十一
水月(みずき)の中に生まれた疎外感は強まる一方であった。
一番堪えたのは、巳月の口から水月(すいげつ)の事を聞いた時であった。自分が望んで聞いたにも関わらず、巳月がとても大切そうに愛おしそうに話す横顔を見ているのが辛く涙が溢れた。あの日以来、鬱ぎ込む日が多くなったのは確か。
太陰も巳月も気を使ってくれているのが、余計に水月を苦しめる。
皆が優しくしてくれる。
でもそれは、私が水月(すいげつ)だったから。
救いたいのは水月(すいげつ)であって私ではない。
水月の影がいつまでも、どこまでもしつこい位に付き纏う。
重く寝台に沈んだまま寝返りを打つ。
「もう、朝……」
朝日が入り込み、小鳥の囀りが聞こえる。
朝を迎えた水月の体はだるい。
いっそ、このまま永遠に目覚めなければいいのに。
水月(みずき)として生きる事に嫌気が差した。
もう一度寝返りを打ち、目を閉じる。
「水月」
聞きなれた巳月の声だったが、水月は答えず寝ているふりをする。
「水月……」
優しく名を呼ばれる。
巳月は、水月の美しい黒髪を起こさぬように撫でる。
「……水月」
三度目の声音は熱を帯びていた。
巳月は黒髪にそっと唇を落とすと、水月を起こさぬように部屋を静かに出て行った。
巳月の行動は水月の鼓動を急激に早めた。不意打ちの事に、水月は戸惑う。
熱を感じた場所を、そっと手で確かめる。
「巳月……」
小さく名を呟く。
壁越しに、巳月は唇を覆う。
小さな変化。
自分の取った行動に、自分自身が一番驚いている。艶のある美しい黒髪へ、唇を寄せる。
突然襲う衝動のままに動いた。
白い肌に長い睫毛。静かに寝息を立てる横顔を見ていたら、急に……。
水月と出会ってから一月も経っていない。
自分に自信がないのか、いつもおどおどとしていて、非がなくても謝る癖がある。か弱いが、そのくせ強がる。儚げで危なかっしくて、放っておけない。子を見守る気持ちとは、斯様なものなのだろうか。
だが、あの行動は――。
胸の中は晴れず、鈍色の雲が漂っている。
捉えられない感情に、巳月は溜息を零す。
彼女が目を覚まさなくて良かった。そう思う。
目を合わせていたら、どんな言葉を紡げばいいか分からないまま、気まずい空気が流れただろう。
巳月は空を仰ぎ見る。
胸中とは真逆の、雲一つ浮かない晴天だ。
「これ。水月を呼んで参れと言うたではないか」
太陰の声で我に返る。
「太陰様……」
「騰蛇からの土産じゃが、じき到着する故、早う支度じゃ。お主も喜ぶであろうな」
太陰は浮き足立って水月を起こしに行く。
何をしている。と、問われなかったのが救い。巳月は太陰の後を追った。
この日は紅葉柄の着物を着せる。
太陰は、毎日それは雅な着物を水月へ着せた。髪飾りや帯まで華やかに。
城の中には、綺酉と巳月しか居ないにも関わらず、毎日の事で少しは慣れてくる。
仕舞いじゃ。
太陰はそう言うと、水月の唇へ紅を差した。
「よきかなよきかな」
さて、参るぞ。
太陰は水月を連れ、太陰の間へと入っていく。
ここは、城の主の間。どの部屋よりも広く、天井も遠い空間。騰蛇の時と同じく高座があり、太陰はそこへ座る。横には綺酉が付き従い、格式張った空気が流れた。
この場に呼ばれた水月は、高座の下へと座る。
隣には、巳月が静かに姿勢を正して正座した。その凛とした姿は、神々しく水月の目に映る。
綺麗な白髪に、透き通る肌。何より、金色の瞳は美しい。
水月の胸の奥が疼いた。
視線を感じ、巳月の視線は水月とぶつかった。双方、視線を合わせたまま早まる鼓動を強く感じた。
見惚れていた。
互いに、自身の行動に気づき同時に視線を離す。
二人の様子を高座から見ていた太陰は難しい顔をしたが、扉を叩く音に表情を直ぐ様変化させ、招き入れよと綺酉へ命ずる。
開かれた扉からは、騰蛇と朱雀の姿と、もう一人。
落ち着いた紺色の着物姿の青年であった。髪が銀色に輝き、力強い榛色(はしばみいろ)の瞳が印象的。
青年は水月を一直線に見つめ、瞳を輝かせる。
子が親を探し当てた様に。
太陰の前に騰蛇達は座った。
「銀や。わしを覚えておるか?」
「はい、勿論でございます太陰様。巳月様もお懐かしゅうございます。こうして再びお会いでき、嬉しゅうございます」
野山に棲む狐とは、大きさも尾の数も違う。
「美しいのう。どれ」
太陰は高座を降り、銀の首元へ抱きつく。顔が、丁度喉元に埋まる。
「ふわふわじゃ」
満面の笑みを浮かべる。
毛並みの良さを確かめる太陰に、銀は緩やかに尾を振る。
「太陰よ、そなたがくっついては、銀が困ろう」
「うむ。そうであったな」
名残惜しそうに首から離れる。
「水月よ。覚えておらぬのは承知の上じゃが、銀の話を聞いてやってくれ」
太陰の言葉で察しがつく。また――水月(すいげつ)の話なのだと。
聞きたくない。
とは言い出せず、ゆっくりと頷く。
銀は、水月へ体躯を向きなおすと、伏せ頭を下げた。銀の榛色の潤んだ目は、水月を優しく見上げる。
『千年も前の話です。不愉快かもしれませんが、どうかお許しを』
水月へ一方的な感謝を告げる。単に自己を満足させるだけの事だと、銀は理解している。
『狐は妖とされ、人は狐を狩るようになりました。私共も例外とはならず、ある日、棲処を追われ父も母も殺され、まだ小さかった私も……追われたのです。弓矢が身体を掠めました。それでも、必死に逃げました。沢山の仲間の悲痛な声を聞きながら。それでも追っては執拗で、私は罠にかかってしまい逃げ場を失いました。鋼の刃が脚に食い込む。人の気配は近づき、殺されるのだと……。ですが、声がしました。狐はあちらへ逃げていったと。人の気配は徐々に遠のき、貴女が現れました。威嚇する私を罠から解放し、暴れる私を優しく抱き寄せてくださいました。怪我を癒し、まだ子供であった私を面倒見て下さった。私は貴女に命を救われました。ご迷惑とは存じております。ですが、言わねばなりませぬ。私をお救いくださり、ありがとうございました。心から感謝申し上げます』
狐の鼻先が、床へと擦りつけられる。
どれほどの感謝を表しているかが見て取れるが、水月は一つとして覚えてはいない。
覚えてはいないのは承知の上。そう言われた様に、何一つ。
目の前に居る、毛並みの美しい銀狐。この狐にかける言葉が見つからない。水月はその場で手を強く握る。
「銀。もう良いであろう」
頭を上げようとしない銀へ、太陰は声をかける。
耳がその声を聞き入れ小さく動く。それから、銀はゆっくりと体を起こし、人の形をとる。
「御聞き入れくださり、ありがとうございます」
礼を述べた、銀の優しく憂う眼差しが、水月へ送られる。
自分を通り越して、遥か過去。奥の奥へ向けられた視線が痛い。いくら、どんなに見つめられても、私を見ているのではない。
重く突き刺さる視線から顔を伏せて逃れる。
「……ふむ」
太陰は静かに目を伏せた後、口にする。
「騰蛇よ。こちらに人を連れ込んだと聞いたが。今はどちらに居るのじゃ?」
「月影の者であれば、天空と共に貴人の所に。なかなかの術者故、天空がちょっかいを出しておる。貴人が認めれば、今度こそ」
静かに燃やした闘志が騰蛇の瞳に宿る。
「うむ。わしも見てみたいのう。神を使役するに値するかどうか。のう、綺酉」
行きたい。
そういう目を太陰は綺酉へ向けた。
主の率直な眼差しを受け流す事は出来ない。
「留主はお預かり致します」
「任せたぞ。して、騰蛇と朱雀はどうするのじゃ?」
「今後の事もある故、貴人の元へ参る。朱雀は勿論、巳月と銀も一緒に」
「と、なれば。水月も連れて行くのが良いのう。一人残すのは気がかりじゃ。貴人も、会うて損はないからのう」
水月は太陰達の話から、また、どこかへ行くのだという事だけ理解した。
いつどこに行っても一緒。
誰も、私を見てはくれない――。
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