水月が次に目を覚ました時。

 そこは、船の中ではなかった。

 既視感を覚える光景に、水月はぼやける視界を瞬きで振り払う。

 天井の格子は深みのある茶色。騰蛇の城でもなければ、船上で与えられた自分の部屋とも違う。

 上半身を起こすと、肌寒さを感じた。

 ここは?

「冷えましょう。さぁ、これを」

 聞きなれない儚く優しい声に、主を見やる。

 襟足の長い烏羽色の髪に灰色の瞳。細長い華奢な体。

 その者は、羽織を水月の肩にかけた。

「私は綺酉(きゆう)。太陰様へお使いする者です。事は巳月より聞き入っております。人の子よ。目が覚められたと、伝えに参ります。呪をかけられている御身故、今しばらくお休みくださいませ」

 優美に一礼をし、部屋を出る背を見届ける。

 私は、あのまま……?

 意識を失ったのだと、状況から察する。あれから、どれくらい眠っていたのかは分からないが、差し込む光の強さから、陽が昇っている時間帯であるはわかる。

 騰蛇の城で目覚めた時とは違い、空気が冷たい。

 太陰と言っていた。だから、目的の場所には着いたのだろう。

 水月は、掛けられた羽織を左右胸元まで引っ張り、寒さをしのぐ。


 程なくして、綺酉が水月の元を訪れた。

 彼の横には、羽織袴姿の小さな女の子が居り、じっとこちらを見ている。額を覆い隠す切りそろえられた前髪。頬までの黒髪は、人形のようだ。

「綺酉。下がれ」

 女の子らしい高い声で命ずる。

 綺酉は、命に従う。

 すると、女の子は水月の前へ歩み出る。

「わしは太陰と申す。こう見えて、お主よりも遥か歳上じゃぞ」

 太陰は水月を見上げる。

「ふむ。少しは落ち着いたようじゃの」

 目の奥をじっと見て、太陰はそう言った。

「しかし、これほど強い呪をかけられるとは、驚きじゃ。騰蛇が泣きつくのもわかるのう。どす黒い闇が魂を覆っておる。だが、あまりに強い闇じゃ。調伏は——わしにとて出来ぬ。輪廻の輪に呪を巻き込むとは……余程強い恨みあっての事。一体、誰に呪をかけられたのじゃ? のう、水月(すいげつ)」

 すいげつ。

 太陰は水月(みずき)を確かにそう呼んだ。

 理解が追いつかず、水月は目を丸くする。

「やや、すまぬ。今は、そうは呼ばぬのであったな。だが、いづれは知れる事じゃ。お主と我らは余程強い縁があると見えるが、不思議じゃのう。お主が現れたのと同時にあの噂」

 話の内容が何一つ分からず、水月は小首を傾げる。

「今のお主は何も出来ぬ赤子。全ては我らに任せられるのが、宜しかろう」

 何もせずとも良い。

 太陰はそう言った。

「あの……水月(すいげつ)とは?」

 水月は名に聞き覚えがあった。船上で朱雀は、そう言いかけていた。

「――人はのう、転生を繰り返す。水月(すいげつ)とは、お主のかつての名じゃ。覚えておらぬのは当たり前。全くの別人だからのう。我らがその名を口にするのは、それだけ長く人の世を見てきたからじゃ。言うたであろう? お主より、遥かに歳上じゃと」

 くすり。と、再び笑む。

「さて、腹も空いておろう。起きられるのならば、まずは腹ごしらえじゃ。体力をつけねば、呪に負けてしまうぞ? 綺酉」

 太陰は綺酉を呼びつけ手招く。主の前で膝を折ると、その耳に太陰は顔を近づけ小声で話す。

 何を伝えたかは、水月には聞こえてはいない。

「畏まりました」

「頼んだぞ」

 綺酉へ耳打ちをした太陰は、子供の様に駆け足で部屋を出て行った。

「参りましょう」

 綺酉は手を差し出す。

 その手を取ると、水月は綺酉に連れられた。

 ひんやりとした冷たい空気が、水月の体を包んだ。季節は秋を迎えた印象で、羽織がなければ冷気が肌を刺していただろう。丁度、頬のように。

 陽は高く、聞けば正午前だと綺酉は答えた。それから、まずは冷えた体を温め、昼食をと案内を受ける。

 透明な温泉(ゆせん)の温度は高く、体の芯から温まる事が出来た。高い塀の内側の木々は紅葉(こうよう)の盛りで、色鮮やかな葉が美しい。ひらりと舞う紅葉が温泉に落ちる風景は風情があった。

 こうして一人温泉に浸かりながら空を仰ぎ見ると、なんだか人の世に戻った錯覚を起こす。

「……水月(すいげつ)か」

 ふと口をついて出た。

 一体、どんな人だったのだろう?

 太陰が言った事は本当なのだろうか?

「私、どうなるの……」

 不安が漏れる。

 ここまで来て、呪が解けないと言った言葉が暗い影を落とす。それでも、しっかりしなければとの思いから、温泉で顔を洗い、水月は温泉から上がった。

 着替えとして用意された着物に、水月は絶句する。着せてはもらったものの、上質な打掛に困惑した。

 太陰様からの命です。どうか、ご容赦を。

 水月の姿を見た綺酉の一言で、これは太陰が用意した物だと気づく。

 着なれない着物は窮屈であった。食事を取るのも不便ではあったが、太陰は「良いのう」と、大喜びしていた。着せ替え遊びの様な気がしたが、口にする事はない。姿は子供でも、十二天神であるに変わりはない。

 少しの休みの後、茶の誘いを受け、水月は庭へと案内された。そこには、同じく招かれたのか、騰蛇と巳月、朱雀の姿があった。

 彼等は、着飾った水月の姿を暫し見つめた。

「これ、女子(おなご)をそんな目で見るではない!」

 太陰が一喝する。

「いや、あれだ。馬子にも衣装だな。お婆がやったのか?」

「なんと、相も変わらず失礼な男じゃの。素質を引き出したまで。どうじゃ? 綺麗じゃろ? 人の世で流行りの着物じゃ。よう似合うておる」

 やはり太陰は嬉しそうに言う。

「ほれ、お座り」

 水月はおずおずと、空いている巳月の横に座った。

「大事なくて良かった」

「は、はい。ご心配おかけいたしました」

 水月が倒れてから、気が気ではなかったが、こうして優美な姿を前に巳月は安堵する。

「菓子は栗羊羹を用意した。美味じゃぞ」

「本当、お婆は茶が好きだな」

 朱雀は受け取った菓子を一口で頬張る。

「朱雀よ、お主こそ少しは風流を学んではどうじゃ。この前蘭午が嘆いておったぞ? 美意識がなさすぎじゃと」

「風流ねぇ。俺とは無縁な言葉だ。な、騰蛇」

 流れの矛先が向き、騰蛇は急ぎ茶を口に流す。

「我とてお主には敵わぬ。風流とやら、多少は持ち合わせているつもりぞ?」

「朱雀様、お茶お注ぎいたします」

「あぁ」

 流れるように、綺酉は朱雀の器に茶を注ぐ。

「まぁ、俺は体を動かすのが好きだからな。いいんだよ。そういうのは解る奴に任せりゃ。俺は、俺に出来る事をする。な、騰蛇」

 満面の笑みを騰蛇へと向けた。

 貴人と酒を酌み交わした夜を思い出し、ふっと騰蛇は笑みを返した。

 太陰の元へ到着した後、直ぐに朱雀と巳月は黒鬼の噂を聞かされた。朱雀に迷いはなかった。騰蛇と共に、人の世へ行くと一つ返事。

 黒鬼も倒し、花月を救うと、豪語した。

 太陰の気遣いは、あちらでの事を憂いての事だと思った。

 水月(みずき)を着飾ったのも、あの時水月が叶えられなかった、女子としての願望を再現している様に見えた。

「して、他の者はまだ何も答えてはおらぬのか?」

「その様じゃ。難儀な問題よ、黒鬼の名など聞くだけで不愉快じゃ」

 不機嫌さを表に出し、大きめに切り分けた羊羹を口へ放り込む。

「あちらへ向かうのであろう。あちらでは、人の姿にならねばならぬ。神気は極力使ってはならぬ。用心するのじゃぞ」

「分かってるって。お婆は心配性だな」

「お主……」

 太陰は呆れる。

「なぁ騰蛇、夕食まで一勝負どうだ?」

 朱雀の言葉に、太陰はため息をつく。

「風流の欠片もないな……分かった。が、太陰。良いか? ちと城が焼けてしまうやもしれぬ」

「結」

 太陰は指を二本口元へ立て、言葉を発する。すると、庭の四方を光が走った。

「好きに使うが良い。わしは、貴人にその後返答はあったか問うてみよう。そなたたちは、早うこの外へ出られよ」

 すっくと立ち上がると太陰は庭を後にする。

 巳月も次いで立ち上がった。水月は、慣れない打掛の裾を踏み、前のめりになる。体勢が崩れたところを、巳月は優しく支え込む。

「すいません」

 巳月は無言で動きづらそうにする水月を、軽々と抱き上げ、庭の見える屋敷の廊下まで連れていく。

「部屋へ戻るか?」

 抱えたまま問う。

「いえ、ここに居ります」

「そうか。ならば、柱に寄りかかれば少しは楽だろう」

 そっと、水月を降ろす。

「ありがとうございます」

 素直に礼を述べる。

 水月は、焦げ茶色の円柱へ寄りかかって座ると、そのすぐ側へ巳月は腰を降ろした。

 その後、二人に会話は生まれず、ただじっと庭の中の朱雀と騰蛇を見ていた。

「お婆の許しも得たし。久々、本気でいくぜ」

「ふむ。よかろう」

 対峙する朱雀と騰蛇は、その身に神気を纏った。庭の木々は神気を受けて、灰となり消えていった。目に見る変化に、水月は鳥肌を覚える。中は、一体どうなっているのか。外は依然冷ややかな空気だが、庭の中は次々と殺風景になっていく。

 以前船の上で見た時と同じ、朱雀は大太刀を構える。

 騰蛇も、太刀を抜きその刃に神気を込める。すると、鋼色の刃は漆黒に染まっていく。ゆらりと、黒い炎を纏う刃を構えた後、勝負の火蓋は切って落とされた。

 水月は圧倒されながらも夢中になった。

 そこに笑みはなく、別人のように真剣な顔の朱雀と騰蛇が居た。明らかに、船の上では本気ではなかったのだと見て取れる。

 絶え間なく鈍く刃のぶつかり合う音が響く。

 焔(えん)。

 同時に左手を相手に差し出し声を張る。

 赤々とした炎と黒々とした炎が放たれ、ぶつかり合い、押し合う。互角の力に相殺され、爆風を巻き起こす。

 髪が風に吹かれ靡く。

 瞳には強い光が宿ったままだ。

 互いに譲らなかった。

 夕食です。と、綺酉に声をかけられ、現実に引き戻される。

「解」

 庭を再び光が走る。

「随分と派手にやってくれたようじゃの。煤(すす)だらけじゃ。それで、決着はついたかの?」

「ははっ引き分けだな」

「うむ」

 潔く太刀を鞘へ納める。

「夕食にするがの、お主達は先に湯浴みじゃ。その格好では飯が不味くなるからの」

「あいわかった」

 朱雀と騰蛇は揃って湯浴みに出かけた。

 二人が戻り、賑やかな夕食が終わると、各々の時間を過ごした。

 水月は、書物に目を通すが、どうにも集中する事が出来ずにいた。

 こちらへ来て十日以上経っている。突然姿を消したのだから、父上も母上も心配しているはず。

 体が弱く、嫁にも行けず。親不孝者だというのは自覚していた。

 それでも、父上、母上は優しい。

 その優しさが辛い時もあったが、こうして離れていると、寂しさが湧いてくる。

 呪いをかけられている。

 なんて、余計に心配させてしまうし、信じてはもらえないかもしれない。

 考えれば考えるほど、目は冴えていく。

 眠れない。

 水月は、少し夜風に当たろうと、部屋を抜け出た。

 ひんやりとした風が頬をなぞる。

 水月は、ふらりと歩き出す。

 足は、自然と庭の前まで赴き、昼と同じ場所へ腰掛けた。

 静かな時間。

 庭は、殺風景なまま暗い。

「眠れないのか?」

 水月は背後からの声に振り向く。

「巳月さん」

 巳月は、水月の隣に腰掛ける。

「こんな夜中に出歩いては風邪をひく」

 そう言うと、着ていた羽織を水月にかける。

「私は、大丈夫です。これ、巳月さんが冷えてしまいます」

「寒さには強い。大丈夫だから、着ていろ」強く言われ、水月は押し黙る。

 暫し無言が続いた後、巳月が口を開く。

「呪の事、すまない」

 突然に謝られ、水月は巳月へ顔を向ける。

 綺麗な横顔。

 細い白髪が耳元で揺れる。

「太陰様であれば、解けると思ったのだが」

 きっぱりと、太陰は解けぬと言った。あまりにも、唐突にはっきりと言われた所為か、何故か自然と受け入れていた。もとより、こちらへ来なければ、知らずに終えていただけの事。

 これ以上、私の事で迷惑はかけられない。

 神に解けぬものが、これ以上どうにかなるわけがない。

「私、あちらへ戻ろうと思います。父上や母上の事もあります。それに、ここは私の居るべき世ではありません」

 声音は静かに、言い聞かせるように紡がれた。

 巳月は、複雑な顔をする。

 呪を受け入れ生きる。水月はそう言った。

 だが今、あちらに戻せば、鬼の危険に水月を晒す事になる。

 彼女は鬼の噂を知らされていない。

 呪だけの問題ではない。

「太陰様へ相談しよう」

 今はそう返すのが精一杯だ。

 巳月は、水月は水月(すいげつ)だと知らされている。名を聞いた時から、どこか因果を感じていた。

 水月(すいげつ)の魂を救いたい。

 呪を解けねば、この先水月(すいげつ)の魂は輪廻の中で何度も何度も、苦しい思いをする。それは、とても耐え難い事。

「一つ聞いても良いですか?」

「何だ」

 何か考え込んでいる巳月へ、水月は問いを投げかける。

「水月(すいげつ)とは、どういう人だったのですか? その、気になってしまって……」

 過去の自分は、この十二天神達とどういう関係だったのか。待遇良くしてくれるのは、それがあるからだと気づいている。だからか、どういう人だったのかを知りたい。

 巳月は話すべきか躊躇った。

 話せば、気落ちするかもしれない。

 だが、望まれている今、隠しても仕方ない。

 巳月は、水月(すいげつ)との思い出を、ゆっくりと口にしていった。

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