一
見慣れぬ天井がぼやけた視界に入る。
「気がつかれたか」
柔らかい男の声が降る。
「人の子よ、今はまだ休むがよい」
「こ……こは?」
枯れた声が出た。
「ここが何処かと申せば混乱しよう。なに、案ずるな。どうにかしようと思えばとうにそうしておる。今は体力が戻るまで眠るが良い。巳月(みづき)よ、頼むぞ」
「はい」
「さぁ、眠りなさい」
白い手が視界を覆う。
手のひらの暖かな体温を感じ、再び目を閉じる。
「おやすみ。人の子よ」
安らぐ声音で、意識は深く沈む。
二度目の目覚めに見えたのは同じ天井。だが、前よりくっきりと映る。
朱色の格子が眩しい。
「起きたか」
若い男の声。
「喉が渇いただろう。体、起こせるか?」
声の主に視線を移すと、その姿に声を失う。
白髪に金の眼。
見たことのない容姿に、暫し釘づけになる。
「起きられぬなら、口移しするしかないな」
男はそう言って液体を口に含み、彼女へ顔を近づけた。
「っ――起きますから……」
至近距離で視線を交える。
男は喉を鳴らして液体を飲み込む。
「では、起きよ」
突き放す言葉とは真逆で、背に手をかけ起きるのを手助けしてくれる。そして、乱れていた髪を優しく撫でた後、水の入った椀を差し出す。
「ありがとうございます」
朱の椀から頂く水は冷たく甘い。
「足してやる」
一気に空となった椀へ、男は瓶から水を継ぎ足す。
二杯目の水を飲み終えると、彼女は少し落ち着きを取り戻す。
「すみません、ここは何処でしょう?」
「騰炎城(とうえんじょう)」
「騰炎城?」
「そうだ」
素っ気なく返され、次の言葉が見つからない。
「人の子よ。名は何という」
また。
人の子。その言葉に違和感を感じながらも、名を告げる。
「水月(みずき)」
名を聞くと、男はふっと金色の眼を細めた。
「俺も巳月だが、字はどう書く?」
「水に月です」
「水か」
また、男は目を細める。
「目が覚めたら、湯浴みと食事をと命を受けている。その後は、城の主に会ってもらう。体は、大分良くなっている筈だ」
確かに、体には痛みも気だるさもない。
寝台を降りようとすると、巳月は手を差し伸べてくれる。
「行くぞ」
その手は、少し冷たい。
だが、力強く優しい心遣いを感じた。湯浴みの後は、水月は着物を着付けしてもらった。滑らかな肌触りの袴だが、いつも身に着ける袴よりずっと煌びやかだ。炎の様な模様が刺繍してあり、上は朱で下にいくにつれ黒に色が変わっていく。
長い髪も結い、朱い玉の付いた髪飾りを付けて頂いた。
着替えを終えた後には、とうてい食べきる事は出来ない豪華な食事を出され、圧倒される。
食したいものだけ食せばよい。と、巳月は言うが、食卓を埋め尽くす程の料理の大半を手付かずで残すのは、心苦しく感じた。
口直しに出された香り立つお茶を飲み終えた後には、巳月に連れられ、この城の主に会うため騰炎城を歩く。
全体的に朱色と金で装飾され、円形の柱には、龍の様な生き物が彫られていた。雅な城で、浮世離れした空気が漂っていた。
至る所に細やかな細工が施されており、自然と目移りさせていた。
「珍しいか?」
巳月は問う。
悟られたのが恥ずかしくなり、俯向く。
「恥じる事はない」
巳月はそう言うが、斯様に美しい場所があるのだと知らずに、彼女は今まで生きてきた。水月の世界は、あの寝所からの景色が全てだったのだ。
「……暗い顔は、好みではない」
冷たい言葉が降る。
「着いたぞ」
巳月の言葉に連れられ顔を上げる。
そこには大きな観音扉がある。
扉には、翼の生えた龍のような生きものが描かれていた。
「騰蛇(とうだ)様、お連れいたしました」
「入られよ」
扉の向こう側から、柔らかな声がする。
初めて目覚めた時に聞いた声だと、水月は胸の内で思った。
巳月は両の手で扉を押し開ける。
木の擦れる音と共に、暖かな風が吹いた。
「入れ」
巳月は、中へ入る様に促す。
早鐘を打つ胸へ両手を重ね合わせ、恐る恐る中へ足を踏み入れた。
部屋の中はとても広く、天井も高い。
おずおずと前へ進むと、そこには高座があり、そこに佇む男性がこちらを見て微笑む。
「おいでなさい」
一瞬、背後にいる巳月を見ると、無言で頷いた。
行け。という事だと感じた。
ゆっくりと前へ歩み出る。
「大分顔色が良い。しかし、大層無茶をするお子だ」
優しい声は私を稚児の様に言うが、歳は水月とさほど変わらぬ位。
髪も眼も黒く、慣れ親しんだ姿に近く、彼女は親近感を覚えた。
「それで、聞かせて貰いたいのだが、どうやってこちらへ?」
唐突に質問を受けるが、意図は伝わらない。
「こちらへとは?」
小さな声で答える。
「ふむ。では、こちらへ来る直前の事は、覚えておるか?」
水月は、記憶を辿る。
ここに来る前――。
水月は暫くし、自分が白兎を追っていた事を思い出した。
「そうです……白兎です。二本足で歩き人語を話す兎を追っていたら、黒い穴へ入って行くのを見かけて、私もその穴の中へ。そして、気がついたらここに……」
そう、兎。あの兎は何処へ行ってしまったのだろう。と、水月は心の中で呟いた。
「成る程。白い兎。か」
目の前の男は、口元に手を当て考え始める。
「さて、巳月」
「はい」
名を呼ばれ、巳月と水月。二人の返事が重なる。
その様子を見下ろす黒い眼が一瞬大きく見開かれた。
「はて、そなたもみずきと申すか?」
「はい、水に月でみずきです」
「ほう。これは奇遇な」
男は、二人を交互に見やる。
「騰蛇様、何か言いかけておりましたが」
「そうであった。このお子の言う兎とやら。もしや六合(りくごう)の処のではないか?」
「兎であれば、恐らく」
「ふむ。では、何故あちらに出向かれたのか、問うしかないな」
思案する素振りの後、黒い眼を水月へ向ける。
「如何様にしてここへ来たかは分かった。だが、問題はそなた。お主、自分の体について解っておるのか?」
水月はそう問われ、自分でも無茶な事をしたと反省した。
生まれた時より体が弱く、体を動かすと全身から力が抜けるのを感じていた。薬師(くすし)も首をかしげる程、原因がわからず不治とされた。以後、部屋の外から出た事はない。
あの部屋に居ると、惨めで寂しくて居た堪れない。
このまま、ただ歳を取っていくのが恐ろしかった。
そういう思いが、あの時に溢れ出てしまったのだろうと、冷静になった今思う。
ここは、あまりに別世界。
だから自分はあの穴に落ちた時に、人の生を終えてしまったのだと思い込んだ。
「そう暗い顔をするな。お主はまだ死んでおらぬぞ。だが、それを放っておくといずれ体を喰らい尽くすであろうな」
「喰らう?」
「うむ。薬師では見抜けぬ筈。それは、病ではない。呪(しゅ)だ」
聞き慣れぬ言葉に、目を丸くする。
「呪とは呪いの事。我では解けぬ呪だ。そなた、神でも殺したか?」
我が耳を疑う。
「騰蛇様、お戯れを。それに、その様に見つめては怯えましょう」
「すまぬ。人の子が久しゅうてついな。まぁ、信じられぬのも無理はない。まして、ここがどこかも知らぬのだからな。巳月よ、灼けぬようそのお子を守られよ」
「畏まりました」
下がられよ。
巳月の目はそう訴えていた。
両手を軽く広げ、庇う様に水月の前に立つ。
騰蛇は、口角を上げ笑むとゆっくりと立ち上がった。
瞬間、爆風と共に強烈な熱気が放たれた。
この広い空間を満たす熱と共に、巳月の背中越しに巨大な黒い生き物が現れた。
漆黒の蛇腹。
畝る体には、空をも飛べる二枚の巨大な羽が有り、その全身からは凄まじい熱気が満ちていた。
熱い。
思わず巳月の服を掴む。
「少々熱が入るか。そのまま掴んでいろ。俺のそばを離れれば、一瞬にして灰になるぞ」
脅しではないのは分かった。
自分達を囲む薄い膜のような四角い空間が守っている。
その様子を、中心に金色を宿した黒い蛇目が見下ろす。
「人の子よ、ここは天上。我は、十二天神が一騰蛇」
巨大な生き物の声は、先ほどまで目の前にいた男のものと同じであった。その漆黒の姿は、この部屋の扉に描かれていた姿と同じ。
こんな生き物は、自分の知る世界には存在しない。
人の世ではない。
そう、事実を突きつけられる。
「おや。あまり驚いてはおらぬな。てっきり悲鳴でもあげるかと思ったのだが」
声は残念がっている様に聞こえた。
「……恐れるな。とって食いはしない」
手が震えていた。
巳月は、私にだけ聞こえる声で囁く。
「人の子よ。そなたは、こちらに迷い込んだ。人の世に返さねばならぬ。だが――呪を解かぬままでは、そう長くはないであろう。それに、その呪が仮にも魂にかけられたものならば、転生してもなおそなたを苦しめる」
淡々と話し終えると、再び爆風が巻き起こり殺伐とした熱気は消えた。
力強く握っていた手を巳月から離す。
彼の背には、握った跡の皺がくっきりと残った。
「……では、どうすればっ」
人の姿に戻った男へ声をかけるが、一糸まとわぬ姿に反射的に背を向ける。
「騰蛇様、お召し物をお持ちします」
「あぁ、すまぬな」
巳月が部屋を抜け、着物を持って来るまでの時間が長く感じた。背後に感じる視線に耐え、着替えを終えた後、話は再開された。
座る様に促され、用意された座布団の上に座る。
「不幸になると分かっていて、このままそなたを返すわけにはいかぬ。それでだ。太陰(たいいん)に知恵を借りるのがよろしかろう」
「太陰様へ?」
「うむ」
「しかし、ここからでは少々遠いかと」
「そう案ずるな。船で向かえば良い。我は、ちと六合に会うてくる故。お子の事は任せたぞ。太陰に渡す書状は用意する」
「では、主不在のこの城はどうするおつもりですか?」
出かけると簡単に言う騰蛇に巳月は問う。
「心配性だのう。人はここには来れぬ。妖(あやかし)もだ」
「現に水月はここに居りますが」
人が目の前にいるそばから、来れないと矛盾を呈する主に注意を促す。
「あいわかった。では、結界を張るとしよう。これで文句はないな」
指摘され、騰蛇は少々不服な顔をする。
「はい」
「では決まりだ。お主は、巳月と共に太陰の元へ行かれよ。そこで、呪を見てもらうが良い」
水月には、この状況を整理しきれないでいた。
まず、ここが人の世ではないとこも、自分に呪いがかけられている事も、この者達が良くしてくれようとしている事も。全てが他人事のように聞こえた。とても、信じられない出来事ばかりだ。
当然、言葉が出ない。
ただ目の前で悠然と微笑む騰蛇を、ぼんやりと見ていた。
「ふむ。どうやら混乱しているようだ。受け入れるには、時間がかかりそうだのう」
「そのようで」
「まぁ良い。船の準備もせねばならん。お子の世話は任せたぞ」
「畏まりました」
水月の同意を得ぬまま話は進み、近く二人は船旅を共にする事となった。
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