十三
太陰に腕を引かれ、中腰のまま男はとある部屋の前に着いた。
「水月や、入るぞ」
閉ざされた扉に向かい、声を発すると、太陰は返答を聞かずに中へと入っていく。
迷いのない行動に、男は何も言えない。
広い客間の中。
そこには、一人の女性が佇んでいた。
今にも消え入りそうな、儚げな雰囲気。
色白な美人だが、奥に佇む闇が気になった。
「見惚れておるのか?」
太陰は下から顔を覗き込む。
「……ちげーよ」
「そうかのう?」
疑いの眼差し。
「見て欲しかったんじゃないのか?」
「そうじゃ。もう、分かったのか?」
「いや……」
太陰から視線を再び、目の前の女性へ向ける。
じっと目を凝らし視える先には、闇。
黒く湿った蠢めく螺旋。
そして――。
「…………厄介だな」
「わしにも解けぬ呪じゃ」
「呪? でも、これは――」
呪なんかじゃない。
男は、そう言おうとしてやめた。まだ、呪の方が良い。
「何じゃ。言うてみよ」
「いや、俺の見立て違いだ」
男は呪を肯定するが、太陰は目を細めて男の顔を覗き込む。
「嘘が下手よの……まぁ、良い。まずは紹介じゃ」
太陰は、男の腰部分を押す。
「ほれ、名を言わぬか」
「月影 朔羅」
急かされ、ぶっきらぼうに名のみ告げる。
「こやつは、そなたと同じ人の子。わしらよりは話しやすかろう」
袖で口元を覆いながら太陰は笑んだ。
それが気遣いだと知るのに、時間はかからない。 朔羅と水月はお互いの顔を見合わせた。
「……神様相手よりは。だな」
「随分と棘があるの」
「あったりまえだ。いきなりこんな場所に連れてきて、いきなり神様相手に戦えだ、なんだかんだ言われて、いい気分はしないね」
両腕を組み、そっぽを向く。
「仕方なかろう。一大事じゃ」
悪びれもせず言ってのける姿に、男はため息を吐いた。
「兎にも角にもじゃ。時間はある。ゆっくりするが良い。それと――」
太陰は、男の袖をぐいっと引き寄せ、体制を崩した耳元に囁いた。
濁した言葉。後で、じっくり聞かせてもらうぞ。
鳥肌がたった。
今までの口調とは異なる、本質を覗かせる大人びた声音が、響いた。
「良いな?」
逆らえない。
男は、頷くしか出来なかった。
「後ほど茶でも持って来させよう。ではの」
***
「くっ」
余裕のない表情が浮かぶ。
金色の瞳の先には、獲物を捉えて離さない主の姿があった。
刃を交える事は幾度とあったが、神気を込める事はない。だが、今は違う。主の刃は漆黒に姿を変え、その刀身には黒炎が張り付き、全てを焼き尽くそうと唸り声を上げている。
一瞬の隙が命取り。あの渦巻く闇に飲み込まれたら最期。この身は灰となり、跡形もない。
「雪の様に真っ白い。あいも変わらず、美しいな」
「騰蛇様……」
巳月の返しの後、騰蛇は距離を取った。
直後、再び素早く刃を振るう。刃より放たれた、漆黒の炎は大きな口を開けて、巳月を喰らおうと襲いかかる。
迫る蛇の口を防ぐべく、巳月は自身の前に凍てついた盾を創り出す。
純白の壁に阻まれた黒い蛇は、突き破る勢いで突進するが、その身を氷に包まれ勢いを失う。
目の前の蛇に気を取られていた巳月の目に、切り込んでくる騰蛇の姿が飛び込んできた。
寸前で、躱した後も追撃は止まず。
息つく暇も与えない攻撃が再び始まる。
二人の様子を、朱雀達はずっと高みの見物をしていた。
「無駄のない動きだな。しかも執拗に追いかける辺り、まさしく蛇」
「おい、それを言ったら怒られるぞ」
天空の言葉に朱雀は慌てる。
「本当の事じゃん。でも、こうなったあいつを相手にするのは面倒。しつこいから」
「天空!」
朱雀は声を張る。
黒炎が、天空の頬を掠めていた。
僅かに焼け焦げた匂いがし、傷を静かに指でなぞる。
「ったく、地獄耳だね」
じんわりと痛む頬を摩る。
「でもま、加減をする余裕はまだあるって事か」
この程度で済んだ事には安堵する。しかしながら、流石に部が悪いと、巳月を見やる。
疲れなど感じさせない涼しい顔をしているが、元々表情が乏しい彼だが、その肩が大きく上下した。
「いくら強いっていっても、この状況下でこれ以上の体力を消耗するのも如何なものか」
天空は有無を言わさず朱雀の腕を掴むと、巳月の横に降りた。
「天空様」
「ちょっと、おい、天空!」
巳月と朱雀は同時に天空へ視線を向けた。
「加勢するけど、いいよね」
彼の言葉は、騰蛇へ向けられていた。
覇気を垂れ流しにしている騰蛇は、三人を目の前に笑んだ。
「大方、今の天候は快晴といった所か。そなたの気まぐれには敵わぬ。興が削がれたな」
流石に、三人まともに相手をするのは、今後に影響が出にとは言い切れない。それに、ここは貴人の住処。これ以上の勝手は、彼の逆鱗に触れかねない。そう、判断した。
「すまぬな、気を使わせた様だ」
「別に」
天空は、素っ気なく返す。
「なぁ、話が見えてこないんだが」
一人状況を飲み込めない朱雀が呟く。
「はぁ?」
瞬きをする朱雀を天空は、呆れた顔で見上げる。
「……いいや、もう疲れるから、先に行く」
説明するのを放棄し、天空は一人部屋を後にする。
「なんだよ、あれ」
全くもって状況が掴めない朱雀は口を尖らせる。
「朱雀様。恐らくは、騰蛇様の戦意を消失すべく、貴方様を巻き込まれたのかと。お二方を相手にされては、騰蛇様とて余裕などなくなりましょう。さすれば、ここはどうなっていた事か」
巳月の説明の途中から、朱雀の顔には焦りが浮かんだ。
貴人の怒りを買う所であった。
「それだけは勘弁だ」
「そうじゃ。それだけはならぬ」
やっと話の筋が見えた所で、朱雀と騰蛇は互いの顔を見合う。
「おい、巳月、騰蛇。汗も流した事だし、湯浴みでもしてゆっくり休め、なっ」
「うむ」
「それじゃ、お呼びがかかるまで解散だ」
朱雀の言葉でこの場は締めくくられた。
***
夕餉の後。
与えられた部屋で、一人窓辺から覗く月を眺めていた。
蒼い月。
今自分の居る場所が神の世界だという事実。
ふと、昔を思い出す。
妖がこの目に姿を映し、言葉を交わす事さえも、息をするのと同じ。ごく普通の事だった。
それが普通ではないと感じたのは、物心ついた頃だ。
自分に見えるものが、他人には見えていない。
自分の周りには、こんなにも沢山の友が居るのに、自分はいつも独りだ。
人の世と妖の世。二つの世界を両立するのは難しく、結局どちらも中途半端に片足だけ踏み入れた曖昧な状態になった。所詮、人は妖を理解できず、妖も人を理解は出来ない。互いに存在を周知はしていても、異物と認識する。自分たちの世界を脅かす者として。
どちらかに肩入れすば、どちらかを壊してしまう。
自分に、それは出来ない。
だから――
「考え事かの?」
朔羅の耳に声が届く。
「……悪いか?」
「いや、分からなくもないからのう」
小さき姿に、何故自分を訪ねたのかは想像がつく。
「あの子の事か?」
「そうじゃ。話が早いの」
太陰は入室の許可も得ずに、朔羅の元へと歩み寄る。
「ほれ、手土産じゃ」
そう言って、酒瓶を突き出す。
「これで、洗いざらい喋れって事か」
「察しがいいのう」
「……ちょっとは否定して欲しいもんだな」
子供の無邪気な笑顔で言われると、なんとも攻めにくい。
差し出された盃を受け取ると、太陰はそこへ酒を並々注いだ。朔羅は溢れそうな酒を一口口に含む。
「うまいな」
「そうじゃろ」
双方、しばし酒の味を楽しんだ後、軽くなった口から紡がれた言葉はその事についてだった。
朔羅は告げた。
彼女の身の内にあるのは、呪ではなく祟だと。
祟。
その言葉を聞いた途端、一瞬目が開いたかと思えば、すぐ様太陰の顔が曇った。無理もない。祟は、神にしか起こせない。
呪なれば、呪をかけた者を辿る僅かな線が残るが、それは感じられなかった。代わりに感じるのは、ただ黒い闇のような怨念。呪の比ではない、その暗闇が冷たく渦巻き命を喰らう。この先も、ずっと。
「こっちは、話したぜ。これで、満足か?」
依然、顔に笑みはない。
「何だ、だんまりかよ」
無邪気な子供の様な振る舞いをしていた太陰は、朔羅の言葉に眉を寄せ無言となる。
無理もないか。
朔羅は、言えばこうなると分かっていた。だから、言いたくなかった。
祟は、祟り神が生まれなかれば起きない。
祟り神は、神が成るもの。
詰まる所、神の祟が水月を蝕んでいる。
「……祟、か」
声音は低く大人びていた。
小さい声で、祟りと口にした太陰は、酒を煽る。
「何か知っているのか?」
空になった盃に、朔羅は酒を注いだ。
「こう見えて長く生きておる。知らぬ事の方が少ない。あれは、見るに耐えなんだ。あやつは、水月を好いておった。だから、黒鬼から水月を庇い大きな深傷を負ったのじゃ。だがの、その水月を、わしらは護る事が出来なんだ。命にかかわる傷を負いながら、やっと黒鬼を封じたものの、水月は腹に受けた傷口を抑え込み倒れたのじゃ。あやつは――許せなかったじゃろう。水月を護れなかった己とわしらを。好いた女が目の前で息絶えようとしているのじゃ。あやつの体から、凄まじい怨念が吹き出し、異形の祟り神になろうとしていた。こうなっては、もう浄葬(じょうそう)するしか手はなくてのう。水月は、これからわしらが、あやつに何をするか――気付いたのだろうな。息も絶え絶えに、それでも這いつくばり、必死にあやつの元へ向かった。わしらは、水月を止めなかった。長くないと、分かっていたからのう。水月は、あやつの体をその腕に抱いた。そして、祟り神になってはいけないと。最期の言葉を残したのじゃ。水月の声が、届いたのかのう。あやつは、一瞬我に返り水月の死した体を抱きしめ、涙した。その光景は、今でも忘れられぬ。水月への強い想いが、祟となってしまったようじゃのう――」
その時起きた事を、語る太陰には悲愴感が漂っていた。
「で、祟り神の正体は誰だったんだ?」
完全な祟り神になる前に浄葬されたにも関わらず、祟を起こした。よっぽどの強い想いがあったのだろう。そうまでして、人を愛した神の名を、朔羅は問う。
太陰は、月を見上げた。
じっと、夜空に輝く月を、ただ見つめる。
その姿に、名を告げるには、唇は重く閉ざされているのだと感じる。
手中の盃の中に、月が映り込み揺れる。
「ま、言いたくないなら言わなくていい。知ったところで、誰かわからんしな」
朔羅は、そう言うと、映り込んだ月ごと酒を喉に流す。
「祟り神にだけはなってはならぬ。この世界の掟じゃ。祟り神が出た者の身内は、この世界に住まうことは出来ぬ。だがの、例外もあってのう……」
ふっと視線を落とす。
「例外ねぇ。ここには、その祟り神の血縁者がまだ居るって事か――」
だとすれば、言い難いのは確か。
「鋭いのう。じゃが、問題は祟の解き方じゃ。浄葬された魂は、人として成りかわる。成りかわった祟り神であった人の言霊でしか、解けぬ。人の世から、その一つの魂を探し出す事は容易ではない。まして、人の生は短く転生を繰り返す。一つの魂を見つけ出せるか。見つけだすまで、水月の体が保つかどうかじゃ……」
ぎゅっと、小さき手は盃を握る。
祟を解く事は限りなく不可能に近い。
「……我等がこんなにも祟に盲目であったとはのう。頼みの綱はおぬしじゃ。祟を見抜く力を持っておる」
「おいおい、鬼退治の上に祟を解けって事かぁ?」
次々と。神の要望には頭を抱える。
「勘弁してくれよ。ただでさえ鬼退治に付き合わされるんだ。しかも、命がけだ。この上、祟まで何とかしろってのは、虫のいい話だ」
「それも、そうじゃの……」
活力が消え、顔を伏せる童の姿に、自分の方が悪い事を言ってしまった罪悪感が芽生える。子供を泣かせた大の大人。ここが人の世であれば、白い目で見られるのは自分の方だと、朔羅は思う。
だが、全てが神の都合であり、朔羅は単に巻き込まれているだけ。
それ以上、彼から太陰へ声をかける事はなかった。
***
言えぬ。
それを口にすれば、傷を抉る事になる。
やっと。
やっと、痛みが消えた所であろう。
今また鬼の話で疼く傷口を、さらに広げる事には抵抗があった。
朔羅の問いに、太陰は口を閉ざす事しかできなかった。
「半身を失う痛みは、わしには想像つかぬ。つかぬ程の苦しみであったであろうな……」
俯き、漏れる言葉に力はない。
「なんだ? お婆。元気ないなぁ。何かあったのか?」
背後から降る声の主が誰であるかは声音で分かる。
朱雀。
今会うのが、お主で良かった。
「お主は変わらぬなぁ。ちと、頭が足りぬが。それが良いところじゃ」
「おいおい。なんだいきなり。俺は、褒められたのか?」
「良いところであると、言うたではないか」
今一ちゃんと喜べないのは、太陰の様子がいつもと違うからであると、朱雀は直感で思う。
「にしても、お婆。いつもより暗いぜ。やっぱ、何かあったんじゃないのか?」
朱雀は、屈み太陰へ顔を寄せる。
じっと、目を合わせられる。
「ふっ。朱雀よ、近すぎじゃ」
曇りなき朱雀の視線に、太陰の口元が緩んだ。
「なぁ、お婆。聞くだけ聞く事はできるぜ」
彼なりの気遣い。
「……隠し通せる事ではないと分かってはいても、やはり口にするのは心苦しい。良いのか? 朱雀。重荷を共にする事になるぞ?」
朱雀がどう返すかなど答えは知れている。
だが、太陰はあえて問う。
「聞くぜ。当たり前だろう」
太陽の笑みを、朱雀は浮かべた。
場所を太陰の部屋に移した後。椅子に座ると、重い口を開く。
つい先程まで交わしていた朔羅との会話。そして、経緯は話せても、当の名を告げられなかった事。
黒鬼というだけで、嫌が応にも思い出させる。気丈に振る舞ってはいるが、内心は解らない。
半身を失い、再び黒鬼を目にし、恨みが湧き上がらないとも言い切れない。怨念にかられ、祟り神にでもなってしまえば、今度はあやつらを浄葬しなくてはならない。
恐れは、そこにある。
神の祟は、恐ろしい。
水月の祟一つ解くこともままならず、さらなる祟を産むことへの恐れ。
「仲間を失う所は見とうないのじゃ……まして祟り神など。信じておらぬわけではないがのう。大切な者を失っておるのじゃ。内なる心が、いつどうなるかまでは誰にも解らぬ。本人でさえのう」
太陰の話を黙って聞いていた朱雀は、難しい顔をし頭を掻く。
「んなもん。黒鬼を倒して、花月の祟りを解けば済む話だろう。それに、あいつらなら大丈夫だ。お婆が心配するような事は起きない。もし、祟り神になろうってんなら、ぶん殴って、目覚まさせてやる」
朱雀らしい言葉には、思わず笑いがこみ上げた。
「驚くほど短絡じゃ」
言った後も、笑いは収まらない。
「おい、お婆。なんだって笑うんだよ」
「いや、何。清々しい答であったからのう、つい。誠、お主らしい答であった」
元より。この朱雀神より慰みの言葉が出てくるとは思ってはいない。ただ、この太陽の如く明るい道筋が、今は救い。
「祟りとはな。貴人には?」
「言わねばなるまい。あやつは鋭いからのう。隠しとおせる自信はないのう」
「花月には、言うのか?」
当の、祟を受けている本人は、この事を知らない。
解くに難あり。
それも、過去に起きた黒鬼との争いが原因。関わりを持った神にも非がある。
言えば、彼女が傷つくのは、目に見えている。
「……我等は、恨み嫌われてしまうかもしれんのう。詫びて、済む話ではなかろう。身に覚えのない無いことで、儚い一生を縛り殺してしまうのじゃ。救いたいが、救うには巳影(みかげ)の魂を探し出さねばならない。じゃが、どうやって人に堕ちた魂を探すのじゃ? 我等は、自由にあちらへ行く事は出来ない。それに、行った所で、たった一つの人の魂を特定するなど……不可能じゃ……」
太陰は顔を伏せた。
無力である。
そう、真実を突きつけらている現状が、悲しく腹立たしい。
伏せる小さな頭を、朱雀の大きな掌が覆う。
そして、降る声に太陰は、小さく頷いた。
***
翌朝、太陰は貴人の元を訪れた。
言いづらい事であるのは確かだが、伝える必要があった。
昨晩、朱雀に告げた事も、太陰は包み隠さず話した。
聞き入る貴人からは、相も変わらず感情が読み取れない。
「水月は、何も悪くはないのじゃ。あれは、わしらの責任じゃ。祟も黒鬼も」
太陰の心は日を跨いだくらいでは晴れなかった。
一人の少女に、あの時の責務を背負わせている。そう思えてならない。
「魂に優劣などあってはならない。水月だったからと、あの娘だけ特別視は出来ぬ。それでも、どうしてもと言うのなら、全ての祟を解くと言わねばならぬぞ、太陰よ。それが解らぬ程ではあるまい」
紫の瞳が、真っ直ぐに太陰を見る。
「……それを言われては、返す言葉もないのう……」
言い負かされる。
それは、容易に想像出来ていた。
「黒鬼は確かに、我等の責任。故に、黒鬼を冥府へ送る。これは、秩序を保つ為だ。それ以上は無い」
黒鬼を倒す以外、あちら側への関与は無い。
貴人は、そう告げる。
「納得いかぬか?」
表情の晴れない太陰に貴人は声を落とす。
「貴人よ。そなたは、我等十二天神の長じゃ。世の理を誰よりも心得ておる。そなたが決めた事には従う。じゃが、水月(すいげつ)が居なければ、式として降りる事もできんかったじゃろう。わしは、その恩を返したいと思うただけじゃ。私情と言われれば否定は出来ぬ。水月(みずき)がこちらへ迷い込んだのも、再び黒鬼が現れたのも、何やら縁(えにし)を感じてのう。胸の奥の蟠り(わだかまり)を取り除く為なんじゃないか。と、まぁ勝手に思っているだけじゃ。長である貴人の判断としては、そうであろう。本心はどうであれ、貴人故に、そうしなければならない。だから、文句は言うまい」
邪魔したのう。
太陰は言い残すと、貴人へ背を向け部屋を後にした。
***
それから七日が過ぎた。
貴人の住まう皇貴城(こうきじょう)には十二の神が集まる。
千の刻振りとなる再会は、決して喜ばしい事ではない。挨拶は手短に交わされ、一様に表情は硬い。貴人の命により、朔羅との契約を終えた後には、黒鬼を如何な方法で滅するのかと、議論が始まった。
稀代の術者と認めた水月でさえ、命を落とした相手。まして、今し方契約を交わした術者は、同じ月影ではあるが、まるで芯が無い。神の目に朔羅はそう映り、不安を煽る結果となった。
「それで、黒鬼の動きはどうなのかね? 六合。あちらの事は、そなたが詳しかろう」
低い声音で渋い表情で問いを投げるのは、青龍。
紺色の長い鬣(たてがみ)を結い上げた姿で、六合を見下ろす。
「……それが、気配が消えている。と」
言いづらそうに問いに答えた六合であった。
「消えた。とは、どうゆう事だ? 黒鬼が現れたという事で、我等はここに集められたのだぞ」
黄金の髪色。深紅の瞳。小柄な少年の姿は両腕を組み、苛立ちを含めた声音で、六合の言葉へ問い掛ける。
「勾陣(こうじん)。気を静められよ」
諫める貴人の声が響く。
「あの黒鬼程の禍々しい気配が消えるというのは、妙ですね」
次いで艶めく女の声。波打つ漆黒の髪を持つ彼女もまた、美しい顔に暗い影を落とす。
「天后(てんこう)の言う事は確かよのう。消えるにも、消滅した訳ではあるまい。なれば、何処に消えたのか。となると、厄介じゃのう」
「どうゆう事だ?」
「あちら側から気配が消えたのなら、行く所は決まっておる」
「ん? 何処だ?」
「朱雀よ。こちらに、黒鬼の気配はあるかのう?」
「いや、ないな」
「であろう。我等もそこまで間抜けではないからのう。さすれば、一つじゃ」
「まさか――」
六合の目が大きく見ひらく。
「冥府に?」
うむ。
太陰は小さく首肯く。
「確証はないがのう。確率は高い。如何な魂も、全て冥府を通らねばならぬ。それに、あそこには、魂の在処を示した書があるという。誰これと目を通して良いモノではないからのう。厳重に保管されてはおるじゃろうが。それには、水月(すいげつ)の事も載っておる」
「あぁ、何て事。それでは、黒鬼は水月(みずき)を探して居ると?」
「無いとは言えんじゃろう。封じられていたのじゃ。さぞ、恨みは深かろう」
「んなことさせねぇよ!」
「朱雀に同意。水月(みずき)はボク達が護る」
白虎が言い終えたところで、丑鈴が取り急ぎと、貴人の元に歩み寄り、そっと耳打ちをする。その報告は、噂をすればといった内容であった。
「冥府の使者だ。少々席を外す。この話は、また改めて行う。それまで、暫し自由になされよ」
***
別室にて。
目立たぬ様、その者は漆黒の外套を羽織って佇んで居る。
深く被った布で顔はよく見えないが、貴人には、それが誰であるか一目で分かった。
それに、用件もおおよその想像がつく。
目の前に座ると、貴人は口を開いた。
「黒鬼でも現れたか? 閻魔よ」
正体を見透かされ、ふっとその口元が歪む。
「ま、隠し通せるはずも無いか」
その者は、外套を脱ぎ、素顔を晒した。
葡萄酒色の短髪。灰色の大きな瞳は、真っ直ぐに貴人を見据える。
「見ての通りだ」
閻魔の体には包帯が多数巻かれ、血が滲んでいる。まだ、傷が塞がっていないのか、顔色も非常に悪い。
「被害は如何程か」
「蒼鬼と赤鬼の魂。それと、書だ」
「魂の記録。か」
「そうだ。どうにもこうにもこのザマだ。あの書を取り返さなきゃならねぇが、今俺が冥府を抜ければ混乱を招く」
「それで?」
「不本意だが――。書を取り返して欲しい。蒼鬼と赤鬼の方は、こちらの鬼(き)でなんとかする」
閻魔の頬を脂汗が流れる。
「相当無茶を強いられた様だな、閻魔よ。動くのがやっとであろう。無理せずとも、使者でも寄越せば、こちらから出向く事は出来たが?」
「ふん。あの状況を見られるほうが我慢ならないだけだ」
自身の怪我を晒す事よりも、よっぽど酷い有り様だと、閻魔は言う。
「我等は人と契約を交わした所。式として、あちらでも自由に動く事が出来る。黒鬼は任されよ。ただし――書の奪還には一つ条件を付けさせてもらう。何分、こちらも命がけ故」
「なんだよ、条件って」
「それは――」
貴人の出した条件は、貴人らしからぬ申し出だった。
それでも、書は冥府の威信に関わる問題。閻魔は渋々承諾した。
「それじゃ、俺は戻る」
息も荒く、足はふらついていた。
「送っても構わんが、如何か?」
「結構だ」
外套を羽織り、閻魔は冥府へとんぼ返りする。
「頑固者よ」
そう呟いた時には、既に閻魔の気配は消えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます