三
港に一隻の船。
朱色に輝く船だ。
その大きさに圧倒される。
「凄い」
「小舟に比べ、揺れを感じる事はなかろう。巳月も側におる。安心して行くがよい」
見送りに来ていた騰蛇は太陽の如く眩しい笑顔を向ける。
あまりにも自信のある誇らしげな顔に、彼女は巳月の姿を自身の目に映す。
彼の腰には、純白の鞘が見えた。
太刀を備えた凛とした姿に、水月の胸は小さく鳴った。
「では、頼んだぞ。くれぐれも、お子に無理はさせぬよう」
「かしこまりました」
「うむ」
巳月は騰蛇から書状を預かると、水月の手を引き共に船に乗り込んだ。
晴天の中、船は出航する。
騰蛇の言った通り、大きな揺れはない。
心地よい風が水月の頬をくすぐる。
こんなことは初めてであった。
どこまでも澄み渡る空色の水面には、光が反射し煌めいている。こんな景色を見る事が出来るなんて、想像して居なかった。
「無理はするな。あんたに何かあっては、騰蛇様はお怒りになられる」
船の縁に寄りかかっていた水月へ巳月は声をかける。
「平気です。風が気持ち良いですから」
「そうか」
巳月は目を細める。
「……騰蛇様は、お怒りになられるのですか?」
疑問を口にする。
いつも明るく穏やかそうな雰囲気から、怒っている姿が想像出来ない。
「客人の前では怒るなどと、みっともない姿を晒す事は無い。どんな粗相を目にしてもだ」
巳月の言葉に、自分の態度を思い出た。
粗相といえば、全てがそうであったかの様に思えてくる。
「すみませんでした」
「何故謝る」
「私、その気に触る様な事をしていたのかと……」
縁にかけていた手に力が入る。
「言葉の綾だ。騰蛇様は、嫌いな者に斯様な世話は焼かない」
つまり、嫌われてはいないという事。巳月の言葉に、水月は胸をなでおろした。
「巳月の旦那!」
甲板を大きな足音を響かせて何かが声をあげ向かってくる。
甲高い楽しそうな声につられて振り向くと、同じ背丈に同じ髪型をした少年が二人立っている。
この船には、自分たちだけかと思っていた所で意表を突かれた。
そばかすのある顔に、長い黒髪を後頭部で結いあげた姿。
目は橙で、巳月を見上げる。
「騰蛇様が、おらだずも一緒にって言ったもんで、挨拶さ来たべ!」
大きな声を揃えて、同じ間合いで深く頭を下げる。
唐突な出来事に、水月の目線は目の前の二人と巳月の間を泳ぐ。
「ほう、騰蛇様が。で、如何様に言われたのだ?」
「巳月の旦那が剣術を教えてくれるって、言ってたべ。んで、いい機会だから、立ち振る舞いを盗んでこいって。おらだず、こんな近くで旦那を拝めるなんて嬉しくて涙が出ずまう」
「ほう」
程のいい監視役を大任されたとは気づかず、本気で巳月を舐めるように見ている二人に、冷たい視線を送る。
「旦那! こん人が迷い子だが?」
同じ顔の片方が、水月を見て声を上げる。
「そうだ」
「おら、人間さ見るの初めてだ。初めまして、おらは巳慧(しえ)だべ」
瞳を輝かせて満面の笑み。
「んで、おらは巳凪(しな)。おらだず騰蛇様から、おめの面倒も見る様にって、言われたべ!」
水月は二つの同じ顔を交互に見やるが、圧倒されて言葉が出ないでいた。
「巳慧、巳凪。あまり大きな声を出しては、怯えてしまうぞ。客人の前では、素を隠す事から学ばれよ」
巳月の叱りに、二人は目を丸くして直立したまま動きが止まったが、直ぐにその双眸は煌めきを取り戻す。
「さすが旦那! 勉強さなるべ」
二人の眼差しは依然憧れを宿す。
「まずは、彼女へ船の中を案内する。その後で稽古をつける。準備しておけ」
「はい!」
振り切る様に、巳月は水月の手を強引に掴み、船内へと入って行った。
暖かな手の温もり。
力強く大きな手に引かれ、船内を案内される。
中は宿屋の様に部屋が区切られて並んでいる。部屋数はそう多くないが、一部屋ごとが広い。
巳月の部屋はすぐ隣で、向かい側が巳慧と巳凪の部屋にするという。
「驚いただろう?」
一通り簡潔に案内した後、甲板に出る入り口付近で立ち止まり、巳月はそう言った。
扉越しに、二人の笑い声が聞こえてくる。
「はい、すみません」
「謝るな。……少々、煩くなるが悪気があっての事じゃない。人には慣れてぬ故、気に触る事をしたら言ってくれ」
粗相をしたら申し付けよ。
巳月はそう気を回わした。
「そんな、私はこんなにも良くしてもらっているので……」
仮にも不満があれ、口にするのは気がひける。
「遠慮はいらん。俺にもだ」
「え?」
「そう、畏まらなくていいと言っている。気を張っていては疲れるぞ」
大きな掌が、水月の頭を撫でる。
「さて、稽古に入る。見ていても構わんが、無理だけはするな」
「はい」
甲板に出ると、双子は木刀を前に正座をして待機していた。
「これを。持てるか?」
巳月は太刀を水月へと差し出す。
その太刀は長二尺六寸ほど。柄も鞘も純白の太刀であった。鞘には、金色の蛇と月が装飾されている。猿手には三日月が揺れ、なんとも美しい刀だ。
持ち主を投影しているかの様な太刀を、水月は恐る恐る両手に抱く。
「軽い」
重そうだと思っていたが、意外にも軽く驚く。
「よし」
巳月は太刀を水月に預けると、双子の元に向かう。
「旦那! 宜しくお願いしますだ!」
二人は、床に額を擦り付ける勢いで巳月へ深く頭を下げる。
「では、日頃の鍛錬の成果を見せてみよ。巳慧」
太刀の代わりに木刀を手にする。
「はい!」
威勢の良い返事と共に巳慧は立ち上がり、巳月の前に立つと一礼する。
巳慧は木刀を構え、巳月の隙を伺う。
「どうした? 来ないのか?」
威勢とは裏腹に、構えたまま巳慧は動けずに居た。
「うぅ。旦那、隙がないべ」
怖気付いた声を出す。
「これでは稽古にならないぞ」
ふっと、巳月は目を瞑った。
「今だべ!」
巳慧は勢いよく巳月へ木刀を振るが、木を弾く音と共に床へ背中から倒れる。
「痛た……」
「まだまだだな巳慧」
あえて隙を出した事に気付かず、正面から突っ込んだ巳慧を、木刀ごと一撃で弾く。
巳月は、巳慧へ手を差し出す。
「相変わらず、旦那は強いだ」
痛めた尻を摩りながら立ち上がる。
「今度は、おらの番だべ! 旦那」
巳凪は楽しげな表情を浮かべ、立ち上がる。
結果は見えていたが、巳月は再び相手となった。
巳慧とは違い、一礼した後は間髪入れず木刀を振り続けるが、一向にかすりもしない。
涼しい顔で、巳凪の攻撃を避け続ける巳月。一方、両手を大きく振り続けた結果、巳凪は自分の足が縺れ前のめりに倒れこんだ。
「やっぱ、旦那は強いだなぁ」
うつ伏せの状態から仰向けに転がり、満面の笑みを浮かべた。
「笑い事ではないぞ」
「嬉し笑いだべ」
そう言って、また笑う。
無邪気な底抜けに明るい笑みは、どこか憎めず、巳月は巳凪へ手を差し出した。
巳月の手を取る巳凪は、そのまま床から引き上げられる。
「優しいだな」
巳凪は、尊敬の眼差しを送る。
「……構えから見直しだ」
押し切られるように、巳月は二人へ指導を始めた。
邪魔にならないようにと、その様子を水月は静かに見守っていた。
船体は時折小さく揺れるが、船酔いする程ではなかった。体調も、ここに来てから不思議と良い気がする。
澄み切った空気は、体内を浄化してくれているような、そんな気がしていた。自分が呪われている。なんて、半信半疑だった。
呪いなんて、私はもうずっとあの家から出た事もないのに。
いつ、どこで、誰が呪うというのか。
微笑ましくも映る、巳月達の姿を眺めながら、水月は預けられた刀をぎゅっと抱く。
仮にも呪いが解けて、あの家に帰っても、私はどうやって生きていけばいいのだろう。
友も、恋しいと思う人も居ない。
家だって名家でもなければ、この体で学び舎へ行く事も出来ず学もない。
体が強いわけでも、容姿が良いわけでもない。
私には、何もない。
そう思うと途端に怖くなった。
戻った所で、私はどうすれば?
更に力を込めて刀を抱く。
「おい。具合でも悪いか?」
足元の影と上から降る声に、水月は勢いよく顔を上げた。
黄金の切れ長の瞳が、静かに見下ろす。
「いえ、大丈夫です」
水月は、真っ直ぐな視線を受け止めきれず、瞬時に避ける。
「……無理をするなと、言ったはずだが」
低い声音が胸に刺さる。
「そんな顔で、大丈夫とは」
巳月を怒らせた。
そう感じる程に声は感情を出していた。
怖くて巳月の顔を見れない水月は、唇を結ぶ。
すると、今度は深いため息が吐き出され、急に水月の体は浮き上がった。
「暴れるなよ」
巳月によって抱きかかえられ、強制的に船内へと運ばれる。その間、水月が言葉を紡ぐ事はなかった。
与えられた部屋の中、敷かれた布団の上へ降ろされた後、巳月は何も言わず部屋を去る。
戸を閉める音に、胸が突き刺されるような痛みを感じる。
水月の頬を、暖かな雫が転がるように流れた。
「うっ……」
押しとどめていた感情が、急激に流れ出し、止める事が出来ない。
声を押し殺そうとするも、水月の嗚咽は戸口から漏れ出す。
巳月は戸を背にし、その苦しげな声を聴く。そして、静かに目を細めた後、ゆっくりと瞼を閉じた。
夕食(ゆうげ)の後も、水月は一人部屋で眠れぬ夜を過ごしていた。
巳月を怒らせてしまった事を、ずっと引きずっている。
何度目になるかわからぬため息を、また吐き出した。
このまま、怒らせたままが良いとは思っていない。でも、どう言って切り出せばいいかが分からない。
謝らなくては。
でも、勇気が出ない。
このままでも――巳月なら明日には普通に話しかけてくれるのではないか。
その様な考えも浮かぶ。
「もう、どうすれば……」
交互に訪れる思いに揺れ惑ったが、最後には謝らなければ、の意が強く残った。
水月は浴衣姿のまま意を決して、巳月の部屋の前まで飛び出るが、その戸を開く事を躊躇う。
あと少しなのに。
ほんの少しの勇気を出せずに踏みとどまっていると、部屋の中から巳月の声がする。
「どうされたのだ?」
声は、昼間の時とは違い穏やかで、水月は安堵する。
「あの、私……謝らなくては……と」
声を振り絞った。
「……入れ」
巳月は、水月の申し出を受け入れる。
ゆっくりと、戸を開け、静かに中へ入る。
灯りはなく、水月は部屋の中を見渡した。
巳月は部屋の奥。窓を開け、群青に浮かぶ月を眺めていた。
紺色の浴衣姿は、首元から胸元まで隙間があいており、白い肌が浮きだって見える。肩肘を縁につけ頬杖を付き、ふっとこちらを見る目は哀愁があり、水月の鼓動を早める。
宵闇に月を横にする巳月は美しく、人ならぬ存在という部分を見せつけられる。
「突っ立ったままか?」
視線は熱く、声音は艶がある。
胸が鳴り止まない。
少しの間、その場に立ち尽くしたが、巳月は急かすことはしなかった。じっと視線は水月を捉えたまま。
痛いほどの視線の中、水月はゆっくりと足を進め、巳月の前で正座をする。
すると、ふんわりと酒の匂いが漂った。
いつの間にか、金の瞳は窓辺から月を眺め、杯を傾けていた。
「……あの、すみませんでした」
目を合わさない内に、言ってしまいたかった。
でなければ、金の瞳に捉えられ、何も言えなくなる。
俯いている水月を横目に、再び杯に口をつける。
「謝る必要はない」
思いがけない言葉が降る。
「でも、私……」
「人の生は短い。故に、一喜一憂する。懸命に生きれば良い」
頭を撫でられる。まるで、子をあやす様に。
その言葉は、一線を引いていた。
こちらとそちら。
人と人ならぬ者。
切ない気持ちが水月の中に生まれた。
揺れ動く感情を見透かした上で、人の生を全うしろと言う。
「しかし……お前、今が夜半であるのを知っているか?」
二度、軽く頭へ手を置く仕草で、水月は顔を上げる。
「っ――」
妖艶に、口角を上げる巳月の端整な顔があった。
「その様な薄着で男の部屋に来るには、無用心すぎだ」
白い髪が風に揺れる。
「籠の鳥であった者が、空を羽ばたくには、飛び方から教えねばならぬようだ」
水月と肌が触れ合う距離まで近づくと、背後に両手を回す。
「あ……」
ふわりと、水月の体に夜着が掛かる。
「気の済むまでここにいるのは構わんが、風邪を引かれては困るからな」
何事もなかったかのように、再び窓際で杯を傾ける。
「あの」
「何だ」
「それ……美味しいのですか?」
「これか? そうだな。こうして月を眺めながら頂くのは最高だな。……そうだな。呪が解けたら、一緒に呑んでやらんこともない」
ふっと、水月へ笑む。
「はい」
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