桜は壁をつくらない。
(大学生になってはじめて、日記を書いてみる。)
桜が咲いた。
自宅のそばにも学校のそばにも桜並木があるので、毎日桜を愉しむことができる。ああ今日は昨日より咲いてるなあ、今年も桜は咲くんだなあ、なんて月並みな感慨を抱きながら歩くのも、なかなかどうして乙なものだ。
当然のことだが、私がどんな感想を桜に抱こうが、それは私の自由だ。その感想が正しいとか間違っているとかそういったことを桜はなにも言わない、ただ私の思いを、ひらひら光る花びらで受け止めるのみ。いや、受け止めているというのはきっと私の錯覚なのだろう。でも私には、そう思えてしまうのだ。
桜は私の思いを受け止めてくれる。
桜はみんなの思いを受け止めてくれる。
見上げると桜はしゃらしゃら揺れて、ああいいなあ、と私は目を細める。いいなこういうのって、いろんな人がいろんな思いを、桜に託すのって素敵だな。
そうやって歩きながら、思ったこと。
私は、心の壁を不必要に高く見せたくない。
心の壁、つまり他者との壁とは、どうがんばったって存在するものだ。当たり前に、存在するものだ。それを誇張して自慢して、私は心の壁が高いんだからねあなたが私と仲よくなりたいならまあいいけど大事にしないと嫌いになっちゃうからね!なんて、はっきり言ってつまらないと思う。駄目とかそういう話でなく、単純に、面白くない。
心の壁、これは、ふとしたさりげない瞬間にあらわれるからこそ絶妙なのである。決して、自ら主張するものではない。それはたとえば沈黙したときの一瞬の表情なんかによくあらわれる、相手との絶対的な距離を思い知らされる。そして私は、その瞬間が面白くって堪らない。ああこの人のこともっと知りたいなあ、と思ってわくわくするからだ。
心の壁は、つくってつくれるものではない。その人に深みがあればあるほど、自然とできてしまうものである。そして私はぺらぺらのダンボールみたいなそれでなく、ささやかながらもぜったいに壊れないダイヤモンドみたいなものが好きだ。そういう人には、たくさん思いを馳せることができるから。だって考えても考えても、遠い、深いんだもの。
桜の木に手を伸ばすのと、あるいは似ているのかもしれない。
あかるいピンクを見つめて思う。
そして、桜は壁をつくらない。
つくらないのかつくれないのか、まあおそらくつくる術がないのだろうけれど、まあとにかく結果として壁がない。誇張も自慢も、有り得ない。
桜が深夜に佇む姿を私は知らない。それを想像させてしまうあたり、やっぱり桜はどこまでも深くて魅力的なのだ。
深夜の顔を、知りたいと思える人に出会いたい。それが大学生活の、強い願望のひとつなんです私は。そして私も、壁をつくらない人でありたい。
桜は今年も、きれいだった。
大学生活は、始まっている。
素敵な四年間になるように。今後も、もしくはこれからよろしくお願いします。
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