀が、庭先に一つの妖気を感じ、朔羅に目線を配る。
「鴉か」
朔羅の言う通り。
庭先に一羽の鴉が舞い降り、深紅の瞳でもって朔羅を見た。
「何か分かったか?」
鴉に向けて、口を開く。
すると、鴉は目を閉じその姿を人の形へと変えた。
艶のある濡羽色の黒髪が、さらりと風に揺れた。青年の姿となった鴉は、閉じていた深紅の瞳を再び朔羅へ向ける。
「悪いが、何も見つからなかった。鬼とやら、本当にこちらに居るのか?」
艶のある声音で、鴉は問いかけた。
「あれは、そなたの式か?」
「形的には、そうだな」
騰蛇は、鴉の方へ体を向ける。
「鴉とやら、我は騰蛇。訳あって今は同じ式として使える身。宜しく頼む」
名を告げ、軽く一礼をする。
「知っている。ここで一度会っているからな。神まで使役するとは、なかなかやるな。朔羅」
鴉は嫌味をぶつけた。
「脅されただけだっての。どうにも、鬼退治をしなきゃ解放してくれないからな。仕方なくだ、仕方なく!」
朔羅は、自分の意思では無いと強調した。
「すみませんが、話を戻させて頂きます。私は、初めましてですね。名を六合と申します。それで、先程の話は本当ですか?」
六合は、鴉を真っ直ぐに見据えた。
「間違いない。天璋院の屋敷だけは、守りが固すぎて調べれなかったがな」
鴉の言葉に、朔羅は目を見開く。
「天璋院の屋敷って事は、結界か?」
「あぁ。虫一匹通さずって感じだったからな。目が届かない」
術を使う家故、結界を張る事自体は珍しくは無い。
現にここも、結界を張っている。
そして、結界を張る理由。
妖気を外に出さない為。もとい、妖を住まわせている。もしくは、何らかの術式を行っている――。
朔羅は、急に五山の書かれた紙を手に取り、その黒く塗りつぶされた箇所をじっと見つめる。そして、考えを巡らせた後、ゴクリと生唾を飲んだ。
冥府への道は、確かに塞がれている。
だが、思い出したのだ。
冥府への道を開く秘術の存在を。
しかし、その秘術を行うには媒体として、冥府に通ずる者無くして行えない。故に、行う事は不可能に近いが――。
「まさか、鬼か? 鴉の言う事が正しいとすれば、何だって天璋院が鬼なんか――」
「おーい。独り言じゃなくってよ、ちゃんと話してくれねーか?」
小声でブツブツと呟く朔羅の肩を、朱雀は軽く叩く。
「あぁ……悪い。確証がないからな、単なる思い過ごしかもしれねぇんだが」
「構わぬ。先に進む手掛かりは必要故」
「分かった」
朔羅は騰蛇に促され、浮かび上がった可能性を口にした。
***
緩やかな時間ではあった。
何をするでもなく、ただただ時間だけが過ぎて行く。
その時の流れは遅く、世界に独り取り残されたような感覚。
ただ時折、私に会いに見目麗しい神々が訪れる。
そんな日々。
来る者全てが、私ではなく、水月(すいげつ)に会いにきているのは理解している。
こちらに来てから、ずっとそうだったから。
誰もが、私の中の水月(すいげつ)を見ている。
胸に黒く、塞ぎようの無い穴が空いた感じがする。
神でさえ、私を見てはくれていない。
そう思うと、どうしようもなく苦しくて仕方がない。
この苦しみを、私は知り得なかった。
一人のぼっち孤独より、誰にも見てもらえない、誰にも必要とされない孤独。
こっちの方が、ずっとずっと苦しいなんて――。
水月の脳裏に家族の顔が浮かんだ。
思い返せば、父上も母上も、私の事を本当に心配して大事にしてくれていた。
私の名前を呼ぶ、母の優しい声が幻聴のように聞こえる。
「水月」
「……母上?」
無意識にそう口をついて出た。
けれど、その声はこちらに来てから一番長く耳にしている声。
母の声には遥かに遠い男の声。
水月を読んだ声の主は、複雑な表情で見下ろしていた。
「巳月さん……」
弱っているのは、体だけでは無い。
水月(すいげつ)の存在が、彼女を苦しめているのには気づいていた。
その名を口にすると、彼女の光が陰る。
そして、傷つけているのは、自分も例外では無い事。
虚ろな瞳は巳月を見上げる。
その曇ったひ瞳に、再び胸の奥が疼く。
巳月は、彼女の頭を優しく撫でる。
「貴人様よりお話があると……。もうすぐ参られるが、大丈夫か?」
水月は、小さく頷いた。
断りはしないものの、表情は暗い。
どうか、あの日の様に笑ってはくれないだろうか。
巳月は、騰炎城での事を思い出す。
菴羅を口にした時の、輝かしい瞳と眩しい笑顔を。
巳月の金色の瞳が細まる。
――ずっと、笑っていて欲しい。
治まらない胸の疼きと共に芽生える願い。
口に出来ぬ想い。
――水月(みずき)。
心の中で彼女の名を呼ぶ。
一層愛おしむ様に、熱のこもった視線が、水月へ向かう。
だが、彼女はそれに気付かない。
「…………来られた様だ」
その気配を感じ、巳月は彼女の頭から名残惜しそうに手を離した。
大柄の牡丹があしらわれた紫紺色の着物に、葵色の羽織に袖を通さず肩にかけた姿。さらりと揺れる金糸の髪。藤紫色の瞳は、静かに水月をその目に映す。
まるで力がない。
生きる気力とでもいうべきか。
兎にも角にも命の光が弱くてなっている。
当然だ。
彼女は、水月という一人の人の子なのだから。
貴人は、彼女の目の前に腰掛け目線を合わせる。
「――それでは、失礼致します」
「出ずとも良い」
部屋を出ようとする巳月を貴人は呼び止める。
巳月には、貴人の言葉に反する態度は取ることが出来ない。故に、その場の壁側に立ち見守る事となった。
「水月」
貴人は、彼女の名を呼ぶ。
「はい……」
小さく答えた。
「良き声だ」
貴人は、水月の声音を褒めた。
その言葉に、僅かに彼女は貴人の端正な顔を見つめた。
それから、貴人は水月へ一つ、また一つと問いを投げる。
幼き日の事。
家族の事。
これまで読んだ本の話や、好みの食べ物の話。
一つ答える度に、貴人はしっかりと反応を示す。
会話を重ねる度に、彼女に光が戻っていく。
その光景を目の前にする巳月の中に、言い表せない苛立ちが生まれる。
彼女に光が戻るのは喜ばしい事。
だが――
巳月は、ふっと二人から視線を外した。
「あの――どうして、私の事ばかり聞くのですか?」
自分の事を見てもらえている様で嬉しい反面、何故水月(すいげつ)の話をしないのかが疑問として引っ掛かっていた。
「人は皆、輪廻がある。誰しもが、かつては別の誰かとして生きていた。本来なら、過去を知り得る事などないのだが――。知った所で、過去は過去。今は今。そなたは、そなた。この世にただ一人の水月という存在。であるなら、この世にただ一人、水月という人間の事を知りたいと思うたまで。これで、答えになったか?」
視線をそらす事なく、水月の目を見て貴人は答えた。
あまりにも真っ直ぐで力強い声に、水月は言葉を紡ぐ事が出来ない。
「水月。そなたの体は我らが必ず治そう。そして、そなたの人生を歩むが良い。水月として、精一杯生きよ。それまで、今暫くここに居てもらうが、辛抱できるか?」
柔らかな、青白い頬に貴人は触れた。
優しい声音であった。
水月は、自然と貴人の言葉を受け入れた。
「では、後でこちらに菴羅をお持ちしよう。巳月より好きだと聞き入れた故。その時はまた、そなたの話を聞かせてくれるか?」
「はい」
貴人は、すっと立ち上がる。
「巳月を少々借りていく。その間、何か用事があれば丑鈴に申し付けよ」
瞳が、着いて来られよ。そう、訴えていた。
巳月は貴人の後、三歩ほど距離を取って歩いた。
貴人の間を中心に、客間とは反対側。
眷属神にすらすれ違う事がない場所。その一角にある小さな部屋の扉を開き、中に入る。
暗くはないが、殺風景。
そこには、椅子の一つも無い、ただの小さな空間。
先に部屋の中に入った貴人は、何も無い床にそのまま正座をする。
「腰を下されよ」
貴人は巳月へ座る様促す。
目の前に見る貴人は、今し方水月と話していた時の雰囲気とは異なり、異様な威圧感を放つ。
巳月は座ると直ぐに背筋を伸ばした。
「巳月。そなたが今もこうして神として生きている。その理由――忘れてはおるまいな」
開口一撃。貴人は唐突に傷を突き上げる。
「――忘れるはずが……ありません」
巳月の視線が僅かに揺らぐ。
「ならば良い。そなたには、話しておくべき事があるのでな」
「話――とは?」
「祟の事だ」
貴人の言葉は率直であった。
「あれは、巳影の祟に侵されている」
巳影。
忘れられる筈がない。
あの日、祟り神となった、双子の弟を――。
巳月は拳を握りしめ動揺を見せた。
「――では何故、水月にあの様な言葉をお話しになられたのですか?」
体を治す。などと――出来る筈もない事を。
祟を治す事は、不可能に近い。
「書を取り返す。閻魔には、その借りを返してもらう。それだけの事」
巳月は察しが良く、貴人が何を言いたいかが理解出来た。
「所詮は神と人。叶わぬ事だと分からぬそなたではあるまい。それでも尚、その胸を焦がすか?」
水月への恋慕を、貴人は見抜いていた。それは、嫉妬する程に強まっている事も全て、見通している。
現に、問いかけに巳月は否定の言葉を口に出来ない。
「――巳影の二の舞にだけはなるでないぞ。そなたの身代わりとして、半身を捧げた騰蛇に、申し訳が立たぬ」
「……十分に心得ております」
そう答える巳月の拳が小さく震える。
どうにもならないと知っていていても、止められない――。
「そんなに握りしめては血が出よう」
巳月の拳に視線を送り、貴人は意識的に緩める様促がす。
「難儀よな。だが、最後まで、しっかりと守られよ」
その時まで。
貴人はそう言い残すと、静かに部屋を後にした。
***
仄暗く、湿った洞窟の中。
細く低い道を抜け、少々開けた場所。
風も通らないその空間から、微かに男の声がする。
灯りは、蝋燭の炎が一つ。僅かにその儀を照らす。
地面には、五芒星と取り囲む様に描かれた円。
その中央には、黒く干からびた何かの生き物だつた物。
男の声に答えるかの様に、五芒星は青白い光彩を放ち始めた。
抑揚のない声は、途切れる事なく紡がれる。
光は徐々に増していき、やがて五芒星は一つの光の穴となった。
ゆらり。
炎が揺れた。
「奏(かなで)――いや、赤鬼(せっき)。ちゃんと挨拶は出来るね?」
その者は、ただ頷いた。
「お利口さんだ。さぁ、行っておいで」
再び頷くと、その者は光の中に身を投じた。
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