六
騰蛇は城を出た後、すぐさま獣の姿で空を滑空し、一直線に六合の城を目指した。
船で太陰の地へ向かう巳月達よりも一層早く、到着する。
夕刻を過ぎた後。
丁度、夕食を終えた頃であった。
知らせも無しに、突如現れた漆黒の大蛇の気に、その者は急ぎ城門へ駆けた。
「と、騰蛇様」
突然の来客に、声には戸惑いが滲み出ていた。
「夜分にすまぬが、六合はおいでか?」
迎えでた小柄な少年。
長い白髪を結いあげ、鶯色、花菱柄の着物姿。鮮やかな赤い瞳と、巳月と同じ陶器のような白い肌。
噂の白い兎へ、騰蛇は主は居るかと問う。
「居りますが……」
「少々、込み入った話なのだが。時間を頂けるか、聞いてきてもらえぬか?」
「かしこまりました。では、少々お待ち下さい」
慌ただしく駆け出して数分。少年は騰蛇を中へ招き入れた。ふわりと桜の香りが漂う城の中を歩き、賓客用の部屋へと通される。
ここでお待ちを。
そう言われ、騰蛇は座布団へ胡座をかいて座る。
程なくして、六合が現れた。
栗色の長い髪。深緑の瞳。頬にかかるであろう左右の髪の一部を後ろで纏め上げ、牡丹の簪。薄い紅色の着物には、華文があしらわれ煌びやか。
ゆっくりと、膝を折って騰蛇の前に座る。
「雪兎(ゆきと)が、込み入った話だと申したので。狭さはご容赦を」
「構わん。密談には丁度いい」
騰蛇と六合の距離は、畳一枚分。
「それで、話とは?」
艶のある赤い唇が開き、質問を投げる。
「こちらに、人の子が迷い込んだ。あちらで、白兎を追ったという。もしやと思うてな」
そこで、一旦話を切る。
六合の反応を見るためだ。
案の定、思うところがあるのだろう。視線を逸らす。
「あちらに行かれておったな?」
「はい……」
六合は肯定するが、それ以上を語らず、目を伏せた。
分かりやすい。
何かがあったのだと、騰蛇は感じる。
「私共(わたくしども)の不手際。その人の子は、我らが責任を持って、あちらへお返しいたしましょう」
それで、事を済まそうとする。
「それが、それで済む話では無いのだ。その、人の子だが、呪をかけられておる。我でも解けぬ故、巳月と共に太陰の元へ向かわせた。呪を残したままでは、流石に寝覚めが悪い。それに……」
騰蛇は遠く、昔を思い出すような目をする。
「水月と申すのだ」
「みずき?」
「そう。水に月と書く。すいげつとも、読めるな」
六合は、目を見開いた。
「――これも、何かの縁だと思うてな。救ってやりたくなったのだ」
騰蛇の言葉に、六合もまたその記憶を辿る。
名など、ただの偶然であっても、騰蛇の言いたい事が理解できた。
「では、あちらへ行っていた事。いづれ太陰へも知れてしまいますね」
六合は話すべきかと迷い伏せていたが、意を決し、あちらでの出来事を口にし始めた。
六合は、十二天神の中で最も争いを好まない。
それは、人の世の事であっても。
事の初めは、六合の眷属神である雪兎を、月に一度あちらの様子を伺いに向かわせていた時。
人里にて鬼(き)の噂を耳にした事から始まる。
その鬼を見た者が言うには、肌は褐色で髪も黒くあったと。
現れる時間は夜に集中しており、人々は、夜に外を出歩くのを恐れた。だが、神出鬼没で、いつどこで遭遇するかは知れず。それもまた恐怖心を煽る。
鬼と遭遇した者は、一様に血を抜かれた骸になるという。
真偽を確かめるべく、幾度とあちらへ出向いたが、ついには見つける事が出来なかった。
雪兎が肩を落として戻る度に、六合は人の世を案じたという。
しかし、実際鬼を目にしてはいない。
故に、今はまだ内に秘めたままにするつもりであったと、六合は言う。
「黒鬼(こっき)とは……」
騰蛇は、言葉を詰まらせた。
その名を再び口にするとは。
「封じた筈――」
そう。確かに封じた。霊山の、奥深くへ。まさか、封が破られるなど……いや、破られぬ筈がないと、思いたいのが本音か。
「ならば、大事(おおごと)だ。封が破られておれば、生き血を糧に力をつけているやもしれん」
鬼の中でも黒鬼の力は他の鬼を遥かに凌駕する。
黒鬼は勘が良い。雪兎の気配を感じて、巧く逃れているだけかもしれない。
騰蛇の胸の内が騒めく。
黒鬼ならば、ただの人では太刀打ち出来ない。
「早急に確かめねばなるまい。六合よ、貴人の元に参るぞ」
騰蛇は立ち上がる。
「しかし、ここからでは……」
「背に乗れ、六合。今から行けば、明日の正午には着ける」
騰蛇の申し入れに、躊躇う。彼の獣の姿から発せられる熱に、耐えなければならないのが難点なのだ。しかし、黒鬼の強さは、六合も知っている。ここで、断る理由などなかった。
「分かりました。雪兎」
「はい!」
「聞いての通りです。留主にしますので、後は頼みましたよ」
「か、畏まりました」
一部始終、聞き耳を立てていた雪兎を咎める事はなく、漆黒の体躯は六合を乗せ、闇夜に消えた。
騰蛇は自ら宣言した言葉通り、正午には貴人の城を訪れる。
花の中心。いわば、この世界の芯だ。
十二天神の長たる者、それが貴人。
騰蛇と六合が来るのを知っているかのように、貴人自らが城門に立っていた。巨大な体躯から一変。人型に姿を戻し地に足を付けた後、貴人を前に一礼する。
「入られよ」
話はそれから。と、背を向ける。
騰蛇と六合は貴人の後を追う。
ここは、どの地よりも空気が澄んでいる。神聖で、一切の穢れを寄せ付けない高貴な場所。
貴人もまた、そういう者だ。
美しい絹のような金糸の髪がさらりと揺れる。手を伸ばし、思わず触れたくなる衝動。相手が男だというのを、つい忘れてしまいそうになる。
瞳の色と同じ、薄紫の着物に菫色の羽織姿の貴人は、一際大きな門を自身の手で開き招き入れた。
流れる水の如く静かに高座に座ると、貴人は騰蛇と六合へも座るよう促した。
「六合。そなたの話から聞こう」
澄んだ声音が降る。
迷う事なく六合を指したあたり、貴人にはもう、既に知れている。そう思わせた。
彼女の話を、貴人は一切表情を変えずに聞き入る。ひとしきり事情を話し終えた六合は、最後に言いそびれていた事を謝罪した。
陳謝の言葉にさえ、貴人は態度を崩さない。
六合の後は、騰蛇へ事の成り行きを話すように、口を開いた。静かに聞き入るも、反応は六合の時と同じで、瞬きをする以外で、貴人の表情を変えるに至らなかった。
騰蛇が話終えるた後。ほんの少しだけ間を置くと、貴人は澄んだ声を紡ぐ。
「真(まこと)に黒鬼ならば、あちらの被害は尋常ではなく増えるであろう。まずは、その真偽を確かめねばならぬ」
被害が増える。その言葉に、六合の心は痛む。
あんなにも健気に一生懸命に生きる子らの命を、無残にも奪われる事は耐え難い。短い生を、どうか幸せに全うして欲しい。
人の子らが、楽しそうに笑う顔が、六合は心の底から好いている。
この胸に暖かかくする、あの笑顔を、失いたくはない。
「そう暗い顔をするな。六合」
「しかし……」
不安が胸の中を渦巻いき、何も出来ない自分が歯がゆい。
「囚われてはならぬ。と、言っている」
貴人は冷静だった。
相も変わらず眉ひとつ動かさずに、視線だけを向ける。
六合は、貴人が何を言わんとするかを察し、自身を律しようとする。
「はい。申し訳ございません」
「だが覚悟なされよ。かつてと今では状況が違う。人の世には関与しないが常」
道理を説く声音が冷たく、六合の胸に突き刺さる。
見捨てる。
そう取れる言葉には失意しか生まれない。
「あぁ、水月(すいげつ)……」
六合はその名を口にしていた。申し訳なく、痛む心がそうさせた。
「六合」
強く、名を呼ばれて体を強張らせる。
「優しいさだけでは成り立たぬ。名を失う事だけはせぬよう」
「…………はい」
貴人と六合の会話を聞く騰蛇の顔つきは晴れない。貴人の言い分も六合の気持ちも理解できる。
しかし。
「貴人よ。一応は確かめる。という事であろう?」
口火を切る。
「知っておくべき事であるは確か」
「問題は、誰があちらへ赴き確かめるか。か――」
「黒鬼と口にすれば、皆顔色を変えよう。我らとて、ただでは済まぬ相手だ」
皆という割に、貴人は涼しい顔をしている。騰蛇には、そう見えた。
「それで顔色が変わったとは、到底思えぬな」
たった今胸の内で思った事を言葉にして吐き出す。
「瞳孔が、広がったであろう?」
「散瞳だけでは、分からぬ」
貴人らしい反論に、騰蛇はふっと口元を緩める。
「さて、神書を出さねばならぬ。そなた達がこの件についてどうするかは、返書にて」
貴人の城を後にした六合は、騰蛇へ自身の城まで送ってもらった。とんぼ返りで、再び貴人の元へと去る黒い影を見送ると、中庭へと足を運ぶ。
一際大きな桜の木を目の前にすると、満開の桜を見上げた。
「同じ夜桜でも、こうも違う」
懐かしむように、目を細める。
「人は短命。花のように儚い」
同じ人とは二度と会えぬ。
「そなたの守りたかった世を、私も守りたいのです。私(わたくし)を、友と言うてくれたそなたの意志を、捨てたくはない……」
空へ向かいて紡がれた、届かぬ声。
「六合様……」
「雪兎か」
夜風に白髪を揺らし、深紅の瞳は申し訳なさそうに主を見る。
「私の不手際で……六合様にご迷惑をおかけし、申し訳ございません」
気落ちする主の態度から、此度の一件についてお叱りがあったのだと雪兎は思った。
「謝る必要はありません、大事なく戻られたのです。これは、話す機会が早まっただけの事。問題なのは、これからです」
心優しい主の言葉に救われる。
「あちらへ、行かれるのですか?」
「私の中でも、まだ答えが出ていません」
だからこそ、戻られたのだろうと、察する。
雪兎は主の邪魔をせぬように、静かに下がった。
六合と貴人の城を往復した騰蛇は、流石に体を休める事とした。
客間を与えられ、そこで一眠りする。
床に就くと、思いの外早く意識は深く沈んでいった。
そして、目が覚める間際の中で、夢を見た。
とても懐かしい夢を――。
それは、女の声だった。
騰蛇。
名を呼ぶ声。
女は、振り向く。そして、笑んだ。
その凛とした美しさに目を奪われる。
強い女だった。
強く美しく儚く、散っていった。
「……水月(すいげつ)」
ぼやけた視界の中で名を呼ぶが、女はどこにもいない。
「夢とは……」
目が覚めた騰蛇は、上半身を起こし、頭を掻く。
「もう千年も経つというのに。かなわんな」
自嘲し、騰蛇は薄い肌着のまま部屋を出て行く。
後にも先にも、記憶に残るは、あの時の光景。
「騰蛇」
廊下で呼び止められた騰蛇は振り向く。
「貴人」
「丑鈴(ちゅうれい)に冷酒を用意させておるが、どうだ?」
貴人からの誘いに、騰蛇は一つ返事で受け入れる。
酒を生み交わす場は、騰蛇の希望で月が見える所となった。大きな池が水鏡となり月を映し出す。
手渡された杯を取ると、そこにもまた月が写り、揺れては消える。
しばし、会話のない静寂が流れる。
「……夢を見た」
騰蛇は、手の内の小さな月を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「水月(すいげつ)に呼ばれたのだ。騰蛇と」
合間に冷酒を口に含む。
「輪廻があるとて、水月(すいげつ)には二度と会うことは叶わぬ。解ってはおるが、あの時と変わらぬ姿で現れた。我ながら女々しいと思うてな」
「我らが力を貸した者は、千年経った今でも水月だけ。それだけに、思い入れが強いからであろう」
貴人らしい言葉だ。
「時に、水月(すいげつ)と同じ名の子がこちらへ来ていると聞いたが」
空の杯へ酒を継ぎ足す。
「水月(みずき)と言う。今頃は巳月と共に太陰の所へ向かう途中であろう。呪を解いてやらねばならぬと思うてな。水月(すいげつ)なら、そうするであろう」
「呪か。黒鬼の噂といい、不穏な流れよ」
貴人は胸騒ぎを覚える。
「動揺しているのか?」
じっと紫色の目を騰蛇は見ると、僅かに瞳孔が動いた。
「如何にも」
否定はしない。
「貴人。我があちらへ向かう」
「騰蛇」
「呪を解く事は出来ぬが、刃を振るうのならば慣れている」
その申し出に、水月の元で暴れていた頃の姿を、貴人は脳裏に浮かべた。
妖をなぎ倒し、返り血を浴びて尚、楽しそうに笑う姿。人が見れば身震いする諸悪。十二天神の中でも、騰蛇の力はずば抜けて強い。朱雀と共に炎を放てば、辺り一面見渡す限りが焼け野原。
だがあれは、流石にやりすぎだと、叱咤されてこちらに戻った時もあった。
「可笑しな事でも言うたか?」
貴人はいらぬ事まで思い出し、口元が緩んでいるのに気づく。
「何、武神が人の子を怒らせた時の事を思い出したまで」
「……意地が悪いのう」
くすくすと笑う貴人をよそに酒を飲み干す。
「そなたが行くと言うなれば、朱雀もそうしよう」
「そうであろうな。我と同じで、体を動かす方が向いておる」
朱雀の性分を踏まえると、返答を想像するは容易い。退屈だと、城を訪れては刀を交える事を強請る位だ。
はて、今頃何をしていよう。
騰蛇はふと思った。
「貴人様」
「どうした」
「それが、蘭午から朱雀様は留主であると」
「留主と。それで、どちらへ行かれたのだ」
「それが、騰蛇様の船で太陰様の所へ行くと、申されたと」
「ほう」
貴人は興味深そうに騰蛇を見やる。
「では、太陰へ朱雀が着いたら伝える様にと」
「畏まりました」
丑鈴が言伝を預かり去った後、騰蛇は小さく息を吐く。
「ふらつく癖は、治らんようだ」
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