七
水月が次に目を覚ました時。
そこは、船の中ではなかった。
既視感を覚える光景に、水月はぼやける視界を瞬きで振り払う。
天井の格子は深みのある茶色。騰蛇の城でもなければ、船上で与えられた自分の部屋とも違う。
上半身を起こすと、肌寒さを感じた。
ここは?
「冷えましょう。さぁ、これを」
聞きなれない儚く優しい声に、主を見やる。
襟足の長い烏羽色の髪に灰色の瞳。細長い華奢な体。
その者は、羽織を水月の肩にかけた。
「私は綺酉(きゆう)。太陰様へお使いする者です。事は巳月より聞き入っております。人の子よ。目が覚められたと、伝えに参ります。呪をかけられている御身故、今しばらくお休みくださいませ」
優美に一礼をし、部屋を出る背を見届ける。
私は、あのまま……?
意識を失ったのだと、状況から察する。あれから、どれくらい眠っていたのかは分からないが、差し込む光の強さから、陽が昇っている時間帯であるはわかる。
騰蛇の城で目覚めた時とは違い、空気が冷たい。
太陰と言っていた。だから、目的の場所には着いたのだろう。
水月は、掛けられた羽織を左右胸元まで引っ張り、寒さをしのぐ。
程なくして、綺酉が水月の元を訪れた。
彼の横には、羽織袴姿の小さな女の子が居り、じっとこちらを見ている。額を覆い隠す切りそろえられた前髪。頬までの黒髪は、人形のようだ。
「綺酉。下がれ」
女の子らしい高い声で命ずる。
綺酉は、命に従う。
すると、女の子は水月の前へ歩み出る。
「わしは太陰と申す。こう見えて、お主よりも遥か歳上じゃぞ」
太陰は水月を見上げる。
「ふむ。少しは落ち着いたようじゃの」
目の奥をじっと見て、太陰はそう言った。
「しかし、これほど強い呪をかけられるとは、驚きじゃ。騰蛇が泣きつくのもわかるのう。どす黒い闇が魂を覆っておる。だが、あまりに強い闇じゃ。調伏は——わしにとて出来ぬ。輪廻の輪に呪を巻き込むとは……余程強い恨みあっての事。一体、誰に呪をかけられたのじゃ? のう、水月(すいげつ)」
すいげつ。
太陰は水月(みずき)を確かにそう呼んだ。
理解が追いつかず、水月は目を丸くする。
「やや、すまぬ。今は、そうは呼ばぬのであったな。だが、いづれは知れる事じゃ。お主と我らは余程強い縁があると見えるが、不思議じゃのう。お主が現れたのと同時にあの噂」
話の内容が何一つ分からず、水月は小首を傾げる。
「今のお主は何も出来ぬ赤子。全ては我らに任せられるのが、宜しかろう」
何もせずとも良い。
太陰はそう言った。
「あの……水月(すいげつ)とは?」
水月は名に聞き覚えがあった。船上で朱雀は、そう言いかけていた。
「――人はのう、転生を繰り返す。水月(すいげつ)とは、お主のかつての名じゃ。覚えておらぬのは当たり前。全くの別人だからのう。我らがその名を口にするのは、それだけ長く人の世を見てきたからじゃ。言うたであろう? お主より、遥かに歳上じゃと」
くすり。と、再び笑む。
「さて、腹も空いておろう。起きられるのならば、まずは腹ごしらえじゃ。体力をつけねば、呪に負けてしまうぞ? 綺酉」
太陰は綺酉を呼びつけ手招く。主の前で膝を折ると、その耳に太陰は顔を近づけ小声で話す。
何を伝えたかは、水月には聞こえてはいない。
「畏まりました」
「頼んだぞ」
綺酉へ耳打ちをした太陰は、子供の様に駆け足で部屋を出て行った。
「参りましょう」
綺酉は手を差し出す。
その手を取ると、水月は綺酉に連れられた。
ひんやりとした冷たい空気が、水月の体を包んだ。季節は秋を迎えた印象で、羽織がなければ冷気が肌を刺していただろう。丁度、頬のように。
陽は高く、聞けば正午前だと綺酉は答えた。それから、まずは冷えた体を温め、昼食をと案内を受ける。
透明な温泉(ゆせん)の温度は高く、体の芯から温まる事が出来た。高い塀の内側の木々は紅葉(こうよう)の盛りで、色鮮やかな葉が美しい。ひらりと舞う紅葉が温泉に落ちる風景は風情があった。
こうして一人温泉に浸かりながら空を仰ぎ見ると、なんだか人の世に戻った錯覚を起こす。
「……水月(すいげつ)か」
ふと口をついて出た。
一体、どんな人だったのだろう?
太陰が言った事は本当なのだろうか?
「私、どうなるの……」
不安が漏れる。
ここまで来て、呪が解けないと言った言葉が暗い影を落とす。それでも、しっかりしなければとの思いから、温泉で顔を洗い、水月は温泉から上がった。
着替えとして用意された着物に、水月は絶句する。着せてはもらったものの、上質な打掛に困惑した。
太陰様からの命です。どうか、ご容赦を。
水月の姿を見た綺酉の一言で、これは太陰が用意した物だと気づく。
着なれない着物は窮屈であった。食事を取るのも不便ではあったが、太陰は「良いのう」と、大喜びしていた。着せ替え遊びの様な気がしたが、口にする事はない。姿は子供でも、十二天神であるに変わりはない。
少しの休みの後、茶の誘いを受け、水月は庭へと案内された。そこには、同じく招かれたのか、騰蛇と巳月、朱雀の姿があった。
彼等は、着飾った水月の姿を暫し見つめた。
「これ、女子(おなご)をそんな目で見るではない!」
太陰が一喝する。
「いや、あれだ。馬子にも衣装だな。お婆がやったのか?」
「なんと、相も変わらず失礼な男じゃの。素質を引き出したまで。どうじゃ? 綺麗じゃろ? 人の世で流行りの着物じゃ。よう似合うておる」
やはり太陰は嬉しそうに言う。
「ほれ、お座り」
水月はおずおずと、空いている巳月の横に座った。
「大事なくて良かった」
「は、はい。ご心配おかけいたしました」
水月が倒れてから、気が気ではなかったが、こうして優美な姿を前に巳月は安堵する。
「菓子は栗羊羹を用意した。美味じゃぞ」
「本当、お婆は茶が好きだな」
朱雀は受け取った菓子を一口で頬張る。
「朱雀よ、お主こそ少しは風流を学んではどうじゃ。この前蘭午が嘆いておったぞ? 美意識がなさすぎじゃと」
「風流ねぇ。俺とは無縁な言葉だ。な、騰蛇」
流れの矛先が向き、騰蛇は急ぎ茶を口に流す。
「我とてお主には敵わぬ。風流とやら、多少は持ち合わせているつもりぞ?」
「朱雀様、お茶お注ぎいたします」
「あぁ」
流れるように、綺酉は朱雀の器に茶を注ぐ。
「まぁ、俺は体を動かすのが好きだからな。いいんだよ。そういうのは解る奴に任せりゃ。俺は、俺に出来る事をする。な、騰蛇」
満面の笑みを騰蛇へと向けた。
貴人と酒を酌み交わした夜を思い出し、ふっと騰蛇は笑みを返した。
太陰の元へ到着した後、直ぐに朱雀と巳月は黒鬼の噂を聞かされた。朱雀に迷いはなかった。騰蛇と共に、人の世へ行くと一つ返事。
黒鬼も倒し、花月を救うと、豪語した。
太陰の気遣いは、あちらでの事を憂いての事だと思った。
水月(みずき)を着飾ったのも、あの時水月が叶えられなかった、女子としての願望を再現している様に見えた。
「して、他の者はまだ何も答えてはおらぬのか?」
「その様じゃ。難儀な問題よ、黒鬼の名など聞くだけで不愉快じゃ」
不機嫌さを表に出し、大きめに切り分けた羊羹を口へ放り込む。
「あちらへ向かうのであろう。あちらでは、人の姿にならねばならぬ。神気は極力使ってはならぬ。用心するのじゃぞ」
「分かってるって。お婆は心配性だな」
「お主……」
太陰は呆れる。
「なぁ騰蛇、夕食まで一勝負どうだ?」
朱雀の言葉に、太陰はため息をつく。
「風流の欠片もないな……分かった。が、太陰。良いか? ちと城が焼けてしまうやもしれぬ」
「結」
太陰は指を二本口元へ立て、言葉を発する。すると、庭の四方を光が走った。
「好きに使うが良い。わしは、貴人にその後返答はあったか問うてみよう。そなたたちは、早うこの外へ出られよ」
すっくと立ち上がると太陰は庭を後にする。
巳月も次いで立ち上がった。水月は、慣れない打掛の裾を踏み、前のめりになる。体勢が崩れたところを、巳月は優しく支え込む。
「すいません」
巳月は無言で動きづらそうにする水月を、軽々と抱き上げ、庭の見える屋敷の廊下まで連れていく。
「部屋へ戻るか?」
抱えたまま問う。
「いえ、ここに居ります」
「そうか。ならば、柱に寄りかかれば少しは楽だろう」
そっと、水月を降ろす。
「ありがとうございます」
素直に礼を述べる。
水月は、焦げ茶色の円柱へ寄りかかって座ると、そのすぐ側へ巳月は腰を降ろした。
その後、二人に会話は生まれず、ただじっと庭の中の朱雀と騰蛇を見ていた。
「お婆の許しも得たし。久々、本気でいくぜ」
「ふむ。よかろう」
対峙する朱雀と騰蛇は、その身に神気を纏った。庭の木々は神気を受けて、灰となり消えていった。目に見る変化に、水月は鳥肌を覚える。中は、一体どうなっているのか。外は依然冷ややかな空気だが、庭の中は次々と殺風景になっていく。
以前船の上で見た時と同じ、朱雀は大太刀を構える。
騰蛇も、太刀を抜きその刃に神気を込める。すると、鋼色の刃は漆黒に染まっていく。ゆらりと、黒い炎を纏う刃を構えた後、勝負の火蓋は切って落とされた。
水月は圧倒されながらも夢中になった。
そこに笑みはなく、別人のように真剣な顔の朱雀と騰蛇が居た。明らかに、船の上では本気ではなかったのだと見て取れる。
絶え間なく鈍く刃のぶつかり合う音が響く。
焔(えん)。
同時に左手を相手に差し出し声を張る。
赤々とした炎と黒々とした炎が放たれ、ぶつかり合い、押し合う。互角の力に相殺され、爆風を巻き起こす。
髪が風に吹かれ靡く。
瞳には強い光が宿ったままだ。
互いに譲らなかった。
夕食です。と、綺酉に声をかけられ、現実に引き戻される。
「解」
庭を再び光が走る。
「随分と派手にやってくれたようじゃの。煤(すす)だらけじゃ。それで、決着はついたかの?」
「ははっ引き分けだな」
「うむ」
潔く太刀を鞘へ納める。
「夕食にするがの、お主達は先に湯浴みじゃ。その格好では飯が不味くなるからの」
「あいわかった」
朱雀と騰蛇は揃って湯浴みに出かけた。
二人が戻り、賑やかな夕食が終わると、各々の時間を過ごした。
水月は、書物に目を通すが、どうにも集中する事が出来ずにいた。
こちらへ来て十日以上経っている。突然姿を消したのだから、父上も母上も心配しているはず。
体が弱く、嫁にも行けず。親不孝者だというのは自覚していた。
それでも、父上、母上は優しい。
その優しさが辛い時もあったが、こうして離れていると、寂しさが湧いてくる。
呪いをかけられている。
なんて、余計に心配させてしまうし、信じてはもらえないかもしれない。
考えれば考えるほど、目は冴えていく。
眠れない。
水月は、少し夜風に当たろうと、部屋を抜け出た。
ひんやりとした風が頬をなぞる。
水月は、ふらりと歩き出す。
足は、自然と庭の前まで赴き、昼と同じ場所へ腰掛けた。
静かな時間。
庭は、殺風景なまま暗い。
「眠れないのか?」
水月は背後からの声に振り向く。
「巳月さん」
巳月は、水月の隣に腰掛ける。
「こんな夜中に出歩いては風邪をひく」
そう言うと、着ていた羽織を水月にかける。
「私は、大丈夫です。これ、巳月さんが冷えてしまいます」
「寒さには強い。大丈夫だから、着ていろ」強く言われ、水月は押し黙る。
暫し無言が続いた後、巳月が口を開く。
「呪の事、すまない」
突然に謝られ、水月は巳月へ顔を向ける。
綺麗な横顔。
細い白髪が耳元で揺れる。
「太陰様であれば、解けると思ったのだが」
きっぱりと、太陰は解けぬと言った。あまりにも、唐突にはっきりと言われた所為か、何故か自然と受け入れていた。もとより、こちらへ来なければ、知らずに終えていただけの事。
これ以上、私の事で迷惑はかけられない。
神に解けぬものが、これ以上どうにかなるわけがない。
「私、あちらへ戻ろうと思います。父上や母上の事もあります。それに、ここは私の居るべき世ではありません」
声音は静かに、言い聞かせるように紡がれた。
巳月は、複雑な顔をする。
呪を受け入れ生きる。水月はそう言った。
だが今、あちらに戻せば、鬼の危険に水月を晒す事になる。
彼女は鬼の噂を知らされていない。
呪だけの問題ではない。
「太陰様へ相談しよう」
今はそう返すのが精一杯だ。
巳月は、水月は水月(すいげつ)だと知らされている。名を聞いた時から、どこか因果を感じていた。
水月(すいげつ)の魂を救いたい。
呪を解けねば、この先水月(すいげつ)の魂は輪廻の中で何度も何度も、苦しい思いをする。それは、とても耐え難い事。
「一つ聞いても良いですか?」
「何だ」
何か考え込んでいる巳月へ、水月は問いを投げかける。
「水月(すいげつ)とは、どういう人だったのですか? その、気になってしまって……」
過去の自分は、この十二天神達とどういう関係だったのか。待遇良くしてくれるのは、それがあるからだと気づいている。だからか、どういう人だったのかを知りたい。
巳月は話すべきか躊躇った。
話せば、気落ちするかもしれない。
だが、望まれている今、隠しても仕方ない。
巳月は、水月(すいげつ)との思い出を、ゆっくりと口にしていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます