港に一隻の船。

 朱色に輝く船だ。

 その大きさに圧倒される。

「凄い」

「小舟に比べ、揺れを感じる事はなかろう。巳月も側におる。安心して行くがよい」

 見送りに来ていた騰蛇は太陽の如く眩しい笑顔を向ける。

 あまりにも自信のある誇らしげな顔に、彼女は巳月の姿を自身の目に映す。

 彼の腰には、純白の鞘が見えた。

 太刀を備えた凛とした姿に、水月の胸は小さく鳴った。

「では、頼んだぞ。くれぐれも、お子に無理はさせぬよう」

「かしこまりました」

「うむ」

 巳月は騰蛇から書状を預かると、水月の手を引き共に船に乗り込んだ。


 晴天の中、船は出航する。

 騰蛇の言った通り、大きな揺れはない。

 心地よい風が水月の頬をくすぐる。

 こんなことは初めてであった。

 どこまでも澄み渡る空色の水面には、光が反射し煌めいている。こんな景色を見る事が出来るなんて、想像して居なかった。

「無理はするな。あんたに何かあっては、騰蛇様はお怒りになられる」

 船の縁に寄りかかっていた水月へ巳月は声をかける。

「平気です。風が気持ち良いですから」

「そうか」

 巳月は目を細める。

「……騰蛇様は、お怒りになられるのですか?」

 疑問を口にする。

 いつも明るく穏やかそうな雰囲気から、怒っている姿が想像出来ない。

「客人の前では怒るなどと、みっともない姿を晒す事は無い。どんな粗相を目にしてもだ」

 巳月の言葉に、自分の態度を思い出た。

 粗相といえば、全てがそうであったかの様に思えてくる。

「すみませんでした」

「何故謝る」

「私、その気に触る様な事をしていたのかと……」

 縁にかけていた手に力が入る。

「言葉の綾だ。騰蛇様は、嫌いな者に斯様な世話は焼かない」

 つまり、嫌われてはいないという事。巳月の言葉に、水月は胸をなでおろした。

「巳月の旦那!」

 甲板を大きな足音を響かせて何かが声をあげ向かってくる。

 甲高い楽しそうな声につられて振り向くと、同じ背丈に同じ髪型をした少年が二人立っている。

 この船には、自分たちだけかと思っていた所で意表を突かれた。

 そばかすのある顔に、長い黒髪を後頭部で結いあげた姿。

 目は橙で、巳月を見上げる。

「騰蛇様が、おらだずも一緒にって言ったもんで、挨拶さ来たべ!」

 大きな声を揃えて、同じ間合いで深く頭を下げる。

 唐突な出来事に、水月の目線は目の前の二人と巳月の間を泳ぐ。

「ほう、騰蛇様が。で、如何様に言われたのだ?」

「巳月の旦那が剣術を教えてくれるって、言ってたべ。んで、いい機会だから、立ち振る舞いを盗んでこいって。おらだず、こんな近くで旦那を拝めるなんて嬉しくて涙が出ずまう」

「ほう」

 程のいい監視役を大任されたとは気づかず、本気で巳月を舐めるように見ている二人に、冷たい視線を送る。

「旦那! こん人が迷い子だが?」

 同じ顔の片方が、水月を見て声を上げる。

「そうだ」

「おら、人間さ見るの初めてだ。初めまして、おらは巳慧(しえ)だべ」

 瞳を輝かせて満面の笑み。

「んで、おらは巳凪(しな)。おらだず騰蛇様から、おめの面倒も見る様にって、言われたべ!」

 水月は二つの同じ顔を交互に見やるが、圧倒されて言葉が出ないでいた。

「巳慧、巳凪。あまり大きな声を出しては、怯えてしまうぞ。客人の前では、素を隠す事から学ばれよ」

 巳月の叱りに、二人は目を丸くして直立したまま動きが止まったが、直ぐにその双眸は煌めきを取り戻す。

「さすが旦那! 勉強さなるべ」

 二人の眼差しは依然憧れを宿す。

「まずは、彼女へ船の中を案内する。その後で稽古をつける。準備しておけ」

「はい!」

 振り切る様に、巳月は水月の手を強引に掴み、船内へと入って行った。

 暖かな手の温もり。

 力強く大きな手に引かれ、船内を案内される。

 中は宿屋の様に部屋が区切られて並んでいる。部屋数はそう多くないが、一部屋ごとが広い。

 巳月の部屋はすぐ隣で、向かい側が巳慧と巳凪の部屋にするという。

「驚いただろう?」

 一通り簡潔に案内した後、甲板に出る入り口付近で立ち止まり、巳月はそう言った。

 扉越しに、二人の笑い声が聞こえてくる。

「はい、すみません」

「謝るな。……少々、煩くなるが悪気があっての事じゃない。人には慣れてぬ故、気に触る事をしたら言ってくれ」

 粗相をしたら申し付けよ。

 巳月はそう気を回わした。

「そんな、私はこんなにも良くしてもらっているので……」

 仮にも不満があれ、口にするのは気がひける。

「遠慮はいらん。俺にもだ」

「え?」

「そう、畏まらなくていいと言っている。気を張っていては疲れるぞ」

 大きな掌が、水月の頭を撫でる。

「さて、稽古に入る。見ていても構わんが、無理だけはするな」

「はい」

 甲板に出ると、双子は木刀を前に正座をして待機していた。

「これを。持てるか?」

 巳月は太刀を水月へと差し出す。

 その太刀は長二尺六寸ほど。柄も鞘も純白の太刀であった。鞘には、金色の蛇と月が装飾されている。猿手には三日月が揺れ、なんとも美しい刀だ。

 持ち主を投影しているかの様な太刀を、水月は恐る恐る両手に抱く。

「軽い」

 重そうだと思っていたが、意外にも軽く驚く。

「よし」

 巳月は太刀を水月に預けると、双子の元に向かう。

「旦那! 宜しくお願いしますだ!」

 二人は、床に額を擦り付ける勢いで巳月へ深く頭を下げる。

「では、日頃の鍛錬の成果を見せてみよ。巳慧」

 太刀の代わりに木刀を手にする。

「はい!」

 威勢の良い返事と共に巳慧は立ち上がり、巳月の前に立つと一礼する。

 巳慧は木刀を構え、巳月の隙を伺う。

「どうした? 来ないのか?」

 威勢とは裏腹に、構えたまま巳慧は動けずに居た。

「うぅ。旦那、隙がないべ」

 怖気付いた声を出す。

「これでは稽古にならないぞ」

 ふっと、巳月は目を瞑った。

「今だべ!」

 巳慧は勢いよく巳月へ木刀を振るが、木を弾く音と共に床へ背中から倒れる。

「痛た……」

「まだまだだな巳慧」

 あえて隙を出した事に気付かず、正面から突っ込んだ巳慧を、木刀ごと一撃で弾く。

 巳月は、巳慧へ手を差し出す。

「相変わらず、旦那は強いだ」

 痛めた尻を摩りながら立ち上がる。

「今度は、おらの番だべ! 旦那」

 巳凪は楽しげな表情を浮かべ、立ち上がる。

 結果は見えていたが、巳月は再び相手となった。

 巳慧とは違い、一礼した後は間髪入れず木刀を振り続けるが、一向にかすりもしない。

 涼しい顔で、巳凪の攻撃を避け続ける巳月。一方、両手を大きく振り続けた結果、巳凪は自分の足が縺れ前のめりに倒れこんだ。

「やっぱ、旦那は強いだなぁ」

 うつ伏せの状態から仰向けに転がり、満面の笑みを浮かべた。

「笑い事ではないぞ」

「嬉し笑いだべ」

 そう言って、また笑う。

 無邪気な底抜けに明るい笑みは、どこか憎めず、巳月は巳凪へ手を差し出した。

 巳月の手を取る巳凪は、そのまま床から引き上げられる。

「優しいだな」

 巳凪は、尊敬の眼差しを送る。

「……構えから見直しだ」

 押し切られるように、巳月は二人へ指導を始めた。

 邪魔にならないようにと、その様子を水月は静かに見守っていた。

 船体は時折小さく揺れるが、船酔いする程ではなかった。体調も、ここに来てから不思議と良い気がする。

 澄み切った空気は、体内を浄化してくれているような、そんな気がしていた。自分が呪われている。なんて、半信半疑だった。

 呪いなんて、私はもうずっとあの家から出た事もないのに。

 いつ、どこで、誰が呪うというのか。

 微笑ましくも映る、巳月達の姿を眺めながら、水月は預けられた刀をぎゅっと抱く。

 仮にも呪いが解けて、あの家に帰っても、私はどうやって生きていけばいいのだろう。

 友も、恋しいと思う人も居ない。

 家だって名家でもなければ、この体で学び舎へ行く事も出来ず学もない。

 体が強いわけでも、容姿が良いわけでもない。

 私には、何もない。

 そう思うと途端に怖くなった。

 戻った所で、私はどうすれば?

 更に力を込めて刀を抱く。

「おい。具合でも悪いか?」

 足元の影と上から降る声に、水月は勢いよく顔を上げた。

 黄金の切れ長の瞳が、静かに見下ろす。

「いえ、大丈夫です」

 水月は、真っ直ぐな視線を受け止めきれず、瞬時に避ける。

「……無理をするなと、言ったはずだが」

 低い声音が胸に刺さる。

「そんな顔で、大丈夫とは」

 巳月を怒らせた。

 そう感じる程に声は感情を出していた。

 怖くて巳月の顔を見れない水月は、唇を結ぶ。

 すると、今度は深いため息が吐き出され、急に水月の体は浮き上がった。

「暴れるなよ」

 巳月によって抱きかかえられ、強制的に船内へと運ばれる。その間、水月が言葉を紡ぐ事はなかった。

 与えられた部屋の中、敷かれた布団の上へ降ろされた後、巳月は何も言わず部屋を去る。

 戸を閉める音に、胸が突き刺されるような痛みを感じる。

 水月の頬を、暖かな雫が転がるように流れた。

「うっ……」

 押しとどめていた感情が、急激に流れ出し、止める事が出来ない。

 声を押し殺そうとするも、水月の嗚咽は戸口から漏れ出す。

 巳月は戸を背にし、その苦しげな声を聴く。そして、静かに目を細めた後、ゆっくりと瞼を閉じた。

 夕食(ゆうげ)の後も、水月は一人部屋で眠れぬ夜を過ごしていた。

 巳月を怒らせてしまった事を、ずっと引きずっている。

 何度目になるかわからぬため息を、また吐き出した。

 このまま、怒らせたままが良いとは思っていない。でも、どう言って切り出せばいいかが分からない。

 謝らなくては。

 でも、勇気が出ない。

 このままでも――巳月なら明日には普通に話しかけてくれるのではないか。

 その様な考えも浮かぶ。

「もう、どうすれば……」

 交互に訪れる思いに揺れ惑ったが、最後には謝らなければ、の意が強く残った。

 水月は浴衣姿のまま意を決して、巳月の部屋の前まで飛び出るが、その戸を開く事を躊躇う。

 あと少しなのに。

 ほんの少しの勇気を出せずに踏みとどまっていると、部屋の中から巳月の声がする。

「どうされたのだ?」

 声は、昼間の時とは違い穏やかで、水月は安堵する。

「あの、私……謝らなくては……と」

 声を振り絞った。

「……入れ」

 巳月は、水月の申し出を受け入れる。

 ゆっくりと、戸を開け、静かに中へ入る。

 灯りはなく、水月は部屋の中を見渡した。

 巳月は部屋の奥。窓を開け、群青に浮かぶ月を眺めていた。

 紺色の浴衣姿は、首元から胸元まで隙間があいており、白い肌が浮きだって見える。肩肘を縁につけ頬杖を付き、ふっとこちらを見る目は哀愁があり、水月の鼓動を早める。

 宵闇に月を横にする巳月は美しく、人ならぬ存在という部分を見せつけられる。

「突っ立ったままか?」

 視線は熱く、声音は艶がある。

 胸が鳴り止まない。

 少しの間、その場に立ち尽くしたが、巳月は急かすことはしなかった。じっと視線は水月を捉えたまま。

 痛いほどの視線の中、水月はゆっくりと足を進め、巳月の前で正座をする。

 すると、ふんわりと酒の匂いが漂った。

 いつの間にか、金の瞳は窓辺から月を眺め、杯を傾けていた。

「……あの、すみませんでした」

 目を合わさない内に、言ってしまいたかった。

 でなければ、金の瞳に捉えられ、何も言えなくなる。

 俯いている水月を横目に、再び杯に口をつける。

「謝る必要はない」

 思いがけない言葉が降る。

「でも、私……」

「人の生は短い。故に、一喜一憂する。懸命に生きれば良い」

 頭を撫でられる。まるで、子をあやす様に。

 その言葉は、一線を引いていた。

 こちらとそちら。

 人と人ならぬ者。

 切ない気持ちが水月の中に生まれた。

 揺れ動く感情を見透かした上で、人の生を全うしろと言う。

「しかし……お前、今が夜半であるのを知っているか?」

 二度、軽く頭へ手を置く仕草で、水月は顔を上げる。

「っ――」

 妖艶に、口角を上げる巳月の端整な顔があった。

「その様な薄着で男の部屋に来るには、無用心すぎだ」

 白い髪が風に揺れる。

「籠の鳥であった者が、空を羽ばたくには、飛び方から教えねばならぬようだ」

 水月と肌が触れ合う距離まで近づくと、背後に両手を回す。

「あ……」

 ふわりと、水月の体に夜着が掛かる。

「気の済むまでここにいるのは構わんが、風邪を引かれては困るからな」

 何事もなかったかのように、再び窓際で杯を傾ける。

「あの」

「何だ」

「それ……美味しいのですか?」

「これか? そうだな。こうして月を眺めながら頂くのは最高だな。……そうだな。呪が解けたら、一緒に呑んでやらんこともない」

 ふっと、水月へ笑む。

「はい」

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