【Second Album】8th Track:ひとはいふなり


 決して人間関係を知った気になるな。そのような教訓を自分に言い聞かせてみる。心を合わせて歌ったとしても、そう簡単に人は仲良くなれない。これが伊織が身をもって知ったことだ。――紫吹との関係は、プラマイゼロといった感じで、志乃吹を介してのみ、彼は紫吹と良い関係を保つのだった。だが、志乃吹という強力な味方を得ただけ、「プラス」に転じたのかも知れないが。


 ――しかし、屋上校舎で奏でるときだけは、時間が止まったように周りの景色が雲の流れが緩やかになった。身体中を使って奏でる音楽が、これほどまでに楽しいものだと思わなかった。紫吹の弾く撥の手は素早く情熱的になり、伊織は甘いテナー調の声で三味線の音を底上げした。

 「ちゅぅーしゅぅにぃー ほすぅー……」

 「なんなんだよ、下手くそ!」

 「うるせぇ。慣れてねーんだよ」

 「伊織さん、珍しい詩を知っているんですね。『西郷 南州の中秋賞月』なんて。音感は微妙でしたけど」

 「お前、知ってるのか?オカマが経営してるボーカルトレーニング教室で教えて貰った詩吟。お袋が行けって……うるさくてよ」

 「あの商店街の一角にはオカマの巣窟(そうくつ)があるって聞いてましたが、噂はあながち嘘では無かったようですね」

 「親父には、必死に止められたけどな……」

 

** 

 中秋月に歩(ほ)す 鴨水(おうすい)の涯(ほとり)

十有余回 家に在らず

 自ら笑う東西 萍水(ひょうすい)の客

 明年何れの処にか 光華を賞せん


 中秋の名月を歌った西郷 南州の詩。詩吟は古くて新しい。それがあの猫叉の言いたいことだったのかも知れない。

 詩人はずっと東奔西走していて、家郷から中秋の名月を見たことがない、浮き草のような生活を歌ったらしい。詩の意味を考えたとき、詩人の生き方が、今の自分だったり、紫吹だったり。はたまた思春期の悩みの最中にある自分らだったり。葛藤や目標を持てない。そんな気持ちが、輝かしい月も見られない曇った心にぴったりの詩だった。


**

 なし崩し的に紫吹と和解した数日前のこと。身体が丈夫なのが取り柄だった伊織だったが、先日雨に濡れて引いた例の風邪。回復したと思いきや、またぶり返して熱を出して寝込んでしまった。

 

 病床で熱に浮かされながら、寝込んでいると、斑尾の白黒猫叉の小うるさい説教が耳元に響き、肉球が熱を持った額に押しつけられる感触がした。

 「おい、若造。それでもおれっちの一番弟子だじぇ?」

 「はっ!?俺は何日寝てたんだ?」

 布団から飛び跳ねるように起きたが、すぐに病み上がりのふらつく身体に当てられて、膝からその場に倒れ込んだ。

 「……バカヤロウ。言わんこっちゃないじぇ」


 朦朧(もうろう)とする頭を抱え、ぼーっとする伊織に対して、猫又は言った。

 「若造。お前には三味線は早すぎるんだじぇ」

 「うるせぇ。五六文に何が分かるんだよ」

 「噂で聞いたじぇ。惚れた女の傷心に付け込んで三味線を教えて貰おうとして、ぶん殴られたってことを。案外メンタルは脆弱なんだな。へへっ」

 「ぐぅ、痛いところをえぐんなよ……大体、俺があの女に惚れたって、誰が……」

ブツブツ文句を言う伊織の額に、五六文は手を置いて言った。

 「お前は三味線なんかよりも、もっとやるべきことをやったらいい……その鍛えた腹筋やよく張った声は飾り物なのか?それを活かさなくてどうするんだじぇ」

 「歌なんて……柄じゃねーよ」

 キレ気味の口調で伊織が言うと、五六文は呆れ口調で言った。

 「また急に血圧が上がって、倒れ込んでも知らんだじぇ。若造、よく聞け。好きな女の尻を追いかけるのは結構だが、『不純な動機』を抜きに和装音楽の世界に触れたいなら、お前は詩吟(しぎん)をやるべきだ」

 「なぁっ?!最近覚えたばっかなのにか?あれやこれや手を出すと、またお袋がうるせぇんだよ……」

 「おれっちが言うのも何だがな、お前は音感のセンスが壊滅的なんだじぇ。だが、お前の親父が連れ回してた『子どものど自慢』だか知らんが、それの影響でお前は声質が良いと思うんだじぇ」

 伊織は、五六文の前で腕を組みながら不満そうに言った。

 「ジジババの趣味なんてやれっか」

 五六文は伊織の後頭部に蹴りを入れた。肢体は軽かったが、寝床で身体の鈍(なま)っていた伊織にはそこそここたえたようだ。

 「つぅー、なにすんだよ!!」

 「バカヤロウ!!それだからお前はダメなんだじぇ。いいか?詩吟はなぁ、中国から漢詩が入ってきて詩を読み解き、吟(ぎん)じて味わう素晴らしいものなんだじぇ。ヒップホップが韻を踏むように、時代時代の音楽で言えばこれも最先端だじぇ」

 「最先端ねぇ……」

 伊織はしばらく考え込んでいた。するとひのが鍋に入ったお粥(かゆ)を盆に載せて部屋に入ってきた。気配を感じたのか、五六文はすっと部屋から出て行った。


 「アンタ、さっきから何を一人でブツブツ言ってんの?」

 「あ、いや……何でも無い」

平静を装う伊織に、ひのは重い表情で口を開いた。

 「あのさ、伊織。黙って聞きなさい。アンタが使ってる三味線、結構お高いうちの組の大切なもんだって、アンタの祖母ちゃんから聞いてきたのよ。孫好きなあの人のことだからアンタに何も言わずに貸してるんだろうけど」

 「そうなのか?(……いつまで練習してもうまくならないんだけどな)」

 心の中で自分のセンスのなさを嘆いた。ひのはしばらく黙ると、一枚の紙を突き出して言った。

 「あれやこれや手を付けるなって言う私がアレなんだけどさ、三味線じゃなくて、歌うことでも始めてみたら?ボーカルトレーニング教室にでも通いなさい」

「は?気が狂ったのか?!」

 「ば、ばか、一週間無料体験ってのが魅力だったからだよ!アンタ、元々声質がよく通って組の連中もいいって評判なんだから。騙されたと思って行ってきなさいよ!」

「なんだよ、気味が悪い。誰かに入れ知恵されたとしか思えん」

 怪訝な顔をしながら伊織はチラシを受け取った。そして、ボーカル練習を母親に促されるままに通って、伊織の音楽センスは、少しずつだが様になり始めていた。

 しかし多忙になり始め、紫吹と会えない時間が少しずつ増えてきた。もやもやが積み重なる中、秋に季節は差し掛かり始めた――。


**

 「……軽音楽?」

 「そう。伊織もやってみないか?お前のボーカリストとしての才覚は、俺が知ってるんだよ。お前、ガキの頃から歌うのが好きだったじゃん」

 声を掛けてきたのは、一学年上の暮崎 藍呉(くれさき あいご)だった。自分の両親が彼の母親との旧知の仲で、その縁あって伊織とも付き合いが長かった。「最近、伊織がボーカルトレーニングを初めて、歌唱力が上がった」と、両親の付き合いから情報が入ってきたらしい。

 はしゃぎ口調で彼は伊織に言った。

 「俺の友人がさ、ライブハウスでドラム叩かせてくれてるんだけど、腹に響く重低音が気持ちいいんだよ。ガキの頃から、和太鼓を叩かされてきたんだけど、どうも辛気くさくってさ。古くて型破りじゃないし、今風の音楽じゃないのよ」

 多少むかっとしたが、伊織も感じる所があった。垢抜けない。……カッコ良くない。地味で鳴かず飛ばず。何かを始めた矢先にモヤッとした誘惑が忍び寄る。

 「あー、悪いっすけど、俺んち、門限が厳しいんです。帰りが遅くなったらなんて言うか……」

 「堅いこと言うなって。酒飲むわけじゃないしさ。これ、クラブの名刺な。ジャズシンガーのメイさんがめちゃくちゃ色っぽいのよ。惚れんなよー」

 綺麗に彩られた名刺には、中世ヨーロッパの赤い屋根の建物をバックに「カプトル」と記されていた。藍呉は笑いながらその場を去って行った。


 「い……お……」

 「あ?」

 振り向くと、紫吹がもじもじしながら後ろに立っていた。

 「あー、バカヤロウ!!もうしらねぇ!!」

 「何だアイツ?」

 抑えきれない胸の高鳴りと紫吹に対する疑問を抱えながら、伊織は名刺を見直した。

 「予定ないし……付き合いだから仕方ねーな」

これがまた紫吹や家族との大きな亀裂を生むとは知らずに、伊織はクラブに行くことを胸に決めたのだった――。


**

 ――誘惑に負けてしまい、伊織は重い鉄の扉の前にいた。力を込めて押し開けると、アルコールの甘い匂い。重厚感がありながら軽快なテクノポップ。木彫りで作られたシックな飾り物が映えるミラーボールが眼下に広がった。未成年がこうしてこの部屋に立ち入っていいものか……と少し疑問を覚えた。

 その奥のステージには、しっとりと黒光りするシンセサイザーが置かれ、赤髪で流し目をした麗しい女性がキーボードを奏でていた。クラブと言うよりも、バーに近い雰囲気。音楽を肴(さかな)に酒を飲む人達は、どこかお洒落に見えたが、自分の立ち入る世界ではないと少し曇った顔をして見ていた。藍呉(あいご)は、呆然と立ち尽くす伊織を見るや否や、ステージに手招きした。伊織がステージの脇に立つと、照明の色が紫に変わり、音楽も変わった。


 「お前ら!今宵は飲み明かそうっ!!喉が枯れるまで歌え。疲れ切るまで踊れ!!」

 甘いボーカリストの声。銀色と黒のメッシュと甘いマスクが印象的だった。

 歓喜の声が上がる。電子音だけではなく、管楽器の音色が響き、カクテルの甘い匂いが漂った。使われない楽器の類いが舞台袖に置かれていた。男女が軽快な音楽に合わせて気持ちよく歌って踊る。――そんな空間だった。

 シンセサイザーを触っていたの女性が立ち上がって、バーカウンターに向かった。すっと舞台演奏の中からピアノの音楽が静かに抜けた。そして、藍呉のドラムが加わり、音楽の質が変わり始める。そしてゆっくりと、伊織の元に歩み寄った。

 「……ようこそ。新入りさん。緊張しているのね」

 「え?ああ……」

 「ここはね、『クラブ・カプトル』。しがらみに捕らわれた、今を忘れたい人達の隠れ家なのよ。老いも若きも忘れてしまった夢を追い求めているの。……私の名前は『東雲 芽衣子(しののめ めいこ)』。ここのオーナーよ」


 芽衣子が伊織をカクテルカウンターまで連れて行くと、辛みの利いたジンジャエールをロックグラスに注いで出してくれた。

 「……幾らですか?」

 「お金はいいの。今日は奢るわ」

 伊織が恥ずかしそうに会釈をする。ステージ上で盛大な声を張り上げて歌うボーカルを見ていると、自分の胸がこみ上げるような気持ちになった。

 「どうしてここに来たの?」

 「藍呉……先輩に誘われたんす。俺が来て良かったのか……来ていい場所だったのか」

恥ずかしそうに頬を掻きながら、伊織は答えた。音楽に関しては赤子同然で、荒削りで音感もない自分がこの場に経っていることの恥ずかしさと言ったら……顔を覆いたくなる。

 「音楽はやるの?」

 「ボーカルを少し……上手くねぇけど」


 藍呉はステージのドラムに加入して、ステージの熱狂に拍車が掛かった。……ズダダンッ!ズダダンッ!身の震えるような重低音は、彼が培ってきた和太鼓の叩き方と似ていたようだった。芽衣子はキーボードを弾きながら静かに語り始めた。

 「カプトルはね……十五年前に出来たの。旅行癖があった私が思い入れのあった旅行先に倣(なら)って、付けた名前なの。あなたは『クロアチア』って国を知ってるかしら?イタリアの対岸にある東欧の国なんだけれど、とっても綺麗なの。ウユニ塩湖とか有名なのよね」

 「旅行好きなんですね」

 「職業柄ね。これでもピアノの仕事、たまに入るのよ。あそこで歌っているボーカルの『菅浦 結衣(すがうら ゆい)』。彼はあなたくらいの頃にバンド結成して、私と一緒に一緒にゲリラライブしてたのよ。楽しかったなぁ」

 思い出に浸り、惚ける芽衣子の話を聞いていると、彼女は仲間をとても大切にしていることがよく分かった。仲間に恵まれていることも。しかし、伊織は疑問に思った。どうしてこの人は音楽活動を続けなかったのだろうか……と。たぐいまれなピアノの才能を持ち、人を魅了する才能を持っているし、仲間にも恵まれている。それなのに、こぢんまりとした小さなクラブのオーナーを経営している。伊織はそれが気になって仕方なかった。


 「メイコ、お喋りしすぎだ。俺らの夢が、……道半ばに終わったことをこのガキに話して慰めになるのか?」

 「道半ばって……」

 伊織が首を傾げながら振り向くと、金環のピアスを左耳に三つ付けたツーブロックの男が彼の頭をくしゃりと撫でた。

 「……トモロウ」

 「『シベリアン・ハスキー』は、五年前に『心陽(こはる)』が抜けてから、解散したじゃないか。諦めきれずに『カプトル』を作ったお前の気持ちを汲んで、俺らも遊びに来てるけど、正直諦めかけてんのよ……家族も出来たし、子持ちで続けるのにも必死ってか……」

 「コハルの話を出さないでよ。ユイも看板に立って盛り立ててくれてるじゃん。『おじさんおばさんになっても続けよう』って、言ったのアイツだったんだから」

 舞台の上で声を張り上げて歌うボーカリスト「ユイ」。歌唱力は絶大で女性の心を鷲づかみにしていた。伊織はその姿を見ながら、痺れる胸の高鳴りを感じていた。

 「アンタさ、名前なんて言うの?」

 ベース&DJ担当の「唐墨 知郎(からすみ ともろう)」が伊織の目を覗き込んで尋ねた。

 「……浅葱 伊織(あさぎ いおり)。先輩に誘われて来たんだけど、なんで連れてこられたのか、未だに理解できてないんだよ。くっそ、俺未成年だぞ」

 「かかっ、わっかいねぇ。ホント羨ましいよ。俺もお前の歳に戻りたいよ」

 突然、腹を抱えて笑い出す知郎。芽依子は「いつもの癖」だからと苦笑いしていた。


 伊織が居心地の良さに目を細めていると、藍呉が伊織の元に掛け寄って来て、無理矢理腕を引いてステージの上に立たせた。「歌え!」そう背中を小突かれて、伊織は恥ずかしながらにやけっぱちで、流行(はやり)の洋楽を歌い出した。荒削りで若干音もずれていたが、それでも必死に喰らいついた。

 「分かってるじゃん、お前!」

 伊織の歌に合わせて、バックベースの奏楽隊が勢いを増し始める。……とても気持ちの良い夜だった。

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