騰蛇は城を出た後、すぐさま獣の姿で空を滑空し、一直線に六合の城を目指した。

 船で太陰の地へ向かう巳月達よりも一層早く、到着する。

 夕刻を過ぎた後。

 丁度、夕食を終えた頃であった。

 知らせも無しに、突如現れた漆黒の大蛇の気に、その者は急ぎ城門へ駆けた。

「と、騰蛇様」

 突然の来客に、声には戸惑いが滲み出ていた。

「夜分にすまぬが、六合はおいでか?」

 迎えでた小柄な少年。

 長い白髪を結いあげ、鶯色、花菱柄の着物姿。鮮やかな赤い瞳と、巳月と同じ陶器のような白い肌。

 噂の白い兎へ、騰蛇は主は居るかと問う。

「居りますが……」

「少々、込み入った話なのだが。時間を頂けるか、聞いてきてもらえぬか?」

「かしこまりました。では、少々お待ち下さい」

 慌ただしく駆け出して数分。少年は騰蛇を中へ招き入れた。ふわりと桜の香りが漂う城の中を歩き、賓客用の部屋へと通される。

 ここでお待ちを。

 そう言われ、騰蛇は座布団へ胡座をかいて座る。

 程なくして、六合が現れた。

 栗色の長い髪。深緑の瞳。頬にかかるであろう左右の髪の一部を後ろで纏め上げ、牡丹の簪。薄い紅色の着物には、華文があしらわれ煌びやか。

 ゆっくりと、膝を折って騰蛇の前に座る。

「雪兎(ゆきと)が、込み入った話だと申したので。狭さはご容赦を」

「構わん。密談には丁度いい」

 騰蛇と六合の距離は、畳一枚分。

「それで、話とは?」

 艶のある赤い唇が開き、質問を投げる。

「こちらに、人の子が迷い込んだ。あちらで、白兎を追ったという。もしやと思うてな」

 そこで、一旦話を切る。

 六合の反応を見るためだ。

 案の定、思うところがあるのだろう。視線を逸らす。

「あちらに行かれておったな?」

「はい……」

 六合は肯定するが、それ以上を語らず、目を伏せた。

 分かりやすい。

 何かがあったのだと、騰蛇は感じる。

「私共(わたくしども)の不手際。その人の子は、我らが責任を持って、あちらへお返しいたしましょう」

 それで、事を済まそうとする。

「それが、それで済む話では無いのだ。その、人の子だが、呪をかけられておる。我でも解けぬ故、巳月と共に太陰の元へ向かわせた。呪を残したままでは、流石に寝覚めが悪い。それに……」

 騰蛇は遠く、昔を思い出すような目をする。

「水月と申すのだ」

「みずき?」

「そう。水に月と書く。すいげつとも、読めるな」

 六合は、目を見開いた。

「――これも、何かの縁だと思うてな。救ってやりたくなったのだ」

 騰蛇の言葉に、六合もまたその記憶を辿る。

 名など、ただの偶然であっても、騰蛇の言いたい事が理解できた。

「では、あちらへ行っていた事。いづれ太陰へも知れてしまいますね」

 六合は話すべきかと迷い伏せていたが、意を決し、あちらでの出来事を口にし始めた。

 六合は、十二天神の中で最も争いを好まない。

 それは、人の世の事であっても。

 事の初めは、六合の眷属神である雪兎を、月に一度あちらの様子を伺いに向かわせていた時。

 人里にて鬼(き)の噂を耳にした事から始まる。

 その鬼を見た者が言うには、肌は褐色で髪も黒くあったと。

 現れる時間は夜に集中しており、人々は、夜に外を出歩くのを恐れた。だが、神出鬼没で、いつどこで遭遇するかは知れず。それもまた恐怖心を煽る。

 鬼と遭遇した者は、一様に血を抜かれた骸になるという。

 真偽を確かめるべく、幾度とあちらへ出向いたが、ついには見つける事が出来なかった。

 雪兎が肩を落として戻る度に、六合は人の世を案じたという。

 しかし、実際鬼を目にしてはいない。

 故に、今はまだ内に秘めたままにするつもりであったと、六合は言う。

「黒鬼(こっき)とは……」

 騰蛇は、言葉を詰まらせた。

 その名を再び口にするとは。

「封じた筈――」

 そう。確かに封じた。霊山の、奥深くへ。まさか、封が破られるなど……いや、破られぬ筈がないと、思いたいのが本音か。

「ならば、大事(おおごと)だ。封が破られておれば、生き血を糧に力をつけているやもしれん」

 鬼の中でも黒鬼の力は他の鬼を遥かに凌駕する。

 黒鬼は勘が良い。雪兎の気配を感じて、巧く逃れているだけかもしれない。

 騰蛇の胸の内が騒めく。

 黒鬼ならば、ただの人では太刀打ち出来ない。

「早急に確かめねばなるまい。六合よ、貴人の元に参るぞ」

 騰蛇は立ち上がる。

「しかし、ここからでは……」

「背に乗れ、六合。今から行けば、明日の正午には着ける」

 騰蛇の申し入れに、躊躇う。彼の獣の姿から発せられる熱に、耐えなければならないのが難点なのだ。しかし、黒鬼の強さは、六合も知っている。ここで、断る理由などなかった。

「分かりました。雪兎」

「はい!」

「聞いての通りです。留主にしますので、後は頼みましたよ」

「か、畏まりました」

 一部始終、聞き耳を立てていた雪兎を咎める事はなく、漆黒の体躯は六合を乗せ、闇夜に消えた。


 騰蛇は自ら宣言した言葉通り、正午には貴人の城を訪れる。

 花の中心。いわば、この世界の芯だ。

 十二天神の長たる者、それが貴人。

 騰蛇と六合が来るのを知っているかのように、貴人自らが城門に立っていた。巨大な体躯から一変。人型に姿を戻し地に足を付けた後、貴人を前に一礼する。

「入られよ」

 話はそれから。と、背を向ける。

 騰蛇と六合は貴人の後を追う。

 ここは、どの地よりも空気が澄んでいる。神聖で、一切の穢れを寄せ付けない高貴な場所。

 貴人もまた、そういう者だ。

 美しい絹のような金糸の髪がさらりと揺れる。手を伸ばし、思わず触れたくなる衝動。相手が男だというのを、つい忘れてしまいそうになる。

 瞳の色と同じ、薄紫の着物に菫色の羽織姿の貴人は、一際大きな門を自身の手で開き招き入れた。

 流れる水の如く静かに高座に座ると、貴人は騰蛇と六合へも座るよう促した。

「六合。そなたの話から聞こう」

 澄んだ声音が降る。

 迷う事なく六合を指したあたり、貴人にはもう、既に知れている。そう思わせた。

 彼女の話を、貴人は一切表情を変えずに聞き入る。ひとしきり事情を話し終えた六合は、最後に言いそびれていた事を謝罪した。

 陳謝の言葉にさえ、貴人は態度を崩さない。

 六合の後は、騰蛇へ事の成り行きを話すように、口を開いた。静かに聞き入るも、反応は六合の時と同じで、瞬きをする以外で、貴人の表情を変えるに至らなかった。

 騰蛇が話終えるた後。ほんの少しだけ間を置くと、貴人は澄んだ声を紡ぐ。

「真(まこと)に黒鬼ならば、あちらの被害は尋常ではなく増えるであろう。まずは、その真偽を確かめねばならぬ」

 被害が増える。その言葉に、六合の心は痛む。

 あんなにも健気に一生懸命に生きる子らの命を、無残にも奪われる事は耐え難い。短い生を、どうか幸せに全うして欲しい。

 人の子らが、楽しそうに笑う顔が、六合は心の底から好いている。

 この胸に暖かかくする、あの笑顔を、失いたくはない。

「そう暗い顔をするな。六合」

「しかし……」

 不安が胸の中を渦巻いき、何も出来ない自分が歯がゆい。

「囚われてはならぬ。と、言っている」

 貴人は冷静だった。

 相も変わらず眉ひとつ動かさずに、視線だけを向ける。

 六合は、貴人が何を言わんとするかを察し、自身を律しようとする。

「はい。申し訳ございません」

「だが覚悟なされよ。かつてと今では状況が違う。人の世には関与しないが常」

 道理を説く声音が冷たく、六合の胸に突き刺さる。

 見捨てる。

 そう取れる言葉には失意しか生まれない。

「あぁ、水月(すいげつ)……」

 六合はその名を口にしていた。申し訳なく、痛む心がそうさせた。

「六合」

 強く、名を呼ばれて体を強張らせる。

「優しいさだけでは成り立たぬ。名を失う事だけはせぬよう」

「…………はい」

 貴人と六合の会話を聞く騰蛇の顔つきは晴れない。貴人の言い分も六合の気持ちも理解できる。

 しかし。

「貴人よ。一応は確かめる。という事であろう?」

 口火を切る。

「知っておくべき事であるは確か」

「問題は、誰があちらへ赴き確かめるか。か――」

「黒鬼と口にすれば、皆顔色を変えよう。我らとて、ただでは済まぬ相手だ」

 皆という割に、貴人は涼しい顔をしている。騰蛇には、そう見えた。

「それで顔色が変わったとは、到底思えぬな」

 たった今胸の内で思った事を言葉にして吐き出す。

「瞳孔が、広がったであろう?」

「散瞳だけでは、分からぬ」

 貴人らしい反論に、騰蛇はふっと口元を緩める。

「さて、神書を出さねばならぬ。そなた達がこの件についてどうするかは、返書にて」


 貴人の城を後にした六合は、騰蛇へ自身の城まで送ってもらった。とんぼ返りで、再び貴人の元へと去る黒い影を見送ると、中庭へと足を運ぶ。

 一際大きな桜の木を目の前にすると、満開の桜を見上げた。

「同じ夜桜でも、こうも違う」

 懐かしむように、目を細める。

「人は短命。花のように儚い」

 同じ人とは二度と会えぬ。

「そなたの守りたかった世を、私も守りたいのです。私(わたくし)を、友と言うてくれたそなたの意志を、捨てたくはない……」

 空へ向かいて紡がれた、届かぬ声。

「六合様……」

「雪兎か」

 夜風に白髪を揺らし、深紅の瞳は申し訳なさそうに主を見る。

「私の不手際で……六合様にご迷惑をおかけし、申し訳ございません」

 気落ちする主の態度から、此度の一件についてお叱りがあったのだと雪兎は思った。

「謝る必要はありません、大事なく戻られたのです。これは、話す機会が早まっただけの事。問題なのは、これからです」

 心優しい主の言葉に救われる。

「あちらへ、行かれるのですか?」

「私の中でも、まだ答えが出ていません」

 だからこそ、戻られたのだろうと、察する。

 雪兎は主の邪魔をせぬように、静かに下がった。


 六合と貴人の城を往復した騰蛇は、流石に体を休める事とした。

 客間を与えられ、そこで一眠りする。

 床に就くと、思いの外早く意識は深く沈んでいった。

 そして、目が覚める間際の中で、夢を見た。

 とても懐かしい夢を――。


 それは、女の声だった。

 騰蛇。

 名を呼ぶ声。

 女は、振り向く。そして、笑んだ。

 その凛とした美しさに目を奪われる。

 強い女だった。

 強く美しく儚く、散っていった。


「……水月(すいげつ)」

 ぼやけた視界の中で名を呼ぶが、女はどこにもいない。

「夢とは……」

 目が覚めた騰蛇は、上半身を起こし、頭を掻く。

「もう千年も経つというのに。かなわんな」

 自嘲し、騰蛇は薄い肌着のまま部屋を出て行く。

 後にも先にも、記憶に残るは、あの時の光景。

「騰蛇」

 廊下で呼び止められた騰蛇は振り向く。

「貴人」

「丑鈴(ちゅうれい)に冷酒を用意させておるが、どうだ?」

 貴人からの誘いに、騰蛇は一つ返事で受け入れる。

 酒を生み交わす場は、騰蛇の希望で月が見える所となった。大きな池が水鏡となり月を映し出す。

 手渡された杯を取ると、そこにもまた月が写り、揺れては消える。

 しばし、会話のない静寂が流れる。

「……夢を見た」

 騰蛇は、手の内の小さな月を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。

「水月(すいげつ)に呼ばれたのだ。騰蛇と」

 合間に冷酒を口に含む。

「輪廻があるとて、水月(すいげつ)には二度と会うことは叶わぬ。解ってはおるが、あの時と変わらぬ姿で現れた。我ながら女々しいと思うてな」

「我らが力を貸した者は、千年経った今でも水月だけ。それだけに、思い入れが強いからであろう」

 貴人らしい言葉だ。

「時に、水月(すいげつ)と同じ名の子がこちらへ来ていると聞いたが」

 空の杯へ酒を継ぎ足す。

「水月(みずき)と言う。今頃は巳月と共に太陰の所へ向かう途中であろう。呪を解いてやらねばならぬと思うてな。水月(すいげつ)なら、そうするであろう」

「呪か。黒鬼の噂といい、不穏な流れよ」

 貴人は胸騒ぎを覚える。

「動揺しているのか?」

 じっと紫色の目を騰蛇は見ると、僅かに瞳孔が動いた。

「如何にも」

 否定はしない。

「貴人。我があちらへ向かう」

「騰蛇」

「呪を解く事は出来ぬが、刃を振るうのならば慣れている」

 その申し出に、水月の元で暴れていた頃の姿を、貴人は脳裏に浮かべた。

 妖をなぎ倒し、返り血を浴びて尚、楽しそうに笑う姿。人が見れば身震いする諸悪。十二天神の中でも、騰蛇の力はずば抜けて強い。朱雀と共に炎を放てば、辺り一面見渡す限りが焼け野原。

 だがあれは、流石にやりすぎだと、叱咤されてこちらに戻った時もあった。

「可笑しな事でも言うたか?」

 貴人はいらぬ事まで思い出し、口元が緩んでいるのに気づく。

「何、武神が人の子を怒らせた時の事を思い出したまで」

「……意地が悪いのう」

 くすくすと笑う貴人をよそに酒を飲み干す。

「そなたが行くと言うなれば、朱雀もそうしよう」

「そうであろうな。我と同じで、体を動かす方が向いておる」

 朱雀の性分を踏まえると、返答を想像するは容易い。退屈だと、城を訪れては刀を交える事を強請る位だ。

 はて、今頃何をしていよう。

 騰蛇はふと思った。

「貴人様」

「どうした」

「それが、蘭午から朱雀様は留主であると」

「留主と。それで、どちらへ行かれたのだ」

「それが、騰蛇様の船で太陰様の所へ行くと、申されたと」

「ほう」

 貴人は興味深そうに騰蛇を見やる。

「では、太陰へ朱雀が着いたら伝える様にと」

「畏まりました」

 丑鈴が言伝を預かり去った後、騰蛇は小さく息を吐く。

「ふらつく癖は、治らんようだ」

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